滅びゆく世界で 1
私が物心ついた時には、すでに世界は灰色だった。
どこまでも続く砂原に、かつての繁栄の欠片が残った廃墟群。枯れ木は所々にあるけれど、命の芽吹きはどこにもない。きっと今では、魔物の方が人間よりも多くて、強者が弱者を喰らう、弱肉強食の世界。大人たちの顔色はいつでも暗くて、そんな中で私たちは子供らしく生きられるはずもなかった。
世界は緩やかに、けれど確実に滅びへと向かっていた。
誰も口にはしなかったけれど、世界の鼓動が弱くなっていることは誰もが気づいていた。
私たちの集落も、魔物にやられたり、病気だったり、たまに天寿を全うしたりして、年々その数を減らしている。数年前までは、他の集落とも少ないながら交流があったのだけれど、あるときから連絡が取れなくなっているから、もしかしたら全滅してしまったのかもしれない。それでも、世界のどこかで生きていてくれたらと願っている。
あとどれだけ、私たちは生きていられるのだろう。
それでも、この滅びゆく世界で私が笑っていられるのは――――
少女は砂原よりわずかに輝きをみせる灰色の髪を揺らしながら、集落の広場で彼らの帰りを待ちわびていた。大人達が狩ってくる魔物の肉と、わずかばかり取れる木の根が、集落の人間の命をつないでいた。
陽が傾き始めたころ、砂原の向こうから複数の人影が見えてきた。その中には、少女が待ち侘びた少年の影もそこにあった。彼らが広場まで辿り着くのが待ちきれなくて、少女は集落入り口まで迎えに駆けていく。
少女に気付いた少年もまた、集落の方へ走り出す。
「ユミト、お帰りなさい!」
「リリィ!ただいま!」
少年と少女――ユミトとリリィは笑顔で手を取り合う。ユミトは早速、懐から今日の戦果を出してリリィに見せる。
「見ろよ、今日は七色トカゲを狩ったんだ。こいつの鱗で、きれいな首飾りを作ってやるからな!」
「ありがとう、ユミト。だけどね、君が怪我しないで帰ってきてくれる方が、私は嬉しいな」
リリィは、ユミトの頬についた切り傷を見つけて、少し切ない気持ちになる。
ユミトとリリィは、この小さな集落で最後の子供だった。子供、といっても二人は十五を数え、もう少しで十六の成人になる。しかし、二人より年下の子がいないため、集落では不本意ながらも子供として庇護されている。
「何言ってるんだ。これは、戦士の勲章なんだ。それにさ、ここに帰ってくれば、リリィが治してくれるだろ?」
「もう、大怪我したってしらないよ? 私じゃ、あんまり大きな傷は治せないんだからね……」
「だから、ちょうど治せるくらいで帰ってきたじゃん」
「得意げに言うことじゃないの!」
リリィはむくれた表情のままユミトを集落の奥へと腕を引いて連れていく。大人たちは口々に優しくおかえり、とユミトを迎え入れ、同時にリリィの様子からまたか、と少しだけ笑顔が灯る。ユミトも律儀にただいまと返事をしながら、リリィの歩調に合わせて進んでいく。
集落の奥には、古く小さな神殿がある。掃除がされて清潔に保たれてはいるが、石造りの神殿はそこかしこに亀裂や割れ目がある。神殿から伸びる石段の階段は一部が欠けているため、躓かないように注意しながらリリィはユミトの腕を引いて中へと入っていく。
決して広くない広間の奥には、女神像が佇んでいた。
リリィはその美しく、慈愛に満ちた笑顔の女神像の前に膝をつき、ユミトもまた隣に膝をつく。リリィは胸の前で手を組んで、女神像に祈りを捧げる。
「慈悲深き深淵におわします我らが女神よ、どうか彼の者にその癒しの手をお与えくださいませ」
リリィの祈りに応えるように、女神像が弱く、淡く輝やき、その光が傍らのユミトに降り注ぐ。暖かな光は、瞬く間に頬の傷を癒していき、紅い線の走っていた頬は、初めから傷などなかったかのように滑らかな肌になっていた。
「さすがだな。何度見てもすごい」
「褒めてくれるのは嬉しいけど、そう何度もさせないでね」
私は、大昔の巫女様のように大勢の人を癒せるわけじゃない。ましてや、世界に蔓延る呪いを解けることもできないの。お願いだから、私が治せる以上の怪我をしないで……。
リリィは言葉にできない願いを胸に秘めたまま、ユミトと大人達のいる広場のほうへ向かっていく。
広場ではすでに、数少ない成人の男たちが今日狩ってきた獲物を運び込み、捌いていた。
「よう、傷は治してもらったか? 半人前さん?」
ユミトを挑発するように話しかけてきたのは、大柄な、この集落の首領を務める男だった。
「もう半人前じゃない。 ちゃんと一人で獲物をとったろ!」
「だが、女の子を悲しませるようじゃあ男としてはまだまだ半人前だな」
ユミトは七色トカゲの鱗を見せながら反抗するが、首領は噛みついてくるユミトを軽くあしらうと、真剣な表情でリリィに向き直る。
「すまないな、リリィ。あとであいつらの怪我も治してもらえねえか」
「もちろんです。その、首領もきちんと神殿へ来てください。何もしないよりは、少しでも……」
そう言って、リリィは首領の左腕全体を覆う包帯を痛ましげに見つめた。
「いや、この呪いは解けはしないんだ。それなら無駄なことしないで、少しでも他の奴の治療に、リリィの力を使ってやってくれ」
世界が滅びに向かったのは、この呪いのせいだという。強大な力を有した魔物からもたらされた、呪い。
魔物に負わされた傷から呪いが全身を駆け巡り、やがて同じ魔物に成り果てる。そして、その魔物がまた別の人間に傷を負わせ、呪う。その繰り返し。そうして、人間は少しずつその数を減らし、やがて文明は壊れ、魔物が纏う毒気で大地は枯れ果てていった。
それでも世界が、人間が過去に繁栄することができたのは、慈悲深き女神のおかげだという。
心優しき女神が、人々の信仰を力とし、神子の祈りを通じて魔物の呪いを祓ってくれたからだ。けれど、今はその女神の慈悲もわずかばかり。
栄華を極め、驕った人間が信仰心を失ったからとも、女神に祈りを捧げる巫女の力が弱まったからだとも言われているが、もはや真相は誰にもわからない。あるのは、この呪いは誰にも祓うことができないという事実だけ。
当代の巫女であるリリィにも、わずかな怪我や風邪を治療するくらいの力しかない。かつての巫女のように呪いを祓うことはできないのだ。
首領は2か月ほど前に魔物から呪いを受けた。傷を受けた左腕から、徐々に呪いが彼の体を蝕んでいる。黒くおぞましい呪いの痣は、すでに肩口まで伸びていて、まもなく全身に広がってしまうのだろう。
リリィはユミトの姿を視界の端に入れながら、広場の隅で休んでいる大人たちの怪我を確認していく。ユミトは大人たちに加わりながら、手際よく魔物を捌いていた。もう少し幼い時分には、よく刃物で指を切ってリリィが傷を治していたが、もうそんな危なっかしさはどこにもなかった。そんな幼馴染を頼もしく思う一方で、自分の無力さに胸が痛む。
ふと、視線を感じてリリィが顔をあげると、ユミトがこちらを見ていた。どうかしたのだろうか、声をかけようとしたら、ユミトが笑顔で唇を動かしている。
(げ、ん、き、だ、せ)
……もしかして、そんなに暗い顔してたのかな、私。
するとユミトが後ろから頭を小突かれていた。どうやら作業の手が止まっていたから怒られたようだ。
話している内容までははっきり聞こえないけれど、ユミトが不満げな顔をしているから何か文句を言っているのだろう。リリィの予想は、今ユミトが拳骨を食らっているから当たっているに違いない。
「ふ、ふふっ」
そんなユミトの様子を見て、思わず笑顔がこぼれる。リリィはさっきより幾分か明るい表情で、手当てをするための道具を取りに広場を離れた。
――――私が、笑っていられるのは、ユミトがいるからだよ。