名演
【名演】…すばらしい演技・演奏
本当の芝居は身近なところで繰り広げられている。
おひとりさまの主人公・佳奈が映画館で出くわした光景。
席に着き、佳奈はスマホで時間を確認する。上映開始時間まであと十五分。日曜日に、たまの映画鑑賞だからと張り切って早めに家を出たが、上映までの待ち時間が長くなった。時間ギリギリに劇場に入るよりはマシだが、こういう時間は長く感じる。話し相手でもいればあっという間のことだろうが―
「わざわざ人を誘うほどでもないしなぁ…」
前の彼氏と別れて二年経つが、新しい彼氏を作る気にもなれない。もう二十六歳にもなったんだから早く嫁に行けと両親にはせっつかれているが、ひとりで映画や買い物へ出かけることにも慣れてしまった。
「あっ、この列だよ」
佳奈の前の列の席に一組の男女が座った。ふたりとも社会人だろう。女性は佳奈よりも若い。髪型もメイクも完璧で、アパレル関係の仕事かと想像してしまう。男のほうは女性とは対照的で、長身だが恰幅もいい。クマのキャラクターを連想させる雰囲気だが、眼鏡だけ高級そうで…服装とも彼女とも不釣り合いだ。しかし、世の中には不釣り合いに見えるカップルだからこそ―ということもある。
「この映画、テレビCM見てからずっと楽しみにしてたんだ♪」
「これって監督が、構想五年もかけてて、主要キャストに監督本人が直に出演交渉したんだってさ。ヒロインの水崎あずさ、こないだ映画祭の助演女優賞とったんだよな」
「えっ、そうなの?」
頭の動きと声の調子でしかわからないが、女性の反応に気をよくした男はさらに饒舌になった。主演俳優がこの作品に参加するために数ヶ月前から肉体改造に励み、アクションの特訓をしていたとか、ヒロイン役には二人の若手女優が候補にあがっていたが、一方がバラエティー番組で特技のヌンチャクを披露したのを見た監督が採用を決めたとか、etc―映画雑誌やSNSに公開されるインタビュー記事を見れば誰でもわかる情報を得意げに話した。
佳奈は、前列席の男の薀蓄にうんざりした。純粋に映画の内容を楽しみたい人間には不要なものでしかない。驚いたことに、女性は彼の話にちゃんと耳を傾けて、丁寧に受け答えしている。極めつけに彼女は薀蓄男の豊富な知識を絶賛したのだ。
「山田くん、本当に映画詳しいんだね」
恋する乙女は、好きな相手との会話ならば、内容を問わず楽しいのだろう。
男が満足したところで、劇場内の照明が落ちていく。ようやく上映時間になったらしい。前列の会話が途絶え、佳奈は安堵してスクリーンに意識を集中させた。
鑑賞した映画はサスペンスもの。事件の真相を追う主人公やヒロインは謎の組織につけ狙われ、アクションシーンも満載だった。事件の謎が解明されたときは、そうだったのか!あのシーンが伏線になっていたのか、と膝を打ちたくなる。物語の伏線が終盤見事に回収されて大満足のラスト!なかでもヒロインの表情が印象的だった。追手からの追撃に怯えたり、ときには主人公を誘惑する小悪魔になってみたり…数年前に彼女が出演したドラマを見たが、当時は台詞の言い回しも拙かったのを覚えている。着実にキャリアを積んで成長しているんだなぁと、佳奈は評論家気分で流れるエンドクレジットを目で追った。
薀蓄男の出現で一度はモチベーションが下がったものの、映画本編がすばらしかったおかげで上映時間二時間三十分は瞬く間に過ぎていった。
館内のトイレへ入り、上機嫌でスイーツでも食べて帰ろうかと思いたった、ちょうどそのとき。
「もしもし?電話なんて珍しいね」
隣の個室から声が聞こえる。思いがけない電話をそのまま受けて、話をつづける。
「夕方、合コン?いいよ、適当に理由つけてこっち抜けるから。え?映画?映画はよかったんだけど、一緒に来たヤツがサイアクでさぁ!薀蓄ばっかで、話してて何が面白いの?みたいな」
佳奈は思わず便座に座ったまま耳を澄ました。この声…そして、この内容は。
「どのツラで映画自慢してんだか…お金出してもらってなければ一緒にくるわけないじゃん!合コン、イケメン揃いそう?」
佳奈は急いで個室から出て手を洗い、化粧直し専用の鏡の前でメイクを直すふりをする。やがて、佳奈が入っていた個室の隣から人が出てきた。やはり、あの小柄な女性だ。
個室でぶちまけた不満をおくびにも出さず、手を洗うと彼女は軽やかな足取りでトイレから出て行った。
スクリーンのなかの女優よりも、日常で見かける女の演技のほうが怖い。そのクオリティーの高さゆえに。そして舞台と客席との境界線はなく、彼女たちの寸劇に自分まで巻き込まれているのかもしれない―佳奈はそう思った。
終
最後までご覧いただきありがとうございました。
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余談ではありますが、薀蓄男は実際に映画館で見かけたことがあります。