三 『出会い』
ツェペシュと名乗った目の前のモノは、姿だけを見るなら普通の人間と大差ない。
しかし、明らかに違う。
ただそこに在るだけで異質さが、異常が、にじみ出ている。
「安心したまえ。君の方は自己紹介などいらないよ。私の目的に、それは必要ではない」
目的。こいつの目的は。思い出されるのは、ついさっき見た雑誌の見出し。
『吸血鬼』『連続通り魔事件』『血が抜かれていた』
考えずともわかりきっている。こいつの態度を見ていればそれが間違いでないことは明らかだ。
こいつは目の前の存在を見下している。当たり前だ。こいつにとって僕は、ただの捕食の対象でしかないのだ。
「Sorry.少し怖がらしてしまったかな?」
「……少しなんてものじゃないさ」
「ほう。思ったより冷静だね」
冷静なものか。心臓はとんでもない速度で脈打っているし、背中には嫌な汗をかいている。
それでも。それでも、言葉がつうじるなら。意志の疎通が出来るなら、状況は最悪じゃない。
「ふむ。色々と考えを巡らしているようだね。この状況から逃れる方法でも考えているのかな」
ツェペシュは、ニタリと笑う。
「Good.悪くないよ、少年。考えるという行為は君たち人間に与えられた特権の一つだ。無論それは、吸血鬼にも与えられた権利だが」
考えろ。こいつから逃れる方法を。この状況を打開する何かを。
「…目的って言ったね。あんたの目的って言うのは…」
「わかりきっていることを聞かれるのはあまり好きじゃないな」
ツェペシュの背中から、闇が溢れ出す。
「無論、君の血が欲しいのさ」
闇が、形を変える。
現れたのは、巨大な鉄杭。鈍く輝くそれは、槍のようにも見える。
その数を五本にまで増やした鉄杭が、一斉に飛び出す。
恐ろしい速度で僕へと迫って来る。
僕は、その場から一歩も動かない。
「……っ」
鉄杭は僕の目の前で、その動きを止めていた。
「おやおやこれは。恐怖で動けなかったかな?」
ツェペシュが馬鹿にしたように言う。
「…動けなかったわけじゃない。僕には杭が僕の体を貫くことがないとわかっていただけのことだ」
「ほう。それはまたどうして」
「この街で起きている通り魔事件。その犠牲になった人たちにその杭で貫かれたようなデカい穴があったなら、まずそっちが噂になるだろう」
とは言うものの、別にこの考えに百パーセント自信があったわけじゃない。半分は『動けなかった』と言った方が正しいのだが。
「くっ…ふはははは!」
暗闇にツェペシュの笑いが響く。
「Great!素晴らしい!最高だよ、君は。今まで会った人間の中で一番だ」
「そいつはどうも。全く嬉しくないけどね」
「くくっ、そう言うなよ、少年」
いや、と続けて言う。
「少年と言うのはあんまりだな。特別に名前を聞いてあげよう。自己紹介してご覧」
「…井伏九助」
思わず素直に名前を言ってしまった。
「ふむ、そうか。ではイブセ君。特別に教えてあげよう。君を串刺しにしなかったわけを」
ツェペシュは楽しそうに言う。
「さっきも言った通り、私の目的はあくまで血だ。君たちには余計な血を流してほしくない。だからこそ私は脅しこそすれ、血を吸う以外の方法で人間を傷つけることはしないんだ。紳士的だろう?」
なにが紳士的だ。それはつまり、これから僕の血を吸い尽くして殺すってことじゃないか。状況は何一つ好転していない。
「さて、楽しいお喋りの時間は早々に切り上げるとしようか」
ツェペシュは笑う。
「今は食事の時間だからね」
そして、ゆっくりと歩み寄ってくる。
駄目だ。こいつからは、逃げられない。
一歩も動けない僕との距離を、目の前の吸血鬼は少しずつ縮める。
(もう、終わりだーー)
僕が確信した、その瞬間。ツェペシュの体が吹き飛んだ。
「……は?」
目の前には一つの影。ツェペシュではない。もっと滑らかな、少女の影だ。
月光を浴びて輝くのは背中を覆うほどに長い金色の髪。その身体は黒いドレスに包まれている。
少女が、顔を向けてこちらを一瞥する。
「………」
思わず、息を呑んだ。
少女はまるで人形のようだった。そう称するしかないほどに、ただただ美しい。
この世のものとは思えないほどに完成されたその中に、さらに異質なものがあった。
瞳だ。少女の瞳は、まるで鮮血のように真っ赤に輝いている。
「お前は…」
少女は何かを言おうとして、途中で思い直したように口を閉じた。少女の声は美しかった。
その日、僕は。人生が変わるような出会いをした。
暗闇の中で少女だけが、月より眩しく輝いていた。