第一話 ヘルプミー、プリーズ!
ダン。
私は跳躍した。
ズガーン。
背後で何かが弾ける。
――まだ、追ってくる。
木に飛び乗り、次の木へ。
風が枝葉を揺らし、視界が流れる。
川が見えた。
迷わず飛び込む。
冷たい水が、全身を包み込む。
そのまま、潜る。
必死に泳ぐ。
泡が視界を横切る。
むぅ……。
息が、苦しい。
ザパァッ。
水面に顔を出し、思いきり息を吸い込む。
ハァ、ハァ……。
前を向いた、その瞬間。
岩が、すぐそこに迫っていた。
ゴンッ。
体を強く打ちつけ、バランスを崩す。
水が口の中に流れ込む。
沈む。
足をばたつかせるが、体が重い。
苦しい……。
イヤだ!
こんなところで、このまま死ぬのはイヤだ!
流れに身を任せる。
水が体を運ぶ。
少し、水面が近づいた。
最後の力で、水を蹴る。
ブハァッ。
ゲホッ、ガホ、ゲホォ……。
涙も鼻水も止まらない。
それでも構わず、空気を吸い込む。
岸に、這い上がる。
そこは草原だった。
濡れた草が、足元に絡みつく。
身震いし、水滴を振り払う。
毛繕いをしながら、水面を見る。
――桃色の九尾を持つ、小さな狐が映っていた。
……違う。
私は人間だ。
名前は、アミ。
女だったはずだ。
それ以外のことは、何もわからない。
目を覚ましたとき、喉が渇いていた。
それで川の水を飲みに行った。
その水面に、この姿が映っていた。
もしかすると、最初から九尾の小狐なのかもしれない。
それでも、胸の奥で何かが告げている。
――自分は、人間だと。
九尾の狐についての知識はある。
妖で、強い妖力を持つ存在。
だが、
ここがどこなのか。
なぜこうなったのか。
自分は何者なのか。
わからない。
そして、あいつら。
目覚めたばかりの私を襲い、追ってきた存在。
理由を、知りたい。
まずは、安全な場所を探す。
情報を集める。
……ぐきゅるるるー。
まずは、食べ物か。
追われ続けていたせいで、時間の感覚は曖昧だ。
それでも、体は正直だった。
私は立ち上がり、
草原の中へと歩き出した。
太陽は真上にあった。
日差しは強く、草は背丈ほどに伸びている。
私は歩きながら、食べ物を探していた。
ガサガサ。
前方から、草をかき分ける音がする。
私は足を止め、息を殺した。
……近づいてくる。
何だ?
もしかして、あいつらか?
追ってきたのか?
草の陰に身を隠し、身構える。
「うーん、おかしいなあ。
何かいると思ったんだが……。
オラの勘が、外れたのか?」
姿を現したのは――コボルトだった。
ぐぎゅるるー。
……私のお腹の馬鹿!
「何だ?
こっちか?」
視界が開け、私は思わず息を呑んだ。
「子ども!?
こんなに幼い子が、どうしてこんなところに?」
コボルトは、解せないという顔でこちらを見ている。
襲ってくる様子はない。
……ひとまず、安心だ。
にしても。
やはり、子どもか。私は。
グギュルルー。
気が抜けたせいか、またお腹が鳴った。
……恥ずかしい。
「腹が、減っているのか?」
私は、こくりと頷いた。
「林檎ならあるが、食うか?」
ブンブン。
勢いよく、首を縦に振る。
「わかった、わかったから、落ち着いて」
コボルトは苦笑しながら、背負っていたリュックを下ろす。
中から取り出したのは、艶々と光る林檎だった。
その瞬間――
私は、思わず飛びついていた。
「わっ!
わっ!」
驚いたコボルトが尻餅をつき、林檎を取り落とす。
私はお構いなしに、それにかじりついた。
……美味しい。
とてつもなく、美味しい!!
「……そんなに腹を空かせてたんか」
コボルトは、少し困ったように顔をしかめた。
林檎をあっという間に平らげた私は、
満腹になり、ようやく一息つく。
「なあ、お前。
名前は何て言うんだ?」
優しい口調で、コボルトが尋ねてくる。
「アミです。
美味しい林檎を、ありがとうございました」
ぺこりと、頭を下げた。
「気にしなくていい。
それより、アミ。お父さんとお母さんは、どこにいるんだ?」
「……わからないです」
少し考えてから、言葉を続ける。
「目が覚めたら、森にいました。
それから、変な奴らに襲われて……
夢中で逃げていたら、ここにたどりつきました」
コボルトは難しい顔をして考え込んでいたが、やがて、いくつか質問をしてきた。
私は、自分が本当は人間であることはぼかしつつ、起きたことを正直に答えていく。
「うーむ……記憶喪失、なのか……」
コボルトは、うんうんと唸りながら思案し、その様子を私はじっと見ていた。
しばらくして、彼は大きく息を吐き出し、こちらを見た。
私は慌てて、居住まいを正す。
「なあ、アミ。
お前のことがわかるまで、オラの家に来ないか?」
「……いいのですか?」
コボルトは、あいつらと同じではない。
たぶんだが、悪い亜人さんでもない。
けれど、コボルトにとって私は、得体の知れない子どもだ。
しかも、何かに追われている身。
……迷惑でしかないだろう。
「こんなところに、子どもを一匹で置いていくなんてこと、できるわけねえ」
胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。
「オラの住むトルトゥール村は、ここから険しい山と谷を越えた先にある。
ちと遠いが、我慢してくれ」
「はい。
よろしくお願いします。
えっと……」
……この人のこと、何て呼べばいいんだろう。
「オラの名前、まだ言ってなかったっけな。
オラは、カクトだ」
「はい。
カクトさん。よろしくお願いします」
私は深く頭を下げた。
「ああ、こちらこそよろしくな、アミ」
にこっと笑ったカクトさんの笑顔が、眩しかった。
歩き出したカクトさんの背中を見失わないよう、私は後をついていく。
辺りには、私たちの立てる音だけが響いている。
カクトさんがいるとはいえ、少し不気味だ。
――と、カクトさんが足を止めた。
私も慌てて止まる。
「アミ。
草の陰に隠れていろ。動くんじゃねえぞ」
空気が、一気に張りつめた。
風が草を撫でた、次の瞬間――
左の方から、羽の生えたウツボが飛びかかってきた。
体長は、カクトさんの二倍はある。
……あれは、違う。
妖や幻獣、亜人のすべてを知っているわけじゃない。
それでも、あれは私たちと同じ存在ではないと、何かが告げていた。
羽の生えたウツボが、カクトさんに噛みつく。
カクトさんは跳躍してそれをかわし、
そのまま、羽の生えたウツボの顎へキックを叩き込んだ。
羽の生えたウツボが、後方へ倒れる。
その首めがけて、カクトさんの拳が炸裂した。
ガガッ、と唸り声を上げ、
羽の生えたウツボは、動かなくなった。
「アミ!
大丈夫か? 怪我はないか?」
カクトさんは安堵したように息を吐くと、
リュックから少し大きめの包丁を取り出し、羽の生えたウツボの腹を裂いていく。
目の前で、私たちに近い生き物が死んだ。
それなのに、私は不思議と落ち着いていた。
当たり前のこととして、受け入れている自分がいる。
今も、この解体を平然と見ていられる。
一瞬、グロいなとは思った。
けれど、その感情はすぐに消えた。
――そうしなければ、ここでは生きていけない。
何かが、私に強く訴えていた。
解体を終えた羽の生えたウツボの肉を、
カクトさんは布で包み、リュックにしまっていく。
「……全部、入りきるのですか?」
血の匂いをまとったカクトさんに近づきながら、私は尋ねた。
「大丈夫だ。
このリュックは、タラマーナボックスだから」
タラマーナボックス……?
首を傾げる私に、カクトさんは説明してくれる。
「見た目より中が大きくなっていて、物がたくさん入る鞄だ。
タラマーナって名前のアニマが開発したから、そう呼ばれてる」
なるほど。
便利なものがあるんだな。
「襲ってきたやつは、何なのですか?」
これも、気になっていたことだ。
「ああ、あれはマニアっていってな。
オラたちアニマを襲ってくる存在だ。
中には、共に暮らしていく関係のもいるがな」
少し間を置いて、続ける。
「今の羽の生えたウツボは、ウツボルムって種でな。
アニマを見ると、襲ってくる。
だが、肉は美味いことで有名なんだ」
……マニアって、動物みたいなものなんだ。
「そろそろ、行くぞ」
何事もなかったかのように、カクトさんは歩き出す。
私も、すぐにその後を追った。
もくもくと歩いていく。
足元の草を踏みしめるたび、風が頬を撫でた。
風が、気持ちいい。
二、三回、休憩を取りながら進む。
ザッ、ザッ。
草を踏み分ける音がした。
次の瞬間――
私の目の前に、兎の足と耳が生えた切り株が現れた。
狐火!!
青白い炎が弾けるように迸る。
ギィー、と断末魔をあげながら、兎の足と耳が生えた切り株は燃え上がった。
「アミ!!」
カクトさんが駆け寄ってくる。
頭や肩に触れ、怪我がないか確かめられる。
その間に、兎の足と耳が生えた切り株は、灰になって消えた。
「すまねえ、怖い思いをさせて」
カクトさんは、ばつが悪そうに顔を歪めた。
「大丈夫です。
それより、私が燃やしたのは、なんてマニアですか?」
「バニーカブっていうマニアだ。
冒険者見習いの、練習相手にちょうどいいやつだ」
ほほう。
冒険者というものが、この世界にはあるのか。
「さっ、あとちょっとで山の麓につく。頑張ろう」
詳しい話は、あとで聞こう。
その後も黙々と歩き続け、
空がすっかり茜色に染まるころ――
ようやく、山の麓にたどり着いた。
「さて、まずは火を起こすか。
アミ、小枝や落ち葉を集めてくれ」
「はい!」
二人で協力すると、小枝も落ち葉もすぐに集まった。
カクトさんは、それを並べた石の中に敷き詰める。
私は狐火を灯し、そっと火をつけた。
布と棒を使ってテントを立てたあとは、調理の時間。
今日のメニューは、ウツボルム肉のシチューと、クヌ茶。
出来上がったころには、すっかり日が沈んでいた。
夜空には、赤と青の月が並んで浮かんでいる。
月って、黄色で一つしかないものじゃなかったっけ。
……まあ、いっか。
ウツボルムの肉は鶏肉のような味で、
クヌ茶は紅茶みたいな味がして、美味しかった。
焚き火が、パチパチとはぜる。
その音が、静かな夜に溶けていく。
「オラは昔、冒険者だったんだ」
カクトさんは、炎を見つめながら語り出した。
「冒険者ってのは、ダンジョンって迷宮を探索したり、
ギルドって施設からクエスト――つまり、頼まれごとをこなす、アニマたちのことだ」
「今はやめて、トルトゥール村の自警団の団長をやってる」
なるほど。
だから、あんなに強いのか。
「トルトゥール村は田舎でな。
豊かな自然以外は、特に何もねえ」
カクトさんは頬をかきながら、少し照れたように言った。
「でも、のんびり暮らすには、ちょうどいい村だぞ」
その様子を見て、
私の中にあった村での生活への不安が、少しだけ薄れた。
「アミ。
何か、オラに聞きたいことはあるか?」
カクトさんは、私の目をまっすぐ見て尋ねてくる。
「ここが、どういう場所なのか知りたいです」
私の言葉の意味を察したのか、
カクトさんは、ゆっくり頷いた。
「ここは、アニマルーン。
七つの大陸からなる世界で、
多種多様なアニマたちが、共に暮らしている」
「昔は、ニンゲンって生き物がいたらしいが……
今じゃ、お伽話だな」
人間はいない。
うすうす感じてはいた。
それでも、胸がきゅっと痛む。
悟られないように、私は別の質問をした。
「村についたら、私はどうすればいいですか?」
「幼稚園に通ってもらう。
アミくらいの子が、たくさんいるところだ」
「村のみんなには、
オラの遠い親戚の子って紹介する」
「気のいいやつばかりだ。
すぐになじめるさ」
そう言って、カクトさんは私に微笑んだ。
「明日は朝早くから歩く。
もう寝るぞ」
焚き火の残り火を消し、カクトさんは横になる。
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
身体を丸めると、すぐに眠気が押し寄せてきた。
――生きのびてやる。
そんなことを思いながら、
私は、カクトさんの横で眠りについた。
それから三日目の昼。
私たちは、見晴らしの良い丘の上に立っていた。
眼下には、木や岩でできた家々。
その中央を、大きな川が流れている。
――トルトゥール村だ。
私は、晴れ渡る青空を仰いだ。
頑張るぞーー。




