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セックスをしよう — 人類の未来

第一章:完璧な誕生


2180年、世界はかつてないほど静かだった。

空気中から雑音が消えたわけではない。だが人々の話し声には濁りがなく、街の騒音には秩序があり、都市の喧騒すらも、機械仕掛けの心拍のように一定のリズムを刻んでいた。

それは、すべてが「最適化」された社会の音だった。


彼——ユウトは、そんな世界の成果だった。

身長182センチ、体脂肪率12%、均整の取れた骨格と、わずかな表情の変化にも敏感に反応する深い眼差し。IQは152、EQもまた「上限値」に調整された。彼は誕生の瞬間から社会にとって「理想的」な構成員であることが約束されていた。


ユウトはデザイナーズベイビーだった。


両親はいない。正確には「設計者」としての両親が存在したが、彼にとってその意味はあまり重要ではなかった。彼は生まれながらにすべてを受け入れるよう育てられた。感情の抑制、理性の優先、他者への共感と、社会的役割への自覚。

彼は薬剤師として、社会に仕えるために完璧な知識と判断力を持つように設計された。


遺伝子プールは狭かった。いや、狭くすることが目標だった。

犯罪傾向を示す遺伝子、神経疾患のリスク、社会不適応の素因、あらゆる「逸脱」の因子は削除され、次第に人々の遺伝子は平均化された。

「完全性の追求」が社会全体の基本理念であり、それは出生の段階から完成されているべきとされた。


だが、その静けさは突然、裂けた。


それは、ある朝のニュースで始まった。


ニュースのアナウンサーの声はいつものように落ち着いていたが、画面の向こう側で伝えられる内容は違っていた。


「本日未明、中国南部で新種のウイルス感染症が報告されました。専門家によると、ムンプスウイルスの新型変異株であり、これまでのものとは異なる感染力と致死率を持つ可能性があります。感染拡大のリスクに備え、国際機関と連携して調査が進められています。」


ユウトはそのニュースを見ながら眉をひそめた。ムンプスウイルス——それはかつて根絶されたはずの病原体だった。だが、新たな変異によって再び姿を現したという。


政府はすぐに対策を講じた。

すべての空港と港は封鎖され、感染者の隔離と監視が開始された。だが、遺伝子がほぼ均一化された社会において、新たなウイルスはそれまでの想像を超える速さで広がり始めていた。


「沈黙の感染」と呼ばれるその現象は、初期段階では目立った症状を示さず、人々の間を静かに、しかし確実に広がっていった。


ユウトはこの事態に直感的な危機感を覚えた。薬剤師としての知識と職責が彼を動かした。


「このウイルスは、宿主細胞のシアル酸受容体に結合して侵入する……だが、我々の均質な遺伝子プールがかえって感染を助長しているのかもしれない。」


彼はすぐに研究を始めた。


変異ウイルスの特性、宿主の遺伝的背景、薬剤による阻害可能性、すべてを洗い出すために。


だが、その過程で彼は、社会の根幹を揺るがす事実にも気づき始めていた。


「もし遺伝的多様性が失われていることが、これほど致命的なリスクを生むなら、我々の社会は根本から見直されなければならない……。」


ユウトの胸には、これまで感じたことのない疑問と、わずかながらの不安が芽生えていた。



第二章:沈黙の感染


新型ムンプスウイルスは、じわじわと社会を覆い尽くし始めていた。

初期の感染者はほとんど無症状か軽度の風邪のような症状で済み、誰もそれが致命的な脅威になるとは想像していなかった。だが、感染力は驚異的で、数か月のうちに人口の10分の1にまで広がった。


この感染の静かな波は、人々の「完璧さ」への執着が逆に災いしたものだった。

遺伝子の均質化は、免疫系の多様性を著しく減少させ、ウイルスは一つのパターンに最適化された人間集団に深く食い込んでいった。


ユウトは昼夜を問わず研究に没頭した。

変異ウイルスのゲノム解析、感染経路の特定、そして何よりも、治療薬の候補を探すことが彼の使命となった。


「宿主細胞のシアル酸結合部位を狙うことができれば、ウイルスの侵入を防げるかもしれない……。」


だが、その薬剤設計は簡単ではなかった。

均一化された遺伝子が持つ微細な差異、ウイルスの多様な変異の連鎖、さらには薬剤の副作用リスク。

彼は何度も失敗し、何度も夜を明かした。


その中で、政府は感染拡大を隠蔽し、事態をコントロール下に置くために精子バンクの一時停止を決定した。

「これ以上の出生は遺伝子の多様性を薄め、感染リスクを増大させる」という理論からだ。


だがその決定は社会に不安をもたらした。

出生管理の崩壊、自然出生者の増加、そして遺伝子操作された「完璧な人間」たちの優位性の喪失。


ユウトは、その狭い遺伝子プールがもたらした脆弱性と社会の揺らぎを目の当たりにし、心の中に複雑な感情が芽生えていた。


「完璧であることは、本当に正しいことなのか?」


彼の心は、これまでにない葛藤に包まれていた。


政府の決定は瞬く間に社会のあらゆる層に波紋を広げた。

精子バンクの停止は、出生の人工管理システムの根幹を揺るがすものだった。

この国の「完璧な人間」は、遺伝子操作によって選別され、優秀な遺伝子のみが次世代に受け継がれてきた。

しかし今、その流れが断ち切られようとしていた。


街の片隅では、自然出生者──「旧人類」と呼ばれる者たちの存在が注目され始めた。

彼らは遺伝的に多様で、完璧とは言い難いが、その多様性こそがウイルスに対抗する最大の武器であった。


ユウトは焦燥感にかられながらも、研究室で培養細胞とデータの前に座り続けた。

感染経路を阻害できる薬剤の分子設計を繰り返し、少しずつ手応えを掴みかけていた。


しかし彼の中で、ただの薬剤師ではいられない思いが強まっていた。

「このまま完璧な遺伝子のみを追い求めていても、結局は自らの首を絞めるだけだ。」


政府は感染拡大の責任を押し付け、情報を操作し続けていた。

そんな中で、ユウトは自身の使命を超えた決断を迫られていた。


遺伝的多様性の重要性に気づいた彼は、密かに旧人類との接触を試みることを決意する。

それは彼にとって未知なる世界への扉であり、同時に「完璧」な自分自身を揺るがす旅の始まりでもあった。



第三章:分岐点


ユウトは夜の闇に紛れて、都市の外縁部へと足を向けた。

そこには政府の遺伝子管理の手が届かない「旧人類」たちの集落があった。

均質化された優生社会とは異なる雑多な人々が暮らしていた。


彼は呼吸を整えながら、集落の中心に向かう。

自然出生者たちは、不完全であることを恥じることなく、自由に笑い、泣き、そして傷ついていた。

彼らの多様な遺伝子は、ユウトが研究で見たウイルスへの抵抗力の秘密を秘めているかもしれなかった。


初めての対話はぎこちなかった。

だが、徐々に心の壁が崩れていく。

自然出生者の女性、ミサキは、ユウトに言った。


「あなたが完璧だって? でも、その完璧さは何を意味するの? 本当に生きているって感じる?」


その言葉はユウトの胸に鋭く突き刺さった。


同時に、政府は感染拡大の責任を回避し、出生管理システムの停止を強化する方針を固めていた。

しかし、その政策は社会の分断を生み、優生社会の終焉を告げるものだった。


ユウトは自分の立場と信念の狭間で揺れ動いた。

彼が信じていた「完璧」という概念は、もはや成立しえなかった。


彼の研究室に戻ると、新たな決断が彼の心を支配した。


「遺伝的多様性こそが人類の希望だ。私は、この現実を受け入れ、戦わなければならない。」


そして彼は、政府と対立する道を選んだ。



第四章:遺伝子の解放


ユウトは旧人類の集落へと足を運び続けた。

そこは、彼がこれまでに知らなかった感情と不確かさに満ちていた。


ミサキとの交流は深まり、彼は次第に「完璧さ」に囚われた自分の価値観が揺らいでいることに気づいた。

自然出生者たちは、不完全ながらも自由で、矛盾に満ちた人間らしさを持っていた。


ある日、ミサキが彼に言った。

「ユウト、あなたは何を恐れているの? 本当の自分を知ることを。」


その問いは、ユウトの内面を深く揺さぶった。

彼の遺伝子は設計され、感情は抑制されていた。

だが、この場所で彼は初めて、自分が人間であるという感覚を取り戻し始めていた。


一方、ウイルスは猛威を振るい続けていた。

均質化された社会は崩壊の危機に瀕し、政府の統制は弱まりつつあった。


ユウトは研究の手を止めなかった。

彼は自然出生者の遺伝子多様性を活かし、ウイルスに対抗する方法を模索し始めた。


その過程で、彼は初めて「不完全」な人間たちの強さと美しさを理解した。


「完璧じゃなくても、いいんだ。」


この気づきが、彼の心の枷を解き放ち、次の決断へと導いた。



第五章:セックスをしよう


ユウトは自分の遺伝子を、そして身体を見つめ直した。

デザイナーズベイビーとして設計された完璧な遺伝子。

だがそれは、彼自身の自由意志や感情とは無縁の「完成品」に過ぎなかった。


ミサキと過ごす時間が増えるにつれ、彼は初めて「愛」という感覚を知った。

それは設計書にはない、人間だけが持つ複雑で不確かな感情だった。


「セックスをしよう」とミサキが言った。


その言葉は、彼の胸に火を灯した。

それは単なる身体的な行為を超え、生命の根源的な営みであり、新たな遺伝子の可能性を生むものだった。


ユウトは覚悟を決めた。

自分の完璧な設計を一度離れ、未知なる多様性の世界へと踏み出す決断を。


彼はミサキと共に、自らの遺伝子と向き合い、愛し、受け入れた。

それはまさに「人間であること」の再発見だった。


社会の目は冷たかった。

しかし彼にとって、個人の自由と遺伝的多様性は未来への希望だった。


新型ムンプスウイルスとの戦いは終わらない。

だがユウトはもう一人ではなかった。



エピローグ:未来の設計図


新型ムンプスウイルスの猛威は、ついに収束へと向かい始めた。

ユウトが開発した宿主細胞のシアル酸結合阻害薬は、ウイルスの侵入を効果的に阻止し、多くの命を救った。


社会は変わりつつあった。

均質で「完璧」な遺伝子だけを求める優生社会は終焉を迎え、多様性と不完全さを受け入れる新たな時代が幕を開けた。


ユウトは静かに窓の外を見つめ、微かに笑みを浮かべた。

彼の胸には新たな生命の息吹が宿っている。


「セックスをしよう。」


その言葉は、未来を生きるすべての人間に向けられた希望の合図だった。


多様な遺伝子が織りなす生命の連鎖。

それは、たとえ不確かでも、確かな未来を築く鍵となる。


完璧さを追い求めるのではなく、不完全さを愛し、受け入れること。

それこそが人間の本質であり、未来への設計図だった。

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