二 『夜と吸血鬼』
一日の授業を終えて帰宅し、夕食もとり終えた頃、牛乳を切らしていたことを思い出した。
今からではスーパーは開いていない。迷った末、コンビニに向かうことにした。いつもより出費がかさむが、仕方ないだろう。
ボロアパートから十分ほど歩いて、コンビニにたどり着く。入ってすぐの雑誌コーナーに、気になる見出しがあった。
『連続通り魔事件の裏には吸血鬼が!?』
雑誌を手に取ってパラパラとめくる。何でも被害者達は血を抜かれただけでなく、その首筋には牙のような跡があったと言う。その他にも、信憑性があるのかも疑わしい事件の裏事情とやらが書き連ねてあった。
くだらない。僕には関係のないことだ。
牛乳を購入して店を出る。辺りはすっかり暗かった。
少しだけ、昔のことを思い出す。僕がまだ、平穏を嫌っていた頃。人生に、特別な『何か』を求めていた頃。
あの頃の僕はあまりに無邪気で、あまりに無力で。あまりに臆病で、あまりに無知だった。
あの頃の僕がいつも心待ちにしていた『何か』は、僕が想像しえない程の最悪として訪れた。
僕は人生の意味を知って。平穏の価値を知った。
バサリ、と音がした。
視界の端に黒い何かを捉える。
「…コウモリ?」
コウモリなんてそう見かけるものじゃない。それにこんな風に人の近くを飛ぶものなのか。
もう一度、目を凝らして確かめよう。
動かした視界の先で、コウモリは
ニタリと笑った。
◇◇◇◇◇
「なんだよ…アレはっ…」
一目散に駆け出す。アパートとは逆方向だ。今はただ、アレから逃れたかった。
(コウモリが笑う…?そんなことは、有り得ない)
仮にコウモリにわかりやすい表情なんてものが存在するとして、それを僕に判別できるわけがない。
それでも、確信できる。
『奴』は笑っていた。
探し物を見つけたように。十年来の友達と再開したように。
不気味に、不穏に、喜びに震えていた。
「ご機嫌よう」
どこからか、声が生じた。
立ち止まり、振り返る。
そこには一匹のコウモリがいた。先刻と同じように、不気味な笑みを浮かべながら。
ただ一つ、明らかに違うことがある。目の前の『ソレ』は、その背に闇を背負っていた。夜の暗闇の中にあって尚、どうしようもなく暗い闇。
黒い靄のようにも見えるそれは、コウモリを包み込みながらゆっくりと形を為していく。
『ソレ』は人の形をしていて。だけどどうしようもなく人からかけ離れていた。
「そう怖がるなよ。少年」
『ソレ』は静かに言葉を紡ぐ。あまりに穏やかで、あまりに平穏な声を。
後ろに撫でつけた髪はどこまでも深く黒く、肌の異様な青白さを際立たせる。その痩身を包むのは漆黒のタキシード。
「自己紹介を、した方がいいかな?」
ニタリと笑った口から覗くのは、鋭く尖った二本の牙。
「私の名はツェペシュ」
不気味な笑みをさらに深くしながら、『ソレ』は言った
「いわゆる、『吸血鬼』だ」
僕の平穏な日常は、終わりを告げた。