第15章 アングラーに俺はなる
雨は、まだ降り続いていた。
昨日ほどの豪雨ではないが、しつこく、絶え間なく地面を濡らしている。
体は、まだかなり痛む。
だが、昨夜寝る前に家の前に出来ていた水たまりの氷で冷やしておいたおかげで、多少はマシだった。
腫れは引ききっていないし、動けば鈍い痛みが腰から背中に走る。
それでも「息をするだけで痛い」状態は脱している。
昨日は、佐藤がいてくれたおかげで、だいぶゆっくり休めた。
完全にこの男を信じたわけではない。
それでも、この体の状態で、一人きり気を張り続けるなんて無理だ。
見張りを買って出てくれたおかげで、
正直ボロボロだった俺は、気絶するように眠りに落ちていた。
おかげで体は痛むが、頭は驚くほどすっきりしている。
眠れるというのは、それだけで回復する。
――さて。
俺は起き上がり、早速作業をしようと体を動かした。
「待て」
即座に、佐藤に止められた。
「まだ休んでいろ」
声は低く、迷いがない。
「いや、柵の続きが――」
「ダメだ」
被せるように言われた。
「今のあんたは、本気で動けてないだろ」
……その通りだった。
立っているだけで分かる。
全力で走れない。
踏ん張れない。
俺は反論しかけて、やめた。
自分でも分かっているからだ。
そんな俺に佐藤は黙って、俺に向かい釣竿を差し出してきた。
「これ持って、釣りに行ってきてくれ」
「……釣り?」
「村の上流に、魚が釣れる滝壺がある」
正直、意外だった。
佐藤は俺を完全に休ませると思っていたからだ。
「柵はどうする?」
「俺がやる」
即答だった。
正直、この状態での作業は辛い。
あの山道を歩き、トラックを取りに行くのも相当きつい。
しかもトラックは音が出る。
昨日より雨は落ち着いている。
もし奴らがまだ近くにいるなら、大きいトラックの音に引き寄せられる可能性が高い。
だから見張りも兼ねて俺も行く、と言おうとした瞬間――
「だからこそ、くるな」
言い切られた。
「今の田中さんは、本気で動けない。
奴らがもし三体以上来たら、さすがに助けられない」
本当にその通りだった。
自身の状態を、把握しているつもりだったが、
どうやらちゃんとできていなかったらしい。
今の体では
全力で走れない。
全力で戦えない。
そんな奴がいたなら、俺だって連れていかない。
行ったところで、完全にお荷物、と言うより生贄だ。
これは佐藤が正しい・・・
自分がやり始めた防御柵で最後までやり切りたかったのが正直な所だが、佐藤の言うことはまさにその通りであるため、ここは引き下がった。
ただ一つだけ、どうしても気になって聞いた。
「……でも、なんで魚釣り?」
休んでいろ、ではなく、釣りをさせる意図が分からなかった。
確かに食料は必要だが、佐藤の持っている物資と合わせれば、
まだ何週間かは持つ。
そこまで急ぐ話ではない。
佐藤は、即答だった。
「村から離れていれば、もしトラックで奴らを惹きつけても、田中さんは逃げられる」
「俺はそのまま、気にせず奴らを巻けるし、最悪、戦える」
そして、付け加えた。
「釣り場は、自然領域にある」
自然領域――獣道や、山の奥。
「佐藤君も、気づいていたか……?」
俺は、その言葉にすぐ反応した。
聞けば、佐藤も前から知っていた。
村から一斉に逃げることが決まり、全員で脱出用のバスに乗り込んだ。
その際、村の一人が町で噛まれ、感染した状態で村へ戻ってきていたことで、村でパンデミックが発生した。
ほとんどの人間はなんとかバスに乗り込み、逃げることができた。
だが、何人かが逃げ遅れた。
佐藤もその逃げ遅れた一人らしい。
ただ佐藤以外の逃げ遅れは、その感染者にやられてしまった。
……もしかして。
俺が最初に村に来た時に見た、あの八体は、その時の逃げ遅れの人々なのかもしれない。
俺はあえて何も言わなかった。
村は小さい、ほとんどの人が知り合いだっただろう。
佐藤は、なんとか逃げ延びるために村の奥にある獣道を使って逃げた。
それは、この村の子供たちの秘密通路。
佐藤も、子供の頃によく使って遊んだ道だった。
見つからないよう、息を殺して移動した。
だが、奴らはそのルートには、近づきもしなかった。
その後もしばらく索敵したが、奴らは自然領域の手前まで来て、踵を返して引き返していく。
そうして、なんとか村を脱出し、村から五キロほど離れた場所で、逃げ遅れが来るかもと待っていた1台のバスと合流できた。
それ以降、佐藤は「もしかしたら」と思い続けていた。
そして避難所でパンデミックが起きたことで、それは確信に変わる。
両親と村の仲間を亡くし、佐藤はこの村に戻って、最後を迎えるつもりだった。
その道中、なるべく山道を選び、自然領域を通るルートを選択した。
そのルートでは、奴らに一度も遭遇しなかったのだ。
もちろん、山道ではない県道や、物資確保のために入ったコンビニでは、何度も見ている。
それは決して少なくない数の感染者であった。
それなのに自然領域内で一度も遭遇しないは偶然ではないはずだ。
――ここで、俺と佐藤の考えが一致した。
「自然領域には入らない」
それは仮説から、確証に変わった。
ただし、条件がある。
それは奴らが獲物を認知していない時に限る。
一度でも獲物として認識されたら、どこまでも追ってくる。
自然領域だろうと、川の中だろうと、関係ない。
奴らにとって重要なのは「場所」ではなく、「獲物」だ。
一度獲物と認知されれば、安全な場所など存在しない。
これは俺自身、何度も経験しているから身にしみて理解している。
だが――
気づかれさえしなければ、奴らが決して踏み込まない領域がある。
理由は分からない。
本能なのか、地形なのか。
だが、結果として“入らない”という事実だけは、何度も確認されている。
この確証は、今後の安全面に大きく関わる。
この村に奴らが押し入ってきたとしても、佐藤が使ったその道が避難路として機能する。
それは拠点を作る上で、最後に残る選択肢を確保できるということだ。
逃げ道がある。
それだけで、生存確率は跳ね上がる。
俺たちは話し合い、そのルートを今後の避難路とすることに決めた。
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というわけで。
佐藤は柵作りへ。
俺は釣りへ。
これが、本当のスローライフ――
いや、生存戦略の一部だ。
まだスローライフには程遠い・・。
餌は、土を掘ってミミズ。
竿は、佐藤の実家にあったものを貸してくれた。
この季節は、ほとんど魚は釣れないかもしれないらしい。
だが、ニジマス、オイカワ、ハヤ。
運が良ければ、イワナ。
魚をほとんど知らない俺は、どれがどれか分からないが、とりあえず行くしかない。
村の中央を流れる川を出口側へ進み、少し山道に入って、三百メートルほど上流へ。
本流ではなく、支流へ向かう。
そこには、高さ三メートルほどの滝と、その下に小さな滝壺があった。
雨で濁ってはいるが、確かに魚はいそうだ。
ほぼ釣り初心者の俺に釣れるかは謎だが、やるしかない。
土を掘り、ミミズを捕まえる。
正直、気持ち悪い。
だが、背に腹は代えられない。
細かくカットし、針につける。
滝壺へ投げる。
佐藤からは、
「底にいるから、着底させてじっと待て」
そう言われていた。
……待つ。
こない。
こない。
こないなー。
雨の日って、釣れないんじゃない?
釣りって、一体何が面白いんだ?
悪態が独り言のように出始めた、その時――
グンッ。
竿がしなった。
「!?」
慌てて巻く。
佐藤からは、
「反応したら落ち着いて、針を合わせろ」
と言われていたが……
そんな言葉は、もう頭から消えていた。
全力でリールを巻き、竿を引く。
完全に力任せ。
釣り上級者が見たら、きっと怒鳴られるやり方だろう。
そして――見事、釣れた。
少し銀色で、黒い斑点。
体の中央に、薄い赤色の線。
大きさは、二十五センチほど。
「……食べ頃サイズか?」
この魚が何かは知らない。
だが――やった。
釣り、楽しいじゃないか。
我ながら、見事な手のひら返しだった。
俺は、その瞬間からアングラーになった。
そこから、三時間。
釣りに夢中になり、雨が上がっていた事に今気づく。
そして太陽が雲の向こうで一番高くなった頃、
佐藤がやってきた。
「釣れたか?」
俺は、ふふふ、とバケツを見せる。
最初に釣れた魚が三匹。
十五センチほどの魚が四匹。
ドヤ顔で見せる。
「おお、ニジマスとオイカワか。よく釣れたな。
これは後で内臓とかを処理しよう」
その顔を見て、俺は思った。
――俺は、釣り師になろう。
俺の釣り人生は、まだ始まったばかりだ。
――――the end-----------
……いや、終わらんわ。
俺はすぐに聞いた。
「柵は、どうだった?」
佐藤は、親指を立てた。
「奴らはいなかったから、スムーズに行ったよ。柵も、取り付けは全部終わった」
佐藤……この男は……できる男だ。
俺たちは、一緒に柵を見に行くことにした。




