5章の3
「一郎君、そろそろ起きなさい」
「ん……紅……兄?」
うっすら目を開けると、紅兄の顔がドアップで見えた。紅兄の方が早く起きるなんて、珍しい……。
「今、何時?!」
俺は慌てて飛び起きた。寝汚い、紅兄より遅いだなんて寝坊だ。
「今は、9時ですね」
「学校?!朝ご飯、まだっ。ってぁ、遅刻っ!!」
しまった。
朝食を作ってないなんて、やってしまった。しかも学校も遅刻。最悪だ。
慌てすぎてベッドから転げ落ちた俺は、慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ!!えーっと、どうしよう。とにかく、何か用意するから」
「一郎君、落ち着いて下さい。9時と言っても、今は夜の9時ですから」
「……えっ?」
「正確にいえば、21時8分です」
21時……夜?
確かにカーテンを閉めているわけではないのに周りは薄暗い。俺は目をこする。
「そろそろ、夕御飯を食べましょう。何も食べないのは体に悪いですから」
「……うん」
慌てふためいてしまった事が少し恥ずかしくて、俺は小さく頷いた。
紅兄に助け起こされたあたりで、ようやく今の状況を思い出す。そういえば夜の学校に忍び込んだんだっけ。
紅兄があまりに普段道理だから忘れていたが、石姉がかなり激怒していた。犬兄の上で話した時は、わりかし穏やかだった思うが……今はどうだろう。そもそも犬兄の毛が気持ちよくてうとうとしたあたりから記憶が怪しい。
リビングには、鬼姫様をはじめ、全員がスタンバイしていた。テレビもついていないので、今から家族会議に違いない。机の上には、俺が作ったハンバーグが全員分そろっていた。皆食べずに待っていたらしい。
「ごめんなさい」
「それは何に対しての謝罪かのう」
鬼姫さんの声がひんやり冷たい気がする。
「……皆の夕御飯が遅くなってしまったから」
何故か部屋の空気が温度を下げた気がした。特に石姉の視線が怖くて目をそらす。
「いっちゃん。とにかく座りなさい。話はそれからよ」
俺はドキドキしながら、自分の席に座る。そしてそろそろと皆の顔を見渡した。
怒っているにしては静かな雰囲気だ。
「一郎。この置き手紙はなんだったのかのう」
鬼姫さんが取り出した手紙には、コンビニに行く旨が書かれていた。俺の字で。
「えっと……学校に行くついでにコンビニに行こうと思っていて……」
嘘ではない。言いわけにしようと思い、ちゃんと行く予定だった。
ただこの文面には学校に肝試しに行く旨が抜けている。
「いっちゃんの学校にコンビニはないわよね」
「……ないです」
石姉の声は穏やかだ。怒鳴られたり、殴られるより、よほど居心地が悪い。こんな事になるなら、正直に書いていけばよかったと思う。
「なんで学校で食われかけてたんだよ」
「食べられようと思って行ったんじゃなくて……。その、友達と肝試しをする約束をしちゃって」
「何で誰にも相談しなかったんですか?」
「……駄目って言われると思って」
正確には、駄目でなくても保護者つきになるかもしれないと思ったからだけど。和栗さんさえいなければ、それでも良かった。しかし実際は違う。和栗さんは本気で妖怪をお祓いできる女子中学生で、肝試しに参加していた。
「何で?」
「あの、……学校にこっそり忍び込む事は、いけない事だから」
犬兄の言葉で、何故駄目と言われると思ったのか理由が足りないと気がついた俺は、慌てて付け足した。
「不法侵入だし。……でも友達に折角誘われたから行きたかったんだ」
転校人生だった俺には友達と呼べるほどの存在がいない。だからこれも嘘ではない。できるなら友達と遊ぶという事を大切にしたかった。
「そんな事で黙っておったのか」
そんな事って。
呆れたようにいう鬼姫さんに、俺はびっくりした。不法侵入っていわゆる犯罪だ。子供だから刑罰はないけれど、怒られて当たり前だ。
「別に不法侵入など、バレなければよい。今後もやりたいなら、好きにやれ」
「だ、駄目でしょ。それ」
逆に俺の方が自分を咎める形になってしまった。
それでも、ばれなければいいなんて、保護者の発言じゃない。例え心の中で思ってもだ。
「いっちゃん、忘れてるかもしれないけれど、私達は妖怪よ。人間の法律では縛られないわ」
「そうだぞ。俺らがわざわざ人間っぽく生活しているのは、一郎がいるからだし。正直人間と折り合いが悪くなれば、さっさと出てくしな」
「えっ……」
出てくという言葉に、俺は愕然とする。
今まで、ご飯食べて、学校行って、仕事して、普通の家庭と変わらなかった。だから俺は妖怪といっても、人間と大して変わらないと思っていた。しかしそれは俺に合わせての事だったとは。
「……出てくの?」
どうしよう。
俺は妖怪じゃないから、人間としてしか暮らせない。妖怪の生活がどういうものかは分からないが、犬兄のように変身もできないのだ。ちゃんと暮らしていけると思えない。それに妖怪の世界に行ってしまったら、流石に俺は連れていってもらえないんじゃないだろうか。
「ちょっと、馬鹿犬!!いっちゃんが泣きそうじゃない」
「妾は約束を違えるつもりはないぞ。一郎が成人するまでは妾が面倒をみる。例え犬斗が家を出て行ったとしてもな」
「えっ。俺だけ?!いや、出ていかないから。な。一郎もそんな不安な顔するなよ」
そんなに、顔に出てしまただろうか。俺は慌てて笑った。すると、犬兄に髪の毛をくしゃくしゃにされる。
「分かった。悪い。今のは失言だった。別に不安な顔でも構わないから、無理に笑うな」
「そうですよ。別に一郎君がどんな顔しても、誰も怒ったりしませんから」
本当にこの家族は優しい。優しすぎて少し困る。優しくされても子供の俺は彼らに何も返す事が出来ないのだ。
「うん。でも……今回の事は怒ってるんだよね。できたら殴らないで欲しいけど、ちゃんと覚悟はできているよ」
悪い事をしたなら、怒られなければならない。
それが当たり前だった。ご飯なしもつらいし、暴力も嫌だけど、ちゃんと怒られなければ気持ち悪い。
「殴らないわよ」
「えっ。じゃあ、ご飯なし?」
「いっちゃん……。ご飯も食べていいから。ただ今度から行先は嘘つかないで。それと危なくなったら、私たちの誰でもいいからちゃんと呼ぶ事。いい?」
石姉は苦く笑った。
「うん。でも俺、携帯電話もってないけど」
話したらちゃんと分かってもらえるみたいだし、行先を言うぐらい別にかまわない。ただ誰かを呼べというのは難しくないだろうか。
「携帯電話がなくても、名前を呼んでくれれば、何処にいても分かりますから安心して下さい」
……妖怪って地獄耳なのだろうか。
呼んだら分かるって、凄すぎる。
「よし。話は終わりじゃ。はんばーぐとやらを、食べるぞ」
パンと鬼姫さんが、扇子で手を叩いたところで家族会議は終了した。
あれ?俺、ちゃんと叱られてなくない?怒られたくはないが、なんのおとがめもなかった事実に俺は逆にもやもやする。
この生活になれたら、俺はマジでこの家族以外のところでまともに生活できなくなりそうだ。