刃煉多飲
バレンタイン話です。
「一郎、大変だ! 刃煉多飲だ」
洗濯物を畳んでいると、犬兄がそんな事を叫びながらドタドタと走ってきた。犬兄は、犬の妖怪だからか鼻が利き、家の中ならどこに居ても俺の居場所が分かる。
「そう言えば、バレンタインは今週だったっけ」
というか、正確には明日か。
カレンダーを見て気が付く。特に俺には関係ないイベントなので、スーパーにそう言った商品が並んでいるなとは思ってはいたけれどそれほど気にしていなかった。
「何、呑気な事を言ってるんだ。死ぬ気か?!」
「死ぬ?」
あれ? バレンタインってそんなイベントだっけ。
それとも、死ぬというのは比喩表現なのだろうか。チョコレートをもらえないのは毎年のことだし、俺としてはそこまでバレンタインにこだわりもない。義理チョコをもらってうれしいかと言われても、チョコレートがすごく好きというわけでもないので、特に……としか返しようがない。
「だって、刃煉多飲だぞ」
「女の子からチョコレートをもらえないからって、少し大げさじゃ」
そう言ってみたものの、犬兄の場合どうなんだろう。
紅兄はたぶん、今年はいっぱいもらってくると思う。去年は紙袋いっぱい持って帰ってきて、1年はチョコレートを買う必要がないなと思ったぐらいだ。
どうやら職場で貰ってきたようだけど、出待ちもあったそうで、流石正統派美形としかいいようがない。
石姉も大学の友達から友チョコといっていっぱいもらって来る。石姉は女ではないので、本当は友チョコではなく、本命もあるんじゃないかなと思うけれど、この辺りまで聞くのは失礼な気がして、俺は聞いた事がない。
ただ犬兄の見た目は、間違いなく不良だ。実際犬兄は、この辺りの不良を統括している番長のようなもの。あまり女性との縁はない気がする。でも密かに不良系女の子に人気だったりするのだろうか。
「女からのチョコなんて問題ないんだよっ!!」
「あ、そうなんだ」
確かに、犬兄は実は犬の妖怪だ。大切なのは女ではなく、雌かもしれない。
でもだったら、どうしてこれほどまでにバレンタインに過剰反応するのだろう。
「問題は、あのオカマの特製ホットチョコレートだ」
「へ? オカマって……もしかして、石姉の事?」
実際は、石姉はオカマではなく心は日本男子らしいので、微妙に違うのだけど。でも、犬兄がオカマがという事は石姉の事だと思う。
「そうだ。そう言えば去年は一郎、学校に行っていて昼間はいなかったもんな」
「うん。たぶん小学校に行っていたとは思うけれど」
去年のバレンタインの日は平日だったので、小学校に通っていたと思う。11月ぐらいからこの家にお世話になる事にはなったけれど、卒業までもう後少しだったので、転校せずに電車で小学校に通っていたのだ。
なので、家に帰るのは必然的に少し遅くなっていた。勿論日中は家にいない。
「あの、カマ、バレンタインは女の子を可愛くするイベントだから、チョコ作りに挑戦するとか言って、悪魔の飲み物を作ったんだ」
「可愛くする?」
「バレンタインは、チョコレート菓子作っている私可愛い、みたいな感じのイベントなんだとさ」
うーん。そうなんだろうか?
まあ確かに、バレンタインだと、普段料理をしなれていない女の子も挑戦するようなイメージはあるけれど。
石姉は男物だろうと女物だろうと、モデルのようにきっちり服を着こなす。確かにエプロンもきっちり着こなして、お菓子作りの道具もメルヘンさを醸し出すアクセサリーの様に使っていそうではある。
「でもあのカマがやっていたのは黒魔術だ。刃煉多飲のバは、刃が口の中刺すようなエグサのバ。刃煉多飲のレンは、口の中を焼き殺し味覚をマヒさせるような煉獄の炎のレン。刃煉多飲のタインは、そんなとんでもない大量の飲み物が出来上がるという恐怖を表してるんだ」
えっと、つまり犬兄が言っているバレンタインは刃煉多飲という事だろうか。
「なんだか暴走族みたいだね」
夜露死苦みたいな。
「暴走族の方がまだマシだっての」
「暴走族の方がマシって……。でもホットチョコレートって、確かチョコレートを溶かして、牛乳と合わせるような感じだったし、失敗する要素が見当たらないんだけど」
何をどうしたら失敗するのだろう。
たぶんただ溶かして固めるチョコレートよりも、更に難易度が下がる気がする。これで失敗とか、逆に難しくないだろうか。
「それを失敗できるのが、アイツなんだよ。なんだっけ、すぬーぴーか、すむーずか分からないけど、なんか、健康にいいから野菜ジュースみたいなの流行ってるだろ?」
「えっと、スムージーの事?」
犬兄が何をいいたいのか最初は分からなかったが、野菜ジュースでピンと来た。テレビで何度か見た事がある。フルーツや野菜をミキサーにかけるだけのもので、これもまた失敗知らずなメニューな気がする。
いや、でも……どうしてチョコレートの話をしているのに、その野菜ジュースの話が上がるのだろう。
「そうそれだ! カマの奴、料理ができないくせに、料理は美容と健康を考えないといけないとか言い出して、チョコレートと、野菜を混ぜたんだよ。しかも苦みが強いほど体にいいのとか言い出して、ゴーヤとか、ピーマンとか入れて、更に様ねぎは血液をサラサラにするとか言って追加して……あれは、まさに劇薬としか言えない飲み物だった」
あっ、飲んだんだ。
というか、飲まなければ、味の感想は言えないか。全体的に未加熱、水さらしなしで食べるものではないものが入っているし、それとチョコレートが出会った時、どんな化学反応が起きるのかも想像がつかない。でも2月にゴーヤを見つけてくるあたり、石姉の本気を感じる。
「大体、カマがチョコとコラボレーションしたって、可愛いわけないだろうが。むしろ、料理に対する冒涜だろ?! というわけで、あのカマが、再びそんな暴挙に出ないように、力を合わせて――」
「誰がカマよ、この馬鹿犬っ!」
ゴツッ。
鈍い痛そうな音が犬兄と買い物袋が接触したことによって鳴った。大丈夫だろうかと思うが、日ごろ喧嘩慣れをしている犬兄にはどうてことなかったようだ。鈍い音はなったが、それによって吹っ飛ばされることなく留まり、鋭い眼光を石姉に向けた。
「この家に、カマなんてお前しかないだろうが! なあ、一郎!」
「私は服に似合った行動を取るだけで、心は日本男児よ!! ねえ、いっちゃん!」
うーん。
確かに一般的に男性が女性の恰好をすればオカマと言われても仕方がないようには思う。でもそれを言ったら石姉は怒るだろうし、石姉の性格はどこまでも男らしいのも知っている。
「えっと、良く分からないけど。石姉、何を買ってきたの?」
「去年、そこの馬鹿犬に散々不味いだの、この世のものではないだの言われたからね、リベンジしようと思って、バレンタインの食材を狩ってきたのよ」
買ってきたが、狩って来たに聞こえたのは気のせいであって欲しい。
石姉が右手に持った袋からはネギがみえており、左手に持った袋には赤い液体のようなものが半透明のビニール袋から透けて見える。……あれ、お肉だよね。
チョコレートとお肉とネギ。……まったく出来上がりが想像できない。
「えっと、石姉。何を作るの?」
「勿論、私は今流行りのスムージー男子になるの」
「えっ?」
「えって嫌ね。確かに女の恰好が似合っているけど、私は日本男子なのよ」
俺が疑問形の声を出したのが、スムージー男子という言葉に反応してだと思ったようだ。だけど俺がびっくりしたのは、その袋から見えているものが、その料理にまったくもって似合わない点だ。
「その肉はどうするんだよ」
「前回、アンタに散々マズイって言われたからね。アンタが好きな肉を入れようと思って、狩って来たのよ。だから新鮮よ」
入れるって……入れるって、野菜ジュースにだろうか。
えっと、加熱して入れる気なのか、それとも未加熱――。犬兄なら、未加熱でいけるかもだけど……いや、色々無理だよなぁ。
「ふざけるなっ!」
「ふざけてないわよ」
「ふざけてないなら、なお悪いわっ!!」
うん。……確かに、これは、犬兄に同情する。たぶん出来上がりは、黒魔術だ。何か新しい生物が生まれてしまうかもしれない。
「石姉。あのさ」
「何、いっちゃん?」
「俺、今年は皆に日頃のお礼でチョコを上げたいんだ。だから、今年は俺にやらせてくれないかな?」
チョコレートは普通にチョコレートで食べて、残りの材料は、鍋にすると美味しそうだ。というか、その方が、食材も幸せな気がする。彼らが、鍋になりたがっている、声なき声が聞こえた気がした。
「日頃のお礼って、いっちゃんはいつも料理をしてくれているじゃないの」
「うん。でも、したいんだ。皆がいつも美味しそうに食べてくれるから、嬉しいんだ」
正直な気持ちなのだが、微妙に照れる。
「あーもう。何ていい子なの」
抱き付かれたかと思うと、ぐりぐりと頭を撫ぜられた。
「石姉に食べて欲しいんだけど駄目かな?」
「いいわ。この食材もどんどん使って。血液をサラサラにする玉ねぎや、納豆とか、色んな食材が入ってるから」
「何ってもの買ってるんだよ?!」
……買い物袋を受け取りながら、あきらかに菓子づくりには使わなさそうなものが多いなぁと思う。挑戦はいいけれど、どこに向かおうとしているのかが謎だ。着地点がみえない。
だけどそれを口にしたら、この騒ぎはまたふりだしに戻りそうだ。というか、既に犬兄がふりだしへあえて特攻しているようにしか見えない。
こうなったら、最後の手段だと、俺は以前ネットで読んだ知識を披露した。
「そう言えば、犬に玉ねぎとかチョコレートは毒らしいよ」
その後大風一家の胃袋と台所は守られたけれど、犬兄の精神は守れずに一郎に犬扱いされたといじけられた。
ただこの時の俺らは気が付かなかった。1ヵ月後に、捕賄徒dayが控えている事に。