第19章 鈴木 美咲
ホームに戻るまで、誰もほとんど口を開かなかった。
山の夜は静かで、その静けさが、さっきまでの出来事をやけに生々しく浮かび上がらせる。
女性は佐藤の少し後ろを歩いていた。
足取りは不安定で、時々つまずきそうになる。
それでも泣き崩れることも、叫ぶこともなかった。
ただ、必死に呼吸を整えている。
メインホームに戻り、内側からロックを確認する。
窓のシャッターも一つずつ降ろす。
佐藤の動きは落ち着いていて、無駄がない。
だが、さっきの“あいつ”を見てしまったせいか、いつもより確認が一拍だけ多い。
「……ここなら、ひとまず大丈夫だ」
佐藤がそう言って、女性を座らせた。
俺はバットを壁に立てかけ、深く息を吐く。
女性は膝を抱え、しばらく俯いていたが、やがて小さく頭を下げた。
「……助けてくれて、ありがとうございます」
声が震えている。
無理もない。
さっきまで、死がすぐ後ろに迫っていたんだ。
「ぶ、ぶぶ……無事でよかった。け、怪我は?」
――めちゃくちゃどもった。
こんな時に不謹慎かもしれないが、正直、異性と話すのは一年ぶりだ。
佐藤と会った時ですらドギマギしたのに、若い女性となると、なおさら緊張する。
……とはいえ、この重苦しい空気を、ほんの少しは壊せたはずだ。
「田中さんは本当にコミュ障だな」
佐藤が、わずかに笑いながら突っ込む。
うるせー。
だから最初は一人で生きようとしてたんだよ。
女性はそのやり取りを見て、少し緊張が溶けたのか――
「……少し、擦りむいただけです」
そう言って、袖をまくる。
肘に擦り傷。
血はもう止まっている。
佐藤が奴らの引っ掻き傷でないかを確認し、問題ないと俺に頷く。
引っ掻き傷でも、感染する場合がある。
ただし、確実ではない。
昔いた避難所で、俺の横の区画にいた年配の男は、引っ掻かれたと言っていたが、四日ほど感染症状は出ていなかった。
その後、避難所はアウトブレイクし、結末は分からない。
ただ、咬み傷の場合は早ければ一時間以内、遅くとも十二時間以内には発症する。
俺がここに来るまでに遭遇した男は、引っ掻き傷で感染していた。
当初から言われているのは、奴らの体液が体内に入れば感染する、という説だ。
ならば最初の男は、運良く体液が入らなかったのだろう。
他に噛まれたり引っ掻かれたりしていないか、主に佐藤が確認した。
今のところ問題はない。
――が、確実ではない。
さすがに「服を脱いで全部見せろ」とは言えない。
男二人に囲まれている状況自体、彼女にとっては十分に怖いはずだ。
ここは、紳士でいこう。
「名前、聞いてもいいかい?」
俺がそう言うと、女性は一瞬だけ戸惑ってから答えた。
「……美咲です。
鈴木美咲」
「俺は田中。こっちのむっつりイケメンは佐藤」
簡単に紹介する。
佐藤は軽く会釈し、彼女に言う。
「安心してくれ。コミュ障とむっつりだから、あんたが思ってるようなことは起きない」
鈴木は頷きながら、俺たちを見て、ほんの少しだけ笑った。
「どこから来たんだい?」
「……この場所から遠くない避難所です。
でも、十日前に崩壊しました」
“崩壊”。
その一言が、すべてを物語っている。
襲われたのか。
それとも人同士の争いか。
どちらにせよ、想像は容易だった。
アウトブレイクが発症した当初、全国各地に避難所は数多くあった。
学校、体育館、公民館。
人が集まり、毛布が配られ、最初のうちは、かろうじて「秩序」が保たれていた。
だが、次第に物資が不足し始め、疑心暗鬼が広がった。
配給を巡る争いが起き、人が人を疑い、殺し合いにまで発展して崩壊した場所もある。
また、感染者が内部に入り込み、一夜にして滅びた避難所もあった。
今、それらの避難所がどれほど残っているのかは分からない。
国が管理する大規模シェルターがある、という噂も耳にしたことはあるが、
実際にそこへ辿り着いた人間を、俺は一人も知らない。
「一人で、ここまで?」
佐藤が、静かに聞いた。
鈴木は少し間を置いて、頷いた。
「……途中までは、三人でした。
この村の出身の人がいて……ここなら小さいし、誰もいないかもしれないって。
でも、来る途中で……感染者に襲われて……」
その先は、誰も続きを求めなかった。
沈黙が落ちる。
外では風が木を揺らし、どこかで小枝が折れる音がした。
そのたびに、鈴木の肩が小さく跳ねる。
この村の出身者がいたということは、佐藤の知り合いである可能性も高い。
だが、美咲のその話に佐藤は深く突っ込まないし、自分も出身者であることを言わない。
佐藤は、この村でどういう立場だったのか、誰と、どんな関係を持っていたのか。
俺も、それをあえて聞かないし突っ込むこともない。
本人が語らない過去を、無理に掘り返す必要はない。
過去の人間関係がどうであれ、この世界では、今、生きているかどうかだけが問題だ。
「今日は、ここで休んで」
俺がそう言うと、鈴木は小さく頷いた。
「水と、少しだけ食べ物がある」
レーションを差し出す。
鈴木は両手で受け取り、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
そう言って、一口かじる。
少し落ち着いて、ようやく空腹を思い出したのかもしれない。
手は震えているが、ちゃんと食べている。
それを見て、俺は少しだけ安心した。
――まだ、“生きる側”に踏みとどまっている。
この世界で生きていると、精神は簡単に壊れる。
今日のような出来事をきっかけに、自ら命を絶つ人間も珍しくない。
確実ではないが、見極める一つの指標は「食べること」だ。
食べるという行為は、生きようとする意思そのものだからだ。
そんな美咲の様子を見ながら、俺はさっきの“特殊個体”を思い出していた。
やつは周囲の状況を把握し、狩りをしていた。
偶然じゃない。
柵に仕掛けた罠や爆竹にも、反応すら示さなかった。
匂いでも、音でもない。
――見えている。
そして、自分が不利な状況だと察し、引き返した。
「……なあ、佐藤」
声を落とす。
「今日のやつ、どう思う?」
佐藤は少し考えてから答えた。
「……普通じゃない。
あんなのは初めて見た」
「また来ると思うか?」
「来るだろ」
即答だった。
「獲物がいると分かっていながら引いたってことは、
今のままじゃ入れないと判断したってことだ。
なら、いずれ必ず来る。
明日かもしれないし、一か月後かもしれない」
鈴木がこちらの会話を聞いているのに気づき、俺は言葉を切り替えた。
「心配するな。
ここは簡単には破られない。
明日から、さらに補強しよう」
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夜が深まる。
鈴木は疲労と緊張が限界だったのか、ソファで毛布をかぶると、すぐに眠りに落ちた。
少しは、俺たちを信頼してくれたのだろうか。
その寝顔を見て、佐藤が小さく言う。
「……人が増えたな」
「ああ」
本来なら、人が増える拠点生活は望ましくない。
だが、助けを求める者を見捨てるほど、心は枯れていない。
そしてこの場所は、すでに奴らに狙われている。
なら――
今いる人間だけは、守れる拠点にしよう。
俺はそう心に刻んだ。
――次は、もっと厄介になるかもしれない。
それでも。
名前を呼び、名前を呼ばれる。
誰かを“人”として迎え入れる。
それが、拠点を作るということだ。
そして同時に――
この場所が、もう“捨てられない場所”になった、ということでもあった。




