↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空白の婚姻契約を読む令嬢は、霧港で忘れられた春を拾う  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/20

霧港に灯る約束

 婚姻式の翌朝、ユノアは潮の匂いで目を覚ました。


 窓を開けると、海霧の向こうに淡い金色の光があった。冬の白さを押しのけるように、水平線から朝日が昇っている。霧港で太陽を見るのは、いつ以来だろう。思い出そうとしたユノアは、すぐにやめた。


 忘れていた時間を数えるより、今日の光を覚えておきたかった。


「ユノア!」


 港のほうからトルネの声が響いた。階下へ駆け下りると、灯台の入口に彼が立っている。髪も靴も濡れていたが、両手で抱えた鉢の中には、細い緑の芽がいくつも顔を出していた。


「灯台の裏で見つけたんだ。昨日まで、何もなかったのに!」


 レオンも遅れて外へ出てきた。寝起きのまま上着を羽織った姿で、芽を見つめる。彼はすぐには笑わなかった。ただ、伸ばした指先を土に触れさせ、確かめるように目を閉じた。


「土が、冷たくない」


 その言葉を聞いた途端、港じゅうから歓声が上がった。漁師たちが船から手を振り、工房の窓が次々に開く。誰かが鐘を鳴らし、別の誰かが泣きながら笑った。


 春は、宣言とともに訪れたのではなかった。


 芽が出て、潮が変わり、凍えていた人々の手が少しずつ動く。その小さな変化を皆が見つけ、声にして、次の人へ渡したとき、霧港の季節灯はようやく本来の色を取り戻した。


 その日の昼、王都から一通の封書が届いた。


 封蝋に押された王室契約院の紋章を見て、トルネが顔をしかめる。レオンは封を切り、ユノアへ紙を差し出した。


「読めるか」


「読めます。でも、あなたも一緒に見てください」


 そこには、公開審理の記録と、季節魔法の徴収を停止する決定が記されていた。セドリック・ヴァレルは長官の職を解かれ、改竄に関わった者たちの調査が始まったらしい。霧港の新しい契約は、王都の許可を得たから有効になるのではなく、港の合意を記録したものとして契約院に保管されるという。


 最後の行には、こうあった。


『季節の配分に関する今後の条文は、当該地域の住民の同意なく変更してはならない』


 ユノアは紙を裏返した。裏面には大きな空白が残っている。消された文字の跡はなかった。


「何かあるのか?」


「いいえ。これは、誰かが勝手に書き足せる空白ではありません」


 ユノアは紙を折り、レオンに返した。


「私たちが、必要なときに話し合って書くための余白です」


 それから霧港では、毎月一度、灯台の広間で話し合いが開かれるようになった。灯台の燃料を誰が集めるか、春の水路をどう修繕するか、遠くの船にも季節灯の恵みを分けるか。以前なら代官の机だけで決められていたことを、魚師も荷運び人も工房の子どもたちも、同じ長机を囲んで考える。


 意見は何度もぶつかった。新しい契約には、気に入らない提案を消してしまう便利な余白などない。だからこそ、決まるまでには時間がかかった。


 けれど、誰かの名前を消して終わらせることは、もうなかった。


 ユノアは灯台の一室を記録室に整え、古い契約の修復と新しい合意の保管を始めた。祖母アデラが残した筆記具を机の引き出しにしまい、港の子どもたちには、空白を恐れずに読む方法を教えた。


「余白には、書かれていないことだけでなく、書く人を待っていることもあります」


 そう話すと、子どもたちは難しい顔をしながら紙を覗き込む。トルネはもう助手を名乗るだけでは満足せず、記録係の腕章をつけて走り回っていた。


 レオンは代官の職を返上することも考えた。だが、港の人々は彼に灯台守を続けてほしいと頼んだ。ただし、鍵を一人で持つのではなく、三人の交代制にすることを条件にした。


「これでいいのか」


 新しい鍵を受け取ったレオンが、夕暮れの記録室で尋ねた。


「いいと思います。あなたが信じられるかどうかではなく、誰も一人で抱え込まなくていい仕組みですから」


「君は、私が一人で抱え込んでいたと思うか」


「ええ。私も同じでした」


 ユノアが笑うと、レオンは少し困ったように眉を下げた。彼は窓辺へ歩き、海を見た。霧は薄くなっている。夕日に照らされた波間には、季節灯の緑が長く伸びていた。


「君に出会うまで、約束は守らせるものだと思っていた」


「私も、署名されていれば安心できると思っていました」


「違ったな」


「違いましたね」


 レオンはユノアの左手を取った。季節印の欠片を埋めた銀の指輪が、窓の光を返す。


「それでも、約束は欲しい」


「はい」


「明日、君が王都へ戻りたいと言っても、私は止めない。ここに残りたいと言うなら、残る理由を私一人にしない。君がどこへ行っても、帰る場所を選べるようにする」


 ユノアは指輪の表面を撫でた。


「私も約束します。あなたが迷ったとき、代わりに決めるのではなく、一緒に考えます。あなたの過去を消そうとはしません。でも、過去だけで明日を決めさせません」


 レオンは頷き、二人の間に置かれた新しい塩銀紙へ目を向けた。そこには港の人々が書いた条文の下に、まだ一行分の空白が残っている。


 ユノアは筆を取り、レオンへ差し出した。


「何を書きましょう」


「決めていない」


「それも、悪くありません」


 夕暮れが去り、灯台に火を入れる時刻になった。二人は連れ立って最上階へ上がる。交代の灯台守がすでに待っていて、レオンから鍵を受け取った。扉が開くと、季節灯は以前より強く、穏やかな緑の炎を揺らした。


 港の家々に明かりがともる。春の畑では、昼間の芽が夜風に震えていた。霧の向こうから船の汽笛が聞こえ、帰港を知らせる鐘が応える。


 ユノアは灯台の窓から、広がっていく光を見つめた。


 この灯は、王都から与えられたものではない。誰か一人の名に結びついたものでもない。失われた春を取り戻すために声を上げた人々と、消された言葉を読み直した人々と、これからまだ書かれていない明日を選ぶ人々のものだ。


「ユノア」


「はい」


「帰ろう」


 レオンが言った。


 それは灯台から家へ帰るという意味だけではなかった。二人が何度でも選び直せる場所へ、という意味だった。


 ユノアは彼の手を握り返した。


「一緒に」


 階段を下りると、港の広場からトルネの声が飛んできた。


「早く来て! 春の最初の祭りが始まるよ!」


 二人は笑い、光の中へ歩き出した。


 霧港に灯る約束は、完成した一枚の契約ではない。破れたときに隠さず、迷ったときに話し、必要なら何度でも書き直すための余白だ。


 その余白に、今夜は新しい名前が並ぶ。


 ユノア・セルティス。


 レオン・グレイヴ。


 そして、春を自分たちの手で迎えた、霧港の人々。


 海霧はもう、彼らの季節を奪えなかった。


 灯台の緑の火が、明日の海を照らしている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。