クイーン
人間達は名前の他に家名というものを持っていた。チェルミナートルにはあまり理解出来ないことだったが、人間は親の家名――多くの場合は父親のもの――を引き継ぐのである。どうやらそれは数が多い人間の識別性を高めるためであるとチェルミナートルは朧気に理解していたが、それ以外の価値ついては全く知ることはなかった。
ベイル・ペイン中将は名高いペイン家の出身である。多くの軍人を輩出してきた貴族の家系。その中でもベイル中将は最も出世した一人だった。
そんな彼が苛立たしげに机を叩きつけると、周囲の喧騒はすぐに収まった。
「陛下は本当にそう仰ったのか?」
「はい。八千で防衛せよ、夜襲は不要であるとのことです」
ベイル中将は唇を噛み、それから低く唸った。
「何故分かって下さらぬのだ。三千。三千の要請。無理な数ではあるまい」
ルガーテの王ハークス・ルガーテ。齢二八の若い王は、防衛以外に興味がないようだった。ベイルの援軍要請は今まで尽く蹴られ、防衛だけを命じられ続けた。
このウェス・ルー砦には現在の八千のルガーテ兵がいる。対する侵攻側のベーリアンは二万。ルガーテはひたすら防衛し続け、ベーリアンが兵糧の問題によって撤退するのを待つしかなかった。
ウェス・ルー砦の士気は最低だった。ベイルは兵を鼓舞しようと日々奮闘しているが無駄に終わっている。王は、士気が戦いに与える影響など知るまい。ベイルは焦りを覚え始めていた。
「せめて一度だけでも良い。士気を維持できる程度に反撃をしなければ」
その時、聞き飽きた笛と太鼓の音が響き渡った。ベーリアンに動きがあったことを知らせる音だ。うんざりしたようにベイルは立ち上がり、立てかけていた弓を手に取る。
「ルガーテの誇りを見せつけろ!」
砦の周囲に布陣したルガーテ兵八千。対するベーリアンはおよそ二万。ベイル中将はまともに戦うつもりはない。適当にちょっかいをかけて、少しでも不利になれば砦へと戻る。その繰り返しだ。この戦力差で、それ以外の戦法はあり得なかった。
◆ ◆ ◆
「へへ、見ろよ。あの布陣、あいつらすぐに逃げ出せるように用意してやがる」
見下すような笑みを浮かべるこの男、名前はチェイ。ベーリアンの指揮官だった。軽薄で残虐な男として知られている。
「しばらく戦ったら少しずつ撤退するように指示しろ」
「はっ!」
性格に難あり。嫌われ者のチェイだったが、戦においてはそれなりに優秀だった。爬虫類を思わせる細い目を更に細め、舌なめずりする。
「ずっと押されてたんだ。突然の優勢、敵の雑魚兵どもが食いつかない訳がないだろう?」
チェイの指示通り、数で優勢なベーリアンが少しずつ撤退を始める。空からでも見ればそれが優勢を保ったままの撤退であると分かっただろうが、地を這うルガーテの兵たちにそれが分かるはずもない。ルガーテ兵は好機と見て、撤退を開始したベーリアンに向けて殺到した。
秩序だった撤退をするベーリアン。深追いしたルガーテの兵たちは返り討ちにあっていく。そういった光景がしばらく続いてから、ルガーテの兵たちはようやく前線の押上げを中断した。
「ちっ、敵の指揮官にばれたな。まあ良い。ぶっ殺せ!」
チェイの命令通り、ベーリアン兵による蹂躙が始まる。ルガーテはようやく撤退を始めたが、既にウェス・ルー砦から大きく距離を取ってしまっていた。
「あいつらが砦に逃げ込むまでまだまだ楽しめるな」
笑うチェイ。傍に置いていた女奴隷を引き寄せ、それからその目を大きく開かせた。
「ほーら、故郷の兵士たちが殺されてまちゅよー。大変でちゅねー?」
女奴隷は抵抗する素振りも見せず、ぼんやりと戦争の様子を眺めている。チェイは舌打ちして、女奴隷を蹴り飛ばした。
「反応がなくなってきてつまらねぇな。もう壊れちまったか? 糞が」
周囲の兵たちがチラチラと様子を伺っていたが、チェイはそういったものを意に介さなかった。何度か女奴隷を蹴った後、独り言を呟く。
「逃げるだけの敵に糞みてぇな奴隷。何か新しい刺激はねぇもんか」
そんな彼の言葉に答えるように、森付近に展開していた左翼の部隊から悲鳴が上がる。チェイは慌てて立ち上がり、そちらへと目を向けた。
チェイの目に入ったのは鋼鉄の馬車のようなものだった。それが左翼の部隊の中へ突撃してきたようである。
「何だありゃ」
よく見れば馬車は二両。また、他に二騎の騎馬が同じように左翼部隊の中を荒らしまわっているようだった。
初めて見る兵種。チェイは少し興味を持ったが、所詮馬車、すぐに死ぬだろうと考えた。二両の馬車と二騎の騎馬兵に何が出来るのか。
実際、騎馬兵の乗り手はすぐに引きずり降ろされ、ベーリアン兵たちによって串刺しにあっていた。鋼鉄の馬車も、引いている馬を殺せばすぐに止まるだろう。
チェイの興味はもっと別の場所にあった。何故あそこに兵を投入したのか。あの馬車は何をするために突撃したのか。
チェイの疑問はすぐに溶けた。右翼から爆発音が上がったのだ。陽動。チェイは慌てて右翼へと馬を走らせる。
ベーリアンの右翼に展開していた部隊は魔法兵だ。通常の兵と同じように剣を帯びてはいるが、剣技の訓練は殆ど行なっていない。そんな彼らだったから、突然の襲撃には非常に弱かった。
繰り返される爆発。吹き飛ぶ肉片。貴重な上に貴族で構成されている魔法兵は奇襲を受けた場合に撤退が義務づけられている。軍規通りに撤退を始める魔法兵たちだったが、その撤退は他の兵による援軍とぶつかり合い、結果、小さな混乱が発生した。
「馬鹿かてめぇら! さっさと襲撃者を殺せ!」
チェイは剣を抜き、怒号を浴びせる。何度か起きている爆発から、敵にも魔法兵がいるのは明白だ。だが、爆発の魔法など戦場ではあまり見ない。ルガーテ兵に多いのはファイア・ボールの魔法だ。
再び爆発。チェイの横に立っていた男数人が吹き飛んだ。息を呑む。並大抵の威力ではなかったからだ。そして、チェイは見た。深い緑のローブを着た二人の男。あれか。チェイの目が光る。
「あの魔法兵を殺せ! 緑のローブを着た二人組だ!」
命令を受け、兵士たちが走り始める。だが、それは大柄な兵士八人によって阻まれた。剣と剣が打ち合う。
「少将! 後方からも敵が!」
「何だと?」
チェイはいくつかの考えを立てた。ルガーテに奇襲を成功させるほどの戦力があるか? 否。臆病者として有名なルガーテの王がこんな作戦を指示するか? 否。敵の指揮官であるベイル中将なら? あり得る。だが、成功するはずがない。つまり、見せかけだけの奇襲だ。複数の場所で奇襲をかけ、混乱させるのが目的。
チェイはそう結論づけると、大きく叫んだ。
「敵の目的は俺たちを混乱させることだ! 逃げるな! 戦え! 敵は多くない!」
応、と答える声。チェイは後方に馬を飛ばす。左翼と右翼の奇襲は共に陽動。敵の狙い後方だとチェイは考えていた。そして、それは当たっていた。
女王。一目見て、チェイはそう思った。
空に一人の女が浮かんでいる。仮面を被っていて顔は見えない。血のように赤いローブに頭には王冠。
後方の部隊上に浮かぶ女王は、甲高い声で笑いながら聖句を唱える。氷柱がベーリアン兵たちを貫き、その生命を奪っていく。
「あんな高位の魔法使いがいるなんて聞いてねぇぞ!」
チェイは慌てて馬を止める。空に浮かぶ魔法と、氷柱の魔法、共に珍しい魔法だ。そこら中にいるような魔法兵ではない。
そして。そして、恐ろしいことに、その高位の魔法使いと、僅か五十程度の敵にベーリアンの兵が蹂躙されているのだ。先程まで狩る側だったチェイは、この状況を上手く飲み込めないでいた。
そして、最も危惧すべきは五十程度の兵だけで後方から攻めてくるはずがないということ。つまり、他にも伏兵がいるから彼らは攻めてきているのだとチェイは考えた。
「少将! 前方のルガーテ兵が転進してきます!」
「糞がっ! 退けっ! 下がれっ! 左右の林に逃げろ!」
チェイは叫びながら、後方の軍勢へもう一度目を向けた。そして、その肌の色に気づく。
「あれは……」
その後、チェルミナートルによる狩りは執拗に続き、ベーリアンはウェス・ルー砦から敗走した。