12章の3
「イクさんっ!!」
俺はとにかく叫ぶように彼女の名前を呼んだ。ころりと転がった顔には傷はないが、体の方には首筋から胴にかけて斜めに亀裂が入り血が流れている。
膝をついた体はぐらりと傾けそのまま地に臥した。
慌てて駆け寄ると、扉はばたんと音を立てて閉まり、出口がなくなった。でもそんな事はどうでもいい事だ。俺は倒れ伏したイクさんの傷口を押さえる。
「イクさん、しっかりして」
どうしよう。妖怪も人間と同じでやっぱり血がなくなると死んでしまうものだろうか。
「いち……様。……逃げて」
「無理だよ。そもそも俺一人じゃここから逃げられないんだから。逃げるなら、イクさんも一緒に決まってるだろ。大体、どうやってというか、何で来たのさ」
体育館で震えていたくせに。
危なくなったら裸足で逃げるって言っていたのに。イクさん、逃げる方向間違っているよ。
「校舎の中……なら……空間をつなげれるのですが……。何で……でしょうね」
「そんな疑問形で返さないでよ」
俺の声はまるで鳴き声のように震えていた。イクさんの体から徐々に色素が抜けていくのを見つめるしかできない。妖怪ってどういう作りになっているのかは知らないけれど、床が透けて見える状況は絶対ヤバい。
何でこんな事になっているんだろう。
「イッタン、聞こえてるんだろ?イクさんは無関係だよ?!」
俺は空を見上げて叫んだ。
このままではイクさんが消えてしまう。俺がこんな事になっているのは自業自得だけどイクさんは違う。十中八九、俺がここにいるから来てくれたんだ。でなければ、裸足で逃げろと豪語したイクさんがあえて危険に近づくなんてありえない。
「イッタン、お願い!!マジで、イクさんがヤバいんだって!!」
なんとかしてあげたいのに、俺ではどうしてあればいいのか分からない。血は流れ続けているし、イクさんはどんどん薄くなっていく。妖怪にも医者が居るのだろうか。もしそんなのが居ないならば普段はどうしているのか教えてもらいたい。ここにいるのが俺でなく兄弟だったら、もっと的確に動けただろうに。
しかし俺がどれだけ悔もうとも、イッタンの声は聞こえなかった。ごうごうと耳鳴りのように風の音だけが木霊する。
「私は……もう……。早く……にげ」
「嫌だっ!!」
俺はイクさんの声をさえぎって叫んだ。
それは嫌だ。俺の所為で、誰かが死ぬなんて絶対ごめんだ。俺は親の死なんて重いものを背負っているのだ。これ以上背負うなんてできないし、したくない。
ああそれにしても、風の音がうるさい。
俺がこんなに不安で混乱してるのに、イッタンは何も言わないし。風の音は耳触りだし。
「そんな事……いわず。約束……を」
「あーもう、五月蠅いっ!!」
不安や色んなものが積み重なって、ぷつんと俺の中の何かが切れた。
俺は血まみれの手を服の裾で拭うと、イクさんの頬を引っ張る。
「ひ、ひいろうはま?」
「元々首と体が永遠にさよならしてるんだから、少し切れたくらいで、死にそうにならないでよ。俺に何背負わせようとしているわけ?」
相手は怪我人。そう分かっていても、イクさんの顔は無傷なのでその事がすぽんと抜け落ちてしまったみたいだ。遠慮なく頬を引っ張る。
しかしそんな雑な対応が幸をそうし、イクさんの色素が少しだけ濃くなった。うん。つまりは気力の問題って事だよね。病は気から!死相も気から!
「へっと……」
「俺の為に死んだら、恨むから。末代まで祟ってやるから」
「ほへは、むひほひふほほでふ」
「何言ってるか分かんないよ」
縦縦、横横、丸描いててちょん♪
俺はイクさんのほっぺを縦横無尽に引っ張り堪能すると、手を放した。そして絵画から生えている腕を振りかえる。そもそも元凶はこの鬼だ。
ぐっすりお休みのところを叩き起こされたようなものだし、その生い立ちは同情はするが、今の現状は迷惑以外の何物でもない。さらに親友のイクさんまで巻き込んで怪我させるなんて、謝罪と賠償要求されてもおかしくないレベルだ。
「大婆様!」
大きな声で呼びかけると、一瞬風の動きが緩んだ。一応は俺の声に反応してくれるらしい。言葉が通じるのだとしたら話は早い。
「俺とは初めてお会いすると思いますが、俺は鬼姫さんの孫です。なので大婆様と呼ばせて頂きます」
返事はないが、俺はそのまま話を続けた。腕しか復活してないので、声が出せないのかもしれない。
「大婆様、ここで倒れているイクさんは、俺の親友です。お婆様がむやみに風を吹かせるから怪我をしてしまいました。どうしてくれるんですか?!」
耳もないので、もしかしたら聞こえていない可能性もあるが、さっき反応したので聞こえる事前提に話を進める。今立ち止まったら、もう一度話しかける気力は俺にはない。
「それに、この空間。俺の母校に変な基地作らないで下さい。迷惑です。やるなら、別の場所で俺に関わりなくやって下さい。それが無理なら、止めて下さい」
風は止まらない。少しだけ緩やかにはなった気がするが、無風には程遠い。
やっぱり駄目かという残念感が漂うが、ここで引いたら負けだ。負けても別に困りはしないが、イクさんを助けられないのは困る。
「大婆様、聞いていますか?!俺は、迷惑と言ったんです」
俺は腕の方へ近づいた。腕は生々しくて気味が悪いが、どこかぷっつんしてしまった今の俺は、怖いとは思わなかった。それよりも傍迷惑な親類に絶賛絶望中だ。この傍迷惑な腕の血が自分に入っている事を考え出すと、さらに三割増で絶望できる自信がある。でも打ちひしがれるのは後回しだ。
爪も伸び放題な腕を俺は両手でつかんだ。日焼けなどない真っ白な腕だったのできっと石膏のように固く冷たいのだろう。しかし予想外に自分自身の手のひらには体温が伝わる。さらに力強く脈波打つのを感じた。
彼女は呪いのオブジェじゃなくて、確かに生きている。
俺はその事実に気がつくと両手に力を込め握った。
「大婆様。今までちゃんと墓参りしなくてすみません。寂しかったんですよね」
封印されたというのはどういう状態なのか分からない。意識があるのかないのか、眠っているようなものなのか。それでも彼女は生きているのだ。一人というのは寂しい。
俺もずっと寂しかった。
今寂しくないから言える事だけど。
「でももう止めて下さい。俺の大事な人を気づ付けないで下さい」
風の動きがさらに緩んだ。
「俺は鬼姫さんに拾われてから、申し訳ないぐらい幸せなんです。妖怪とか人間とか関係なく、好きな人がいっぱいできました。大婆様の生い立ちには同情しますし、人間が嫌いと言われて俺もひとくくりにされても仕方ないかもしれないですけど」
イッタンが言う様にすでに俺は妖怪かもしれない。でも俺自身はずる賢い人間のままだ。もしかしたら大婆様は俺の事が嫌いかもしれない。……いや、現状を考えると、絶対嫌いだよな。
だけど――。
「俺は大婆様が好きです。鬼姫さんを産んでくれてありがとうございます。大婆様のおかげで今の俺がいます。だから貴方の恨みも悲しみも、背負います。皆が忘れても、俺は貴方を忘れません」
俺が大婆様にできる事はそれぐらいだ。
俺には大婆様が復活する事を願う事は出来ない。それは俺の大切な人を傷つける事だから。
「だから、ゆっくり眠って下さい」
風が止まった。
同時に全ての風が俺の中に吹き込む。実際は違うのかもしれないが、体の中で風が暴れているように感じた。体が悲鳴をあげて軋んだが、俺は必死に大婆様の腕をつかんで堪える。
きっとこの苦しみが大婆様の苦しみだから。
パリンとガラスが割れるような音がして俺は顔を上げた。もしかして自分自身が壊れてしまたのかと思ったが違った。空間にひびが入り、崩れた場所から校長室が見える。
「……戻った?」
徐々に薄暗い景色は崩れ落ちていき、元の学校が顔を出す。
これでイクさんが助かる……。
ホッとすると同時にくらりと体が傾く。自分自身を支えるように握っていた大婆様の腕が、薄暗い空間が消えると同時に消えてしまったのだ。俺の手が宙をきる。
「いっちゃんっ!」
「一郎っ!」
「一郎君っ!」
兄弟の元気な声が聞こえて、俺はほっと息をはく。
もう大丈夫だ。……良かった。
俺の意識はそれを最後にブラックアウトした。