8章の1
結局和栗さんの家に訪問は後日になった。
良の予定が合わなかったのと、突然和栗さんが仕事が入ったと言って帰ってしまったからだ。……特に家族からの電話とかなかったのに、仕事が入ったってどうやって分かったんだろう。いや、そもそも中学生なのに仕事って何?
「和栗さんって、不思議っ子だなぁ」
いきなり仕事が入ったり、呪文を唱えたり、変なものが見えたり……まるでアニメの魔女っ子や美少女戦士みたいだ。妖怪がこの世にいると知っていなければ、俺も引いていたかもしれない。
そう考えると、妖怪の存在を知らなくても普通につき合える相田さんとか良って凄い心の広い人間だ。
「にゃー」
「……ん?」
和栗さんから情報を貰わない限りとりあえず、やることもない俺は、家へと向かっていた。その途中で猫の鳴き声が聞こえ足を止める。
見渡すと、公園の方で黒猫が鳴いていた。黄色い目が俺をじっと見ていた。野良猫だろうか。
「俺、何も持ってないよ」
きっとお腹をすかせているに違いない。そう思った俺は苦笑いしながら声をかける。人慣れしているようで一向に逃げ出す様子はない。
「にゃー」
「にゃーって言われてもなぁ」
猫の目は、何かよこせと訴えている。俺は猫に招かれるまま近寄った。
「本当に何もやれないんだぞ」
「おにゃかすいたにゃ」
「うう。それは分かったけど――」
つうっと背中を冷たい汗が流れた。……妖怪エンカウント率高すぎませんか?
十年以上人間やってきたが、妖怪に出会う様になったのはここ最近からだ。それなのにこの頻度。和栗さんじゃないけど、本気で呪われているかもしれない。
俺が後ずさると、猫はにたりと笑った。
不思議の国のアリスのチェシャネコを思い出す。でもチェシャネコは黒くはない。
俺はイクさんの言葉を思い出し、それに従った。いわゆるとんずらだ。
「待つにゃ」
そんなの嫌に決まっている。お腹が空いたと言って、にやりと笑う猫なんて、絶対危険だ。わき目もすらずに、俺は走った。
頭の中に鼠と猫が走り回るアニメが思い浮かんぶ。ちなみにこの場合俺が鼠なわけで、何か粋なわなとか仕掛けるべきだが、そんな余裕あるはずがない。
走っている途中、普通に人とすれ違ったが、誰も驚いた様子はなかった。えっ。何で?!
後ろを振り向けば、やはり黒猫が追いかけている。しかも若干巨大化し、大型犬くらいの大きさだ。何でみんな逃げないの?というか何で俺だけ追いかけられているの?
道路をマジ走りしているが、誰も気にした様子がない。あんな巨大猫がいたら普通もっと騒ぎになってもいいのに。
「おとなしく、おいらの腹に収まるにゃ」
「絶対っ……やだ」
何で俺が猫の腹を満たさなければならないのか。それにしても、前の蛇といい、妖怪って本気で飢えてるんだな。食糧難だろうか。もしそうだとしても俺は自己犠牲精神など持ち合わせてないけれど。
しかし俺の思いとは裏腹に、徐々に足が動かなくなる。当たり前だ。100メートル走感覚で走れば、そんなに長く続くはずもない。
俺は立ち止まると、猫をまっすぐ見た。よし。でかくなったっていっても俺より小さいんだ。しかも相手は猫。負けてたまるか。
「そろそろ観念にゃ」
「猫は猫らしく、お魚でも咥えてなよ」
「どこにお魚があるというにゃ。おいらは腹が減っているんだにゃ」
……確かに。
この辺りにはスーパーがあるだけで、魚屋さんはない。川も近くにないのだから、餌には困るだろう。
「……ツナ缶ならうちにあるけど」
「今ほしいにゃ」
待てもできないのか、この駄目猫め。
「俺より旨いのに?」
「……旨いにゃ?」
おっ。ちょっと釣れたんじゃない?
少しだけ猫のテンションが上がった気がする。俺は慌ててツナ缶のアピールポイントを考えた。
「うん。旨いよ。油たっぷり、DHAたっぷり」
「でーえいちえーとは何んにゃ」
「えーっと、頭が良くなる感じの食べ物かな」
正確には頭の働きが良くなるだけで、頭は良くならないけど。しかしその言葉に猫は目をキラキラさせた。
「それはすごいにゃ」
おお。釣れてる、釣れている。
もう一息だと思った瞬間、突風が起こった。俺は慌てて目をかばう。
「ぎあぁぁぁぁ」
「えっ……」
聞こえた悲鳴は、先ほどの猫に良く似ていた。そしてその悲鳴は、手先が冷えるほど悲痛だった。何が起こっているのか目を開けて確認したいのに突風が止まらない。
「滅しなさい」
パンッ。
何かが弾ける音がした。それと同時に悲鳴が止まる。それがなにを意味しているのか。
「猫?」
ようやく目が開けれた先には何もなかった。あるのは、黒い染みのみだ。……こんな染み前にも見た気がする。そう、あれは肝試しで――。
「幸田?」
名前をよばれ振り返ると、そこには巫女装束をきた和栗さんがいた。赤い袴が目に鮮やかで、華奢な彼女には良く似合っていた。
「和栗さん……」
しかし俺はその服を褒める余裕もなく、名前を呼び返すのが精一杯だった。いまだに心臓がドキドキしているのは、走ったせいだろうか。
「最近雑鬼が多いって知らせがあったばかりなのに。なんで襲われているの?」
うん。それは俺にも分からないな。
もしも分かったらそういう事にならないように、全力で回避する……はず。ちょっと最近危ない橋を渡っているが、今回は関係ない。
「……その変な気配のせいだとは分かっているけれど。それにしても妖怪と会話しているなんて馬鹿なの?」
「逃げられそうもなかったし、話し合いで解決するならその方がいいだろ」
俺的にはベストな選択をしたつもりだ。しかし和栗さんは大きなため息をついた。
「妖怪との会話など無駄よ」
「そんなの話してみないと分からないよ」
妖怪を全否定されたように感じた、俺はむっとした。少なくとも、俺の家族や、イクさんやイッタンはちゃんと話をしてくれる。さっきの猫だってちゃんと俺の話は聞いてくれていた。全てを否定するのはどうかと思う。
「……そういえばさっきの猫はどうなったの?」
そう、あの猫は確かに話を聞いてくれたのだ。空腹で俺を食べようとしたけれど、ちゃんと話は出来た。しかし今はいない。
「消えたわ」
和栗さんの言葉が、俺の耳には『殺したわ』と聞こえた。