第1話 黒い会社
「頭下げろおっさん!」
「え? ちょ、ま、うおぁあっ!」
少年の声が響き渡るや否や、尻餅をついていた俺は、声が聞こえた方へ何とか振り替える。そこには、見知らぬ少年と少女が立っていた。
そして、少年の手にしていた物に驚愕した。俺の静止の声など聞かず、こちらに向けて少年が放ってきたその凶器は、真っ直ぐに俺の頭を掠めていった。
咄嗟に仰向けに倒れたから良かったものの、アレが直撃していたら一溜まりもなかっただろう。
様々な疑問はあるが、生憎今はそんなことを考えてなどいられない。俺は今、崖っぷちの状況に置かれているのだから──。
♢
遡ること数時間前。俺はいつもの通勤電車の中で揺られていた。人でごった返し、独特の臭いと湿気に包まれた満員電車の中は、お堅いスーツを身に纏った人々が大半を占めていた。
俺もその中の一人。まだ夏でもないのに蒸し暑い日だった。ただ一つ違うことを上げるとするならば、本来であれば、俺は休暇のはずだったということ。
何でも、急に会社のビル全体に大規模なメンテナンスが入るとかで、突然休暇が転がり込んできたのだ。
長年勤めていたが、こんなことは初めてだった。だからだろうか「はぁ」と、思わず溜め息を吐いてしまうのは。
休暇にも関わらず、スーツを着て会社に向かっている理由、それはとても単純なこと。会社に忘れ物をしたからだ。しかもそれは、仕事を進めるにおいて必要な書類だった。
休暇といっても、のんびり休んでなどいられない身だ。何もそれは俺だけじゃない、同じ会社に勤めている同僚達、皆が同じ境遇だろう。
昨日だって家路に着けたのは、日付をとうに越えている頃だった。
所謂ブラック企業というやつだ。元々ブラックな空気が蔓延していたが、現在の上司が特に酷く、そのブラックさを加速させている大きな要因であった。
おまけに社長の息子という肩書き付き。そんなものだから、皆は色んな意味で上司の顔色を伺いながら、日々の仕事をこなしていた。
でも、仕事があるだけありがたいと思わなきゃな……。
(しっかし、確かに鞄に入れたと思ったんだけどなぁ、寝ぼけてたか?)
常時寝不足気味の俺は、ふと電車の窓に映る隈を浮かべた己の顔を見ながら、ぼんやりと考え込む。
確かに鞄に入れたと思っていた資料が無かった時の絶望感といったらない。
音もなくまた溜め息を吐く。車内に響く駅員の無機質な声がどこか遠くに聞こえた。
♢
「すみませーん、誰かいませんか?」
会社の入り口、俺は鍵の閉まったガラスのドアを叩きながら声を上げていた。インターホンを鳴らしても、一向に誰も出てこなかったからである。
会社のビルの前に居るのは俺一人のみ。ドアから中を覗くが、作業員どころか、全く人の気配が感じられない。中は薄暗くガランとしていた。
中を覗いていると、どこか薄寒くなるような気さえする。こんなに熱い日だというのに。
「作業員って少ないのか?」
会社のビルは十階建てで、そこそこの大きさはある。大規模なメンテナンスというのだから、それなりに人数は居ると思っていたのだけれど。
しかし、これでは非常に困る。仕事が少しでも滞ったとなれば、俺だけでなく、周りの同僚や後輩達にまで迷惑をかけてしまう。
それに、あのねちっこい上司のことだ、ただでさえ長い説教という名の、ストレス発散の良い的にされてしまうだろう。
昨日は、後輩がしてしまった些細なミスについて、一時間のお叱りを受けた。それは誰が見ても本当に些細なミスだったのにも関わらず。後輩が気の毒で仕方がなかった。
なんでも同僚の話では、上司は最近夢見が悪く、あまり眠れていないとか。そのストレスを俺達にぶつけているのだそうだ。
そんなわけだから、上司を刺激するような要因を作り出すわけにはいかなかった。俺はともかく、周りの人達に被害をだすわけには絶対にいかない。あの上司のせいで、いったい何人の人達が辞めていったことか。
何も原因はその上司だけではないのだが、その上司が会社を辞める決定打になってしまった人達を何人も知っている。
そう、何人も。つい最近も後輩が一人急に辞めたばかりだ……。
いや、今はそのことを考えている時じゃない。雲がかった思考を払うように頭を振ると、会社の裏側へと足を向けた。
(裏口から、いや、空いてないと駄目なんだけど。まぁ、無理は承知駄目元だ……!)
会社の裏手は濃い日陰になっており、薄暗く、踏みしめる土や砂利は湿っていた。日陰だからか、少し涼しく感じるくらいだ。
そうして辿り着いた目的地、裏口の鉄製の扉の前で立ち止まる。その重い扉は、まるで俺の侵入を拒むかのように、目の前にずしりと佇んでいる。
何故だか緊張が走った俺は息を呑むと、その冷えたドアノブに手を伸ばし、握りしめた。手のひらに伝わってくるその冷たさを感じながら、ドアノブを回す。すると──。
「あ、れ……?」
俺の予想とは反対に、扉はガチャリといとも簡単に開いてしまった。余りにも簡単に開くものだから、拍子抜けを通り越して、呆然としてしまった。些か不用心すぎないかと思わなくもないが。
(でもまぁ、これはラッキー、だよな?)
これは幸運なことだ。自分にそう言い聞かせると、扉を開き、中の様子をそっと伺った。
室内は外よりもさらに薄暗く、廊下の奥の方は、一段と暗闇を増している。廊下の消火栓設備の赤いランプの点灯が、やけに目についた。
「誰か、いますか?」
念のため呼びかけるも、無機質な廊下には俺の声だけが響く。返事は返ってこない。仕方がない。俺はそっと重い扉を開くと、静かに室内へと足を踏み入れる。
そして、そのまま薄暗い世界へと入り込んでいった。瞬間、外の世界と繋がっていた扉は、ギィと重厚な音を上げ、その繋がりを完全に閉ざした。扉の閉まる音だけが辺りに響き渡る。
俺は振り返り、その変哲もない扉を見やった。何故だろうか、まるでこの世界に一人きり、取り残されたような、孤独にも似た感情が湧き上がってきていた。
夜の真っ暗な会社にだっていたことはある。最初こそささやかな恐怖を感じていたが、人間慣れとは凄いもので、とうの昔にそんな恐怖心はすっかり無くなっていた。
なのに、この状況にやけに胸が騒つくのは何故なのか。いくら薄暗いと言えど、真夜中と比べれば明るい。なのに、何故? 何がこの得体の知れない不安を増殖させているのか。
俺は取り巻く不安を蹴散らすように、大股に廊下を歩いていく。
(まさか、怖いと思ってんのか俺は? いやいや、流石にそれはないだろ)
自身の感情から目を逸らすように、目的の場所、六階を目指して突き進む。だからだろうか、俺は全く気が付かなかった。
誰も居なくなった廊下で、裏口の扉が閉まる音が小さく響いたことに。
♢
廊下の突き当たりを右に曲がり、また廊下を進むと階段が見える。エレベーターは動いていなかった。というより、会社全体に電気が通っていなかったのである。本当に何のメンテナンスを行なっているのか。
最近、運動不足気味な俺にとっては、六階までの階段上りは少々堪えるだろうが仕方がない。運動が出来るということで、これも良しと考えよう。
階段を上がり始めると、靴が床に当たる音がよく響く。一階、二階、三階へ、どんどん進んでいく。その頃にはもう、当初抱いていた不安など、心の奥底へと沈みきってしまっていた。
書類さえ手に入れば、もうどうということはない。仕事と相席する日常に戻るだけだ。
何も変わらない、ただ日常をこなしていくだけの日々に戻るのだ。そう確かに思っていた。思っていたのだ。この時までは……。