第26章 遠征2日目①
明け方、間もなく朝六時だ。
見張りは俺のターンだったので、薄い朝焼けをただ眺めていた。
今日は静かな夜だった。
まあ、一年ひとりで回っていた時も、毎日が感染者との戦いってわけでもなかった。
こういう日も確かにあったはずだ。
ただ、生死を分ける瞬間が多すぎて平和だった時の記憶は、いつも後から薄れていく。
恐怖の方が、強いし危機の方が、深く刻まれる。
だから、こうして静かに朝焼けを眺めている瞬間は、いつも新鮮に感じる。
こんな朝焼けを見ていたら、コーヒーを飲みたくなる。
だが、この世界になってからコーヒーなんて、もってのほかだ。
香りを楽しむものは、もはや自殺行為だ。
香りを出した瞬間から、死を引き寄せるものになってしまった。
俺は小さく息を吐く。
白い息が、暗い小屋の隅でほどけて消えた。
さて、そろそろ二人を起こそう。
肩を揺さぶると、二人とも飛び起きた。
緊急事態だと思ったんだろう。
目が一瞬で戦闘の色になる。
だが俺が首を振ると、二人はすぐに周囲を確認し、何もないことを理解して落ち着いた。
……それでいい。
それくらいの反応が大事だ。
この世界で寝起きの一秒目から動けない奴は、運が悪い日には人生が終わってしまう。
3人で装備を確認する。
荷物の紐の緩み、バックパックを背負っても音が鳴らないか、そして武器。
寝袋を畳む音すら、俺は気にする。
こんな静かな場所はこちらの音がよく響く。
小屋の中だからと油断している時が一番危ない。
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さてそろそろ小屋を出るが、実はこの瞬間が一番気をつける必要がある。
見張りはしていたが、見えているのは窓側の一部だけだ。
見えていない側――小屋の陰、扉の脇、段差の先。
そこにもし感染者がいた場合は死亡確定だ。
俺は扉の前で一度止まり、耳を澄ませた。
無音。
風もない。
ドアを静かに、ゆっくり開ける。
反応はない。
気配も、匂いも、動きもない。
「……大丈夫だ」
声は小さく。
鈴木がやっと息を吐いたのが分かる。
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さて、今日の行程だ。
今日はこの登山道を進み、獣道に入る。
そしてこの先にある集落を迂回し、その後いったん県道に出てその県道の先を目指す。
基本危険は回避する。
ただ集落の近くを獣道で通る間も、音と匂いにはいつも以上に気をつけなければならない。
奴らは普段、自然領域にあまり入らない。
だが、そこに獲物がいるとわかった時は別だ。
本能が勝ち、自然領域であっても突っ込んでくる可能性がある。
今日は、いつも以上に神経を使う。
俺は自分に言い聞かせるみたいに、足の裏の感覚を確かめた。
しばらく登山道を歩くと、分岐が見えてきた。
県道に出る道、それとは別にやぶが覆い茂った場所――その先にそのまま突っ込んでいける抜け道がある。
佐藤が小さく指で示す。
「……こっちだ。藪道が抜け道になってる」
俺はその道を見て一瞬躊躇する。
今は冬だからたぶん大丈夫だと思うが、この薮道はマムシやヤマカガシなどの毒蛇がいる可能性がある。
今噛まれれば病院には行けない。
つまり、運が悪ければそのまま死ぬ・・・。
俺の1年の山道行脚の知識で実は一番の敵は蛇なのだ。
奴らや熊なんかは、ほぼ出会わない。
蛇は、気づいた時にはもう遅いことがある。
藪に入る前に、俺は地面をよく見る。
枯れ草の下。
石の陰。
踏み込む一歩を、いつもより慎重に置く。
藪を突っ切る。
なるべく音は立てないように。
冬は枯れ草が多い分、夏より音が鳴る。
擦れる。折れる。
踏めば、パキ、と乾いた音が出る。
だから極力、静かにゆっくりと歩く。
膝を柔らかく使い、足裏全体でそっと置く。
これは中々疲れる。
体力というより、集中力が削られる。
鈴木の顔も少し疲れている。
息は荒くないが、眉間に力が入っている。
精神的な疲れは肉体より先に目に出ると言われているが、本当のようだな。
少し開けた場所を見つけ、休憩する。
休憩と言っても水分補給程度だ。
座り込むほど止まりたくない。
この場所は止まるほど、危険が増す。
集落に近づきつつあるこの場所で、たとえ自然領域でも長く留まれば危険は増す。
だから進む。
今は進むしかない。
しばらく行き、佐藤が前方を指差した。
俺は望遠鏡を出し、覗く。
木々の奥に見える集落、距離で言うと、三百メートルくらいか。
今の所奴らの姿は、はっきり見えない。
集落全体を見渡せれば確認できるかもしれないが、この道では難しい。
木々が視界を切っている。
家の中も見えないため奴らがいるか判断できない。
見えないというだけではいないとは限らない。
俺が初めて拠点の村に来たように音を出せばわかるが、今はあの時と状況が違うためそれもできない。
だからさらにゆっくりと。
音を立てず、息を潜める。
その時、佐藤が横に手を出して俺たちの歩みを止めた。
指差す先――微かに動く影。
感染者だ。
集落に奴らはいるのが確認できた。
距離はある。
そしてまだ、省エネモードだ。
俺たちに気づけば警戒モードになって動きが機敏になる。
今は体の動きが鈍い。
目的がない時の、だらりとした動きだ。
俺は足を止めたまま、もう一度周囲を確認する。
木々の間。斜面の下。
もし別の個体が藪の近くに紛れていたら、ここで気づかないともう逃げれない距離になる。
歩けば枯れ草を踏む音もするし、枝が折れる音も出る。
だが、これくらいなら自然の音の一部だろう。
……そう信じるしかない。
匂いも、今は草木の匂いでかき消されているはずだ。
冬の冷たい空気のおかげで汗もそんなにかいていない。
衣服も乾いている。
体臭も、強くは出ていない……はず。
そして風も吹いていない。
風上だったら危なかっただろう。
匂いが集落へ流れた可能性がある。
だがここは木々や藪に囲まれていて、そもそも風が回りにくい場所なので、急な突風でも大丈夫なはずだと思いたい・・。
感染者の動きを確認しつつ、ゆっくり歩き続ける。
何分歩いたか。
十分? 三十分?
時間の感覚が薄れる。
心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。
ゆっくり、ゆっくり。
一歩が、普段の三倍くらい長く感じる。
なんとか集落から距離を取り集落が見えなくなっていた。
……ただ、ここまで来れば“もう大丈夫”なんてことはない。
どこまで来ても気をつけなければ、奴らが追ってくる可能性はある。
音や匂いの聞き分けの距離がわからない以上、結局できることは一つだ。
気をつける!
それしかできない。
しばらく歩き、だいぶ集落から離れただろう。
そこで佐藤がまた指をさす。
獣道が切れている。
「……この先が県道だ」
藪を抜け、少し覗く。
舗装されたアスファルト。
やっと県道に出たようだ。
ここからはこの道を下り、町を目指す。
残り二十キロくらいか。
舗装道路は歩きやすい。
足元を気にする量が減る。
だが代わりに、奴らに出くわす可能性が増える。
道は人間の痕跡だからだ。
人間の痕跡がある場所には、奴らが溜まる。
佐藤が村に来た時、この辺で二体ほど撃退したらしい。
なら、まだいる可能性は十分ある。
それにそれ以降、奴らが誰かを追って来て、そこで仲間を増やして待機している可能性もある。
今日の予定は、あと十キロほど歩く。
佐藤の話だと、その先にポツンと一軒家があるらしい。
そこも佐藤が来た時は安全だった、と。
今は十三時。
日が暮れるまであと四時間。
無理な行程ではない――普通に歩けるなら。
だがこれは普通の旅じゃない。
見えないものに怯えながら、耳と鼻と神経を張り詰めさせて進む旅だ。
同じ十キロでも、消耗は倍以上になる。
急ぐ必要はある。
でも走れない。
走れば息が荒くなる。
息が荒くなれば音が増える。
汗をかけば匂いが出る。
匂いや音が出れば、感染者は寄ってくる。
だから結局――ゆっくりと周りに気を遣いながら行くしかない。
焦りで先走りそうになる心臓を、無理やり抑え込みながら。
俺はバットを握り直した。
舗装路は歩きやすい。
それが逆に、嫌な予感を連れてくる。
歩きやすい場所は、奴らにとっても歩きやすい場所だからだ。
「……行くぞ」
誰に言うでもなく、俺はそう呟いて、県道に足を踏み出した。




