九 『想うコト』
目の前で眠る少女を見る。
血で濡れたドレスを脱がしたり、包帯を巻いたりと慣れない作業に苦戦したのだが、その間リリンが目覚めることはなかった。
「とりあえずは大丈夫、なのかな…」
依然眠ったままとはいえ、彼女の表情は大分落ち着いている。小さな寝息も聞こえていた。
まあ、包帯を巻いただけで急激に回復するわけもなく。彼女自身の回復力によるものだとは思うが。
彼女を救おうと、そう思い動いた甲斐はあったのだろう。
だけどそれに、何の価値があるのだろうか。
「僕は、平穏な日常を愛してる」
声に出して確認する。紛れもない事実だ。
その筈なのだ。
「その筈なのに、なんで」
なんで、こんな状況になってるんだ。
あの日から僕は変わった。それは間違いようがない。
なのに。なのに僕は。
これじゃあまるで、昔の僕のようじゃないか。
「――――」
言葉さえ湧かない。
なんでここにいるんだろう。
どうして。どうして僕は。
「どうして、生きてるんだろうな。僕は」
言葉は闇に溶けてゆく。
少女はまだ、目を覚まさない。
◇◇◇◇
「汚い部屋だな」
それが、ようやく目覚めたリリンの第一声だった。
「悪かったね、そりゃ」
リリンはふむ、と尊大に頷いた後に続けた。
「で、ここはどこだ。どうしてお前が居る」
「どうしても何も。ここは僕の部屋だよ。だからここに居る」
「いや、そういうことではない。確かに質問をしたにはしたが、別にまともな答えを期待した訳ではないよ」
「だったら何を…」
「わからんか」
短い声の響き。だけどそこには、確かな圧迫感のようなものを感じる。
「私は確かに言ったはずだ。『関わるな』と、そう、な」
思わず気圧される。
「そうは言っても、偶然と言うべきかなんと言うべきか、傷だらけの君を見つけてしまったから。そんなものを見て、放っていくなんてことは、出来ないよ」
いや、実際は偶然でもなんでもないが。この際、そんなことは些事だろう。
「馬鹿馬鹿しいな。人間風情が調子に乗るなよ。放って置けないからといって、貴様に何が出来ると言うんだ。実際貴様は何をした」
「いや、それは…」
言葉に詰まる。確かに彼女に何をしてやれた訳でもない。僕がしたことと言えば
「服を脱がして、包帯を巻いたり…」
「…何?」
そう言って、彼女は自分の身体をまじまじと見つめる。先程言った通り、彼女は今ドレスを着ていない。と言うか、服を着ていない。包帯の上からそのまま服を着せてしまっていいのか、判断がつかなかったのだ。
リリンの顔がみるみる赤くなっていく。
「いやいや、ちょっと待ってくれ。目覚めた時に気付くだろ普通」
思わずツッコミをいれるが、彼女の耳には入らないようだ。
真っ赤な顔のリリンがこちらを見つめてくる。心なしか、瞳が潤んでいる気がする。
「い、いやまて。お前、ぬ、脱がした、だと?それは、あの、つまりだな」
ちょっと待て。本当に待て。
なんだよこのリアクションは。ついさっきまで傲岸不遜って感じでさ。雰囲気だって如何にもシリアスだったじゃないか。何をそんな年頃の娘みたいな。いや、見た目的には間違ってないけどさ。
「そ、それは、だな。貴様、あの…」
最後には、かすれた声で。
「…み、見たのか?」
「え、あ、いや」
「ま、まさか…触ったのか?」
「え、ええと…いや、確かに多少は、見たし、触ったけど…不可抗力というか…僕も必死だったし、感触を楽しんだりは、してない、よ」
いや何言ってるんだ僕。フォローになってねえよ。
「そ、そうか。それでだな、ええと、何の話だったか」
無理やり話を戻そうとするなよ。なんかもう見てられないよ。
こちらはこちらで余裕がないので、乗っからせて貰うが。
「君に『関わるな』と忠告されたのに、僕はまた君に関わった。正直言って自分でも分からないんだ」
さっきは如何にも倒れている所を当然の如く助けたように言ったが、やはり分からないと言うのが本音だ。まるで、僕らしくないと思う。
「…そんな、気まぐれのように関わられるのはひどく迷惑だ。だから、これから先は関わらないと約束するなら見逃してやる。それで良いな」
なんとか調子を取り戻したようで、最初のような傲岸不遜な態度で言う。
僕は、答えを返す。
「いやだ」
「…何?」
自分でも分からない。だけど。
「関わるなって、それで納得できるならさ。また関わったりはしなかったよ。どうしても駄目なんだ。きっとこのまま終わりになんか出来ない」
彼女は呆れたように溜め息をついた。
「まるで要領を得んな。まるで駄々をこねる子供だ。だったらどうするんだ」
「教えて欲しい。吸血鬼のこと。ツェペシュのこと。君のこと。分からないけど、意味があるような気がするんだ」
「お前に吸血鬼のことを事細かに説明してやって、それで私に得があるのか?それがないなら私が貴様に何か教えてやる理由はない」
もっともな意見だ。言ってることがおかしいのは、明らかに僕だろう。
「君には何の得もないだろう。それでも教えて欲しい。頼む」
そうして頭を下げる。
「…どうしてそこまでするんだ」
僕自身驚いている。自分の中にここまで強い想いがあるなんて思わなかった。
「分からないよ。分からないけど、こんな気持ちを抱えたままじゃ、僕の望む平穏な日常には戻れないんだ。身勝手な、訳の分からないことを言ってるのは分かってる。でも、どうか頼む」
彼女は何も言わない。考え込んでいるようだ。
しばらく間があって、やがて彼女が口を開いた。
「分かった。良いだろう。ただし、教えるだけだ。それ以上はない」
「…ありがとう。恩に着るよ」
彼女は照れくさそうに、鼻を鳴らした。