第11話 【回想】
どうして私は何もできないんだろう。どうして私はこんなにも役立たずなんだろう。今日も私は自販機の前で重い溜め息を吐いていた。
あのオフィスにいるのが酷く苦痛で、耐えられなくて、飲み物を買ってくるだなんて嘘をついて抜け出した。本当は何も飲む気なんてないのに。
あぁ、でも、戻らないといけない。あの人達がいるあの場所へ。なのに、体は思うように動かない。体はずっしりと鉛のように。このままここで動けなくなってしまいそうで。私は、私は──。
『田辺さん、お疲れ』
『あ、先輩、お疲れ様です』
緩やかな笑顔を浮かべるこの人は私の先輩だ。先輩は私の教育係でもあった人で、こんな私を今でも気にかけてくれる。
なにもそれは私だけじゃない。先輩は周りの人達をよく見て、気にかけてくれる、そんな人だ。
『田辺さんは今休憩?』
『あ、いえ! 私はちょっと飲み物を買おうかなと……』
『俺もだよ』
そう言うと、先輩は自販機に硬貨を入れる。
『田辺さんは何飲むつもりだったの?』
『え? えーと、あ、コーヒー飲もうかなって』
『そっか、じゃあはい』
『え?』
先輩はボタンを押すと、自販機から出てきたその缶コーヒーを私に差し出した。
『え! いいですよ、そんな! あ、お金返します!』
『いいのいいの、ついでだからさ』
『でも……』
『田辺さん、さっきあの上司に捕まって大変だったろ?』
その言葉に私はハッとする。あの場面を見られていたのか。ほんの些細なミスではあったが、そのことを足掛かりに、色々な言葉を浴びせられていた。まさかそんなところを見られていたなんて、本当に不甲斐ない。
『だからこれは、その労いみたいなもん。すぐに気づけなくてごめんな』
『先輩』
『さっきのこともそうだけど、何かあったらいつでも相談していいからな』
『……すみません』
『謝る必要なんかないって、俺なんて大したことできないからさ』
決してそんなことはない。だって先輩は、いつも私達の声に耳を傾けてくれて、一緒に悩んで、考えて、怒ってくれる。
誰かが理不尽な目にあっていたら、すかさずそこに入り込んでフォローをしてくれている。私はそんな先輩の姿を知っている。だから──。
『そんなことはないです! いつも、本当にありがとうございます』
『はは、ありがとな。それじゃ、落ち着いたら戻ってくればいいから。俺は先に戻ってるわ』
先輩は自分の分の飲み物を買わずに、そのまま戻っていった。私は手の中の缶コーヒーを大事に握りしめた。
♦︎
上司からの言葉は日に日に酷くなっていく。私が使えない奴なのがいけない。それは否定しようがない。
でも、あからさまに態度が酷くなった理由は一つ分かる。上司からの好意を、私が断ったからだろう。
それを間違いだったとは思っていない。だって、上司には家庭だってあるのだ。だから私は決して間違えてはいない。間違えてはいないはずなのに。職場での呼吸は苦しくなるばかり。
『また田辺さん怒られてましたね〜』
『あぁ、あの子なんか目つけられちゃってるからねぇ』
『何でですかね?』
『さぁ、何か気に触るようなことしたんじゃない?』
『あの人ちょっと天然なとこあるし』
『あぁ! それ分かります〜』
『なんか、毎回付き合わされる宮地さんも気の毒じゃない?』
『ねぇ〜! あ、案外わざとだったりして!』
『やだ、こわ〜い!』
『でも正直、田辺さんってさ』
私は息を潜めてお手洗いの入口に立っていた。彼女達は楽しそうに私の話に花を咲かせる。一つ一つの言葉が、冷たい針のように私の心臓に突き刺さっていく。
彼女達は気が済んだのか、飽きたのか、別の話題へと変わっていく。
『……お疲れ様です』
『あ、田辺さん!お疲れ様〜!』
『お疲れ様です!』
彼女達は貼り付けたような笑顔で私を見る。私も笑顔を貼り付ける。バレないように、悟られないように、何も知らないフリをする。
こんなことは私一人が知っていればいい。先輩をこれ以上巻き込むわけにはいかない。
♦︎
何もかもがしんどい、何もしたくない、何も考えたくない、何の気力も湧かない。ただ虚しくて、ただ悲しくて。今日が終わればまた明日がやってくる。それが恐ろしくて堪らない。
時計は願っても止まらず、正しく時を進めていく。陽の光がこんなにも恐ろしいものだとは知らなかった。
♦︎
大の大人がこんな所で泣けない。我慢できなくて、誰にも見られたくなくて、ただ一人になりたかった。私はあてどなく会社を歩いていた。
オフィスから賑わう声が煩わしい。誰にも会いたくない。私の足は自然と屋上へと向かう、今ならきっと誰もいないだろう。
空には夕日が混じり始めていた。
『え?』
誰もいないと思っていたから、そこに居た意外な人物に思わず声が溢れる。屋上には無数のシャボン玉が漂っていた。夕日に照らされたシャボン玉はきらきらと光り輝く。
『先輩?』
『え、田辺さん? あ、やばっ』
先輩はさっきまで吹いていた吹き棒と、シャボン玉液が入った容器を慌てて隠した。今更隠されても全て見てしまっているのだが。どこか恥ずかしそうな先輩に私は尋ねる。
『先輩は、ここで何をしていらしたんですか?』
先輩はバツが悪そうに笑う。
『これ、コンビニの景品で当たったんだよ』
先輩は容器を揺らして私に見せてくれた。
『貰っても家で出来る所もないし、どうしようかな〜と思ってたんだけど、この時間ならここ誰も居ないし、気分転換も兼ねて使い切っちゃおうと思ってな』
『まぁ、見つかったんだけどね』と、先輩は緩やかに笑った。周りの人達の貼り付けた表情とは違う。その表情に、私も釣られて笑ってしまった。
『綺麗ですね、とても』
『なぁ〜、久しぶりに見ると凄い綺麗だよな』
先輩はベンチから立ち上がると、吹き棒を容器に浸し、勢いよくシャボン玉を吹いた。一気にシャボン玉が辺りに散らばる。夕日に照らされ、きらきらと光始める。それは眩しいくらいに。
『たまにはこういのもいいだろ』
あぁ、本当に、とても綺麗。その笑顔は私にとって眩しくて、遠くて、何故だかまた泣きそうになった。
♦︎
同じことを淡々と繰り返す日々、ただ消費されていく日々、すり減っていくその先に、報われる日は来るのだろか。
暗い部屋のベッドの中、私は小さく蹲りながら、机に置いてある物を見た。たまたま通り掛かったお店で売っていた。その商品から目が離せなくて、つい買ってしまったものだ。
それはまだ開封されてもいない。我ながら馬鹿だと思う。私はまたゆっくりと目蓋を閉じた。
♦︎
先が見えない。辞めたところで私のような人間が、他で上手くいくとは思えなくて。
考え得るいくつもの未来は、どれも真っ暗で先がなかった。
何より先輩を裏切りたくなかった。こんな私をいつも助けてくれて、味方でいてくれる、あの優しい人を裏切りたくない。その感情だけが、私の重たい体を動かした。
♦︎
いつまで続くのだろう、区切りはあるのだろうか。そんなもの、どこにも無いのかもしれない。ずっとずっとずっと続いている。ずっと、ずっと、どこまでどこまでも、私を追ってくる。
♦︎
糸がプツリと途切れてしまった。上司の嫌味も、周りの人達の陰口も、もう聞こえない。もう自分は報われないのだと悟ってしまった。
すり減った先に、惨めな私が一人いた。もう、終わらせよう。
『田辺さん、今帰り?』
とても優しい 私の唯一の先輩
『はい、今日は早く上がれたんです』
『そっか、お疲れさん。ゆっくり休んでな』
『はい』
貴方のその言葉で その笑顔で
『先輩』
『ん?』
『ありがとうございました』
私は今日まで生きてこれました
♦︎
自室のベランダで、私は一人シャボン玉を吹く。無機質なそれは、辺りを漂い消えていく。あんなに綺麗だと思っていたのに、何も感じない。
やはり私では駄目なのだと実感する。最後なのに、然程いつもと変わらない自分に少し驚く。
さぁ、これで本当にお終いだ。私は床にシャボン玉の一式を置く。ベランダの手摺りに足を掛ける。
そのまま私は、シャボン玉と共に真っ逆さまに地面に落ちてゆく。あぁ、でも、一つだけ後悔があった。
『 』
シャボン玉は、地面にぶつかり、弾けて消えた。
♦︎
私は何故ここに居るんだろう。あんなに苦しくて解放されたかった場所なのに。どうして私はここから離れられないんだろう。また、私を苦しめる声が聞こえてくる。もう見たくないのに、聞きたくないのに。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌い、嫌い、嫌い、全てが嫌い、聞きたくない、嫌い、何もかも、全部、嫌だ、どうして私はここにいるの、誰か、誰か私を助けて、助けて欲しい、どうして苦しめるの、もう痛くないはずなのに、辛くないはずなのに、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
私が染まっていく、黒く黒く染まっていく。私の感情が怨嗟の声に上書きされていく。
あいつらが憎い、全てが憎い、違う、私はただ、ただ、憎いだけ、そう、全部が憎い、そうだ、憎いだけ、何もかもを呪った、嫌った、憎んだ、憎くて堪らない、あいつも、あいつも、全部、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い、違う、違う、私は、ワタシは──。
目の前を誰かが通り過ぎた。あれは誰だったっけ。違う、あの人は、ワタシの、言いたいことが、アレ、誰だっけ、憎いんだ、そうだ、皆憎いんだ憎いんだ憎いんだ、皆、皆、憎いんだ。
私が堕ちてゆく。