8章の2
汚れたから浄化すると言われ、俺は和栗さんの家にやってきた。
和栗さんの家へ向かう間、俺も和栗さんも終始無言だった。彼女にとって妖怪を消す事は当たり前で、俺にとっては当たり前でない。ただそれだけの違いで、俺は何を話せばいいのかも分からなくなってしまった。
本当ならばお礼を言うべきはずなのに、俺の頭から猫のきらきらした目が消えないくて、言葉にならない。
「こっちよ」
神社の脇をすりぬけたあたりで和栗さんは俺に声をかけた。それに答えようと声をだそうとするが旨く出せず俺は首を縦に振る。
「よっぽど怖かったのね」
呆れたように和栗さんがため息をついた。
そうだろうか。……そうかもしれない。
皆と一緒に暮らす事を俺は甘く考えていた。人間と妖怪に違いなんてないと思っていた。でも違った。その事が怖かった。
神社から離れた場所に、和風な建物が現れた。平屋の作りだが、鬼姫さんの家より倍くらい広そうだ。
「ただいま」
がらりと音を立て開けられた玄関の前には、こじんまりとしたしわくちゃな何かがいた。
「うわっ?!」
声が出ないと思っていたのに、俺の口からは簡単に驚きの悲鳴が上がった。人間って、ほんと現金な生き物だよな。
「おかえり、陽」
しわくちゃな何かは俺の驚きに気にせず、挨拶を返した。ん?今名前呼んだよね?……それに妖怪にしては和栗さんも普通だ。
「じいちゃん、幸田が妖怪に襲われたの。清めた方がいいと思ってつれてきた」
じいちゃん?!
しわくちゃな何かは、妖怪ではなかった。しわくちゃな何か……おじいさんと和栗さんを見比べる。お爺さんは小柄な和栗さんよりさらに小さくて、玄関の段差があるのに和栗さんより頭の位置が下だ。目元が和栗さんと似ているような……似てないような。時の流れって残酷だよなぁ。
「あ、いつもお世話になってます。手土産も持たずにすみません」
少し遅れて俺は挨拶をした。
「ええよ。そんなもん持ってこんでも、気軽においで。そういえばこの間食べた扇屋の羊羹、あれは旨かったのう」
「……次来る時はそれを買ってきますね」
さらりとリクエストまでされて、俺は苦笑した。なんか、凄い爺さんだ。
「じいちゃん。私はお風呂を用意してくるから」
そう言って和栗さんはさっさと中に入って行ってしまった。……えっ。ちょっと、俺そうしたらいいわけ?
置いてきぼりにされた俺は、とりあえず爺さんに愛想笑いをしておいた。
「風呂が沸くまで少し時間がかかるじゃろ。ほれ、上がりなさい」
「あ、はい。失礼します」
なんだ、家に入る前に食卓塩をふりかけられるんじゃないのか。俺は普通の対応に逆に驚きながらも玄関をくぐった。
家の中もいたって普通だった。巫女さんの格好で走り回るぐらいだから、和栗さんの家はどれぐらい突飛なのだろうと思っていただけに肩透かしだ。壁にお札の一枚も貼ってない。少し信仰心というか不思議系に偏っているものをあげるなら、玄関先に飾ってある赤べこぐらいだ。でも量産型のお土産っぽいし、いわくつきではないだろう。
靴を脱ぐと、一段上がる。
「まずはこっちへ来なさい」
爺さんに促されるまま俺が進んでいくと、洗面台までついた。そこへすっとコップが差し出される。
「うがいをしなさい」
……綺麗好きなんだなぁ。
俺は渡されたコップに水を入れると、口に含んだ。すると塩辛い味がして、思わず噴き出す。
「げほっ……ごほっ……なんですか、これ」
「塩水じゃ。ほれ、ちゃんとうがいせんか。浄化にもなるし、風邪予防にもなる。一石二鳥じゃ」
一石二鳥って言われてもなぁ。浄化と風邪予防って同等に扱うようなものだっけ。そう思いながらも、俺はコップに入っている水でうがいをした。
「人間そんなに簡単に汚れん。神様に会いたいわけでなければ、塩水でうがいするぐらいで十分じゃ」
「ぺっ。……そうなんですか?」
でも和栗さんはお風呂を沸かすと言っていた。あれはたぶん間違いなく俺の為だろう。
「陽は神経質なんじゃよ。母親が妖怪に襲われた時の影響で亡くなったからのう。あれは相手が悪かっただけじゃが、陽はそれ以来汚れに敏感になってしまった。じゃから、今日のところはつき合ってやっておくれ」
冷や水を浴びせられた気分だ。
妖怪の所為で母親が?俺は何も言えず固まった。
「まあ、いずれにせよ妖怪に襲われたらしいが、お前さんには何の問題もない。心配せんでもいい」
「……はぁ」
俺が固まったのを、妖怪に襲われた影響で死ぬ人もいると聞いたためだと思ったらしい爺さんはパンパンと俺の背を叩いた。
「妖怪を皆が信じておった時代には物忌みと言われ家の中にこもる事もあったそうじゃが、あれだって大半は貴族のずる休みじゃ。信じていた時代でもそのような風に使われておったんじゃ。あまり気にやまん事が一番じゃ」
「……まるでその時代を生きていたみたいですね」
いや。いくらしわくちゃでも、そんな妖怪を信じていた時代を生きるほどの長生きではないはず。
爺さんはほほほっと笑った。
「いくら年寄りでもわしは大正の生まれじゃよ」
「ですよねー……」
「今の話はのう、古い知り合いに聞いたんじゃ。この家もわりかし古いが、貴族が物忌みしておったころの古書は流石にないぞ」
「あの、それってつまり。……えっと、もう少し新しい古書はあるって事ですよね。もしかしてこの辺りの鬼の伝承も載っているんですか?」
そういえば、元々俺は和栗さんに鬼の伝承を教えてもらおうとしていたはずだ。猫の妖怪ですっかり忘れていたけれど。
「幸田が禊をしている間に鬼の文献は私が持ってくるよ」
不機嫌そうに和栗さんが声をかけてきた。そういえば、今日は忙しって言っていたし、俺超迷惑だよね。
空気を読んだ俺は慌てて頭を下げた。
「あー。和栗さん、本当にごめんね。別に忙しいなら文献の方は後日ゆっくりで――」
「……陽でいい」
「へ?」
「和栗と呼ばれると、家族が皆反応してしまうから。ややこしいから、陽でかまわない。代わりに私も一郎と呼ばしてもらうわ」
「あ、……うん」
一方的に命令された俺は、言われるままに頷いた。ややこしいと言われればそうかもしれない。俺的には今のところ不便はないが、他の家族が帰ってきたら確かに面倒そうだ。
……とりあえず鬼の文献は頼んでもよさそうだよね。
「じゃあ、お願いします。陽さん」
改めてお願いすると、陽さんは満足げに口の端を上げた。