六 『帰還』
小鳥がさえずる、気持ちの良い朝である。
僕は今、学校に向かう途中だ。
「なんだかなぁ…」
あんなことがあったと言うのに、まるで緊張感がない状況だとは思う。
あれから自分の住むボロアパートに帰った後、一眠りして今の状況にあるというわけだ(幸いあの廃墟はアパートからそう遠くない場所にあった)。
眠ったと言っても実際は色々と考え込んでしまい大した睡眠はとれていない。
目が覚めた時間もいつもより早かった。目覚ましを必要としない目覚めは久方ぶりである。
なんというか、とてもベストコンディションとは言い難い。
「朝食も牛乳一杯で済ませちゃったしな…」
はあ、とため息をつく。
思いきりタックルされた。
「ぐぇ…」
「九ちゃんの馬鹿!」
開口一番罵声をぶつけてくれたのは愛すべきクラスメイト、八坂弥栄である。
「いや、馬鹿って突然酷くないか。今のタックルでヒキガエルみたいな声出しちゃったし…」
「馬鹿は馬鹿だよ!このバカチンが!心配かけてもう」
何を大げさな。
とは言えないか。あんな物騒な事件が起きている真っ最中である。一日無断欠席するだけでも「何かがあったのでは」と思わせるのには充分だ。「ごめん。悪かったよ。何て言うか、色々あってさ」
「もう…本当に心配したんだよ。私だけじゃなくてみんなみんな心配してた」
みんなと言うのは大袈裟な気がするが。自慢じゃないが僕はそんなに友人が多い方ではないのだ。
「まあ、無事だったんだし良いけどさ」
八坂はそれっきり黙ってしまう。
「…何があったかとか聞かないんだな」
「本当は聞きたいよ。言いたい文句もいっぱいある。いい加減携帯電話くらい持って欲しいとかさ」
でも、と続ける。
「『何か』があったんなら、仕方ないじゃんか」
「…そうか」
そうだ。八坂はこういう人間なのだ。
お節介焼きで心配性でいて、踏み入れられたくない所には踏み入れない。人の心の機微に敏感なのだろう。
こんな出来た友人に心配をかけてしまうとは。
「もう大丈夫だから。面倒なことにはもう関わることはないよ」
安心させるように言う。
嘘ではない。本当のことだ。
異常で異質な非日常など、一晩で充分である。
◇◇◇◇◇
学校に着くとすぐに、日野の質問責めにあった。
八坂とは違って、空気の読めない男である。その上、ちょっと引くぐらい僕のことを心配していて、正直気持ち悪かった。
「マキちゃんが職員室に来るようにって言ってたよ」
昼休みのことである。購買から帰ったところで八坂に言われた。
ちなみにマキちゃんとは僕らのクラスの担任教師、真希島先生のことだ。
「ああ、分かった。後で行くよ」
まず間違いなく、昨日の無断欠席についてだろう。少し気が重いものの、パンを租借しながら言い訳を考える。
新製品のサバパンは不味かった。
◇◇◇◇◇
適当な利用で真希島先生の追求をかわした帰り。
僕の横には八坂がいた。
「家に帰るまでは私が見張ってるからね」
だそうだ。
朝の会話と比べると踏み込みすぎな気もするが、実際下校を共にしたところで困ることはない。ひょっとしたらそこまで分かっていて共に下校することを申し出たのかもしれない。
八坂は登校も下校もやたらと早いから知らなかったのだが、彼女の家は僕の住むアパートと同じ方向にあるらしい。朝に出会ったのもそのためだ。
他愛もない会話を八坂と交わす。
改めて思う。これこそが平穏だ。これが日常なのだ。
失わないと決めたものを噛み締めながら、僕は帰路についた。