表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

掃き溜めで転んだ人

作者: 蛇蝎太思郎

 掃き溜めの中に宝石があっても、そこに群がる蝿から見れば、単なるゴミにすぎないだろう。蠅どもの評価基準においては、腐った生ごみや糞の方がよほど価値あるモノなのだ。だから、世間全体が蝿の集まりなら、宝石は永遠に輝きを見出されることはなく、打ち捨てられたままに違いない。

 ずっと凡人が凡人を褒めたり貶したりしている、この社会……生ごみに湧いたコバエを見ながら、悔し紛れにそう思った。

 二十七歳はとうに過ぎてしまった。暑い夏は終わろうとしている。それなのに俺は、汚れた四畳半に、裸足のままぼうっと立ち尽くしている。胸の中にガムでも詰まってる感じがする。酷く重い。

 黒ずんだまな板の上の玉ねぎは、悪いのを選んでしまったのか、ぐちゃぐちゃのズルズルに澱んでいた。それを、切れの悪い包丁で叩き潰すように分解してたら、みっともなく鼻水が垂れた。涙も出るかもしれない。いや、出ないか。ただの風邪か。硫化アリルをもってしても、涙なんか出やしない。悲しくても悔しくても惨めでも、ここ数年、泣くことができなくなった。ただ顔の筋肉をこわばらせて、ぼんやりと眼のピントをズラすだけだ。何も見ない。目を逸らしている。何もかも。

 どんぶり飯の上に炒めた玉ねぎをぶっかけて、マヨネーズで味を塗りつぶして、吞み下すように食べた。ちっとも肉のつかない身体を維持するために、頑張って食べたんだ。食べなきゃ人は死ぬ。でも、今日の食事はこれで終わり。

 流しに皿を放り込んだ。嫌な臭いが排水口から漂っている。ここですぐに皿洗いを済ませられない。それができるなら、今のような窮状に追い込まれなかったのかもしれない。コバエは好き勝手に飛んでいる。こいつらは自由に違いない。

 破れ始めた布のギターケースを背負い、小さな椅子と箱を片手に持って、部屋を出た。ドアを閉めたけど、ポケットの中に鍵が入ってないのに気づいた。面倒だ。どうせこの俺から盗むものなど何もないだろう。無価値の生活。アパートの汚い廊下で少し考えて、施錠せずに離れた。考えていたその時間で、部屋に戻り床に落ちている鍵を拾い上げ、ちゃんと自分の財産を守ることもできただろうに。そうやっていつも、自分で自分を損なっている。

 夏は好きだが、夏の夕方は嫌いだ。何かが終わっていく色をしている。昼間はあんなに光が白いのに、夕方になれば、茜と黒の二色が影を作る。走馬灯の影絵のようだ。冬になればむしろ、暖炉の灯りみたいな優しい人口の光が満ちて、かえって温かいのに。街路樹に落ちる夏の夕日は寒々しく、お腹の底まで冷える。

 いつも通っているアーケード街に行き着いて、ガムの黒い跡がたくさん残る隅の方で椅子を置き、腰掛ける。自分のSNSアカウントのQRコードを印刷したラミネートポスターを立てて、それから、借金して作ったCDを何枚か並べた。一枚五百円。売れるはずもないのだけれど。

 アコギのストラップを軽く引っかけて、それから、ちょっと音を鳴らす。アーケードでは自転車禁止なのに、目の前をオッサンのママチャリが走り抜けていった。他には誰もいない。適当に触って音を確かめて、今日の一曲目を始める。

 シャッターだらけのこの場所は、俺によく似合うと思っている。居心地がいい。天井でリバーブがかかって好きだ。セピア色の小さな世界。今歌っている曲に、ぴったりと馴染む空気。

 でも、それがメジャーからの逃避と言われたら、それはそうなんだろうと、同意するしかない。

 目の前を、楽しそうに笑う女子高生の集団が横切った。塾の話なんかしている。あの子がウザい、先生がウザい、受験がどうの、そんな言葉も聞こえてきた。彼女たちの視界に入るのは、ウザいクラスメイトや先生であって、俺は存在しないも同然みたいだ。俺の歌はウザくないんだろうか。昔の俺は、何をウザがってただろう? もう、あまり思い出せない。二曲目のイントロを始める。

 俺の昔の話をすれば、あの学生たちは俺の歌を聴いてくれたりしないだろうか? こっちを向いてくれないだろうか? いや、そんなので聴いてくれたとしても、惨めなだけか。

 最後までしっかり弾いて、自分の作る音がとても良くて、少しだけ楽しくなる。しばらく、ほうっと宙を見つめた。

 次の曲を始める。ゆっくりしたバラード。

 俺は田舎の出身で、大してお勉強もしなかったが、しかし成績は良かった。県外の大学なんてとても……という風潮もないではないクソ保守田舎だったけど、俺は、「村八分」の伝説のライブがあった大学に行きたいなと思ったから、それだけで特に苦労せず進学することができた。二番目に優秀とされる大学の法学部。何故法学部? 数学がそんなに得意じゃなかったから文系で、その中で一番定員が多かったのが法学部だったから。今となっては自慢にも笑い話にもならないが、俺はセンター試験の国語が満点だった。

 そこで勘違いしたのが、馬鹿の始まりだったのだろうと思う。俺は優秀だ。考えてできることなら、実現もできるはず。だったら、やりたいことをやってもいいだろう、と。大学には少しも行かず、詞と音のことばかり考えていた。女とも男とも、誰とも会わずに一人でいた。

 特に問題もなく、大学を卒業した。

 それで今、こうして何者でもない底辺の道を歩んでいる。

 俺は、自分の生きたい世界では、何一つ結果が出せなかった。大学四年間、俺は間違いなく努力したし、自分の表現したいものを明確に打ち出した。だが、なんの反応も得られなかった。オーディションでも、ネットに投稿した自作MVのコメント欄でも、悪口すら言ってもらえなかった。どれだけ作っても、歌っても、頑張っても、俺はずっと無色透明だった。いろんな人がいろんな場所で受け入れられていく。なのに、俺の言葉は誰にも届かない。焦っても、恨んでも、落ち込んでも、何も変わらない明日がやって来た。そうして今もなお、透明人間を続けているのだ。卒業後、無職時々フリーター。自分だけが特別だと思っていた人。

 曲が終わった。俺は一人、ため息を吐いた。さあ、次の曲を……

 その時、中学生らしい少年が、俺の目の前で立ち止まった。俺は歌い出した言葉を一瞬打ち消しかけたが、何でもないフリをして、自分の詞を声に載せた。一曲聴いてもらうこと、いや、一瞬でも意識を向けさせることが、どれほど難しいことか。少年は俺の目の前で立ち止まった。曲を聴いてくれているのか!

 久しぶりに嬉しくて、気合を入れて歌った。あんまり頑張りすぎたせいか、喉が少しおかしかった。最後まで弾いて、俺は少年の方を見た。少年は微笑んで「あのさぁ、」と言った。俺は「聴いてくれてありがとう。どうしたの?」と早口で答えた。

 少年は笑みを浮かべたまま「そんな曲、誰も聞いてないじゃん。なんのためにやってんの?」と言った。「てか、ゼッタイ才能ないって。俺でも分かるのに、自分で分かんないの? バカじゃん」そう言うと、少年は背を向けて、アーケード街を歩いて行こうとする。

 ふと、何かが倒れる音が聞こえた。見れば、並べていたCDが崩れたらしかった。

 その時、人生で初めて、カッとなるという感覚を味わったかもしれない。俺はギターを地面に叩きつけて、後ろから、子どもの制服の襟を引っ掴んだ。そのまま思い切り腕を振るったら、中学生は案外軽くて、シャッターにガキの身体が衝突し、大きな音が鳴った。俺は何か叫んだ。支離滅裂な内容で。今まで無視されてきた言葉、頑張って呑み込んできた言葉を、そっくりそのまま吐き出すように、吼えていたんだと思う。人を何度も何度も殴ったのだって、生まれて初めてだ。自分の手は、思ったより大きかった。

 アーケードの端にある交番から警察官が飛び出してきて、俺は刑事訴訟法二一三条に基づき現行犯逮捕されたようである。暴行、傷害、もはやどうにもならない。しかしガキも、一生心に残る傷を負ったに違いない。

 少し時間が過ぎた。

 相手のガキの親が血相変えて騒いでいるみたいで、いろいろ聞いてみた感じ、どうも許しちゃくれない気もした。そりゃ、親だもん、子を傷つけたクズを許しはしないだろう。だけど別に、もう、どうでもいい。考えたって仕方ないのだ。なんのための法学士か分からないけど、ロクに学んでいない俺の法律知識じゃ、どうせ確かなことは分からない。昔とは違う、今の壊れきった脳みそじゃ、なおさら何も分からない。

 それより俺は、カッとなった時に、ギターを叩きつけて壊した自分に絶望していた。鈍い頭に、それだけが酷く響いた。音楽だけがかろうじて、自分の中に残っていると思っていたのに。俺は平気で自己表現の道具に怒りをぶつけた。その程度の志だったということだ。

 結局、俺にはもう何も無くて、すっかり空っぽになっていたのだ。いや、最初から空虚だったのかもしれない。勘違いしていただけ。それに気づくのに、随分時間がかかってしまったというだけなのだ。あの中学生が、十四歳かそこらで知っていたことに、俺は今、この歳になってやっと、気がついた。

 呆然と、馬鹿みたいにパクパク口を開けて、なんとか息をするしかなかった。呼吸すら、努力しないとできなかった。掃き溜めの空気はスカスカに薄くて、なのに耐えがたい臭いがした。

 でもホントは、腐りきって悪臭を放っているのは、俺の方なのだ。俺の方なのだ。

 ○

 ごめんなさい。私は酷いことをしてしまいました。本当に、申し訳ございません。

 ○

 壊れたギターが元に戻ることはなかった。時間の中に消えてしまった。最初から、俺には重たすぎたんだ。力が無かったんだ。

 全てが終わった後、俺は田舎に帰るしかなかった。帰る場所があって良かったのか。俺はデラシネにならなかったし、なれなかった。あの街を逃げるように離れて、詩人なら旅にでも出ればいいものを、おめおめと実家のある田舎に帰った。もちろん死んだりはできなかった。

 まあ、そんな時代ではもはやない、というのもある。俺ばかりのせいでもないはずだ……なんて、そんな風に嘯く卑怯な声が、頭の隅に無いわけではなかった。自分のことしか考えていないのに、全てナニカのせいにして、責任を取らない心の作用。

 俺は何故、自分を俺と呼んでいるのか、いつの間にか、ああ、忘れてしまった。

「死ぬなんて誰でもできる、つまらない」

 ここ数年ずっとそう思ってきたけれど、いざ死のうと考えた時、それを一人で実行するだけの気概も行動力も無いことに気付いた。さりとて俺を死へと引き込んでくれる頼もしき人がいるわけがない。ふと、この人生、誰かから愛してもらえるということ、一度も無かったな……と思った。この期に及んで、くだらない思考を巡らせている自分が嫌になった。全て諦めたら、空っぽな俺の器に、軽蔑していた下衆の涎がみるみる満ちていくのを案じた。

 田舎の両親は真っ暗だった。「どうして弁護士にならなかったの?」と母が泣いていた。随分小さくなった父は、じっと黙り込んでいた。

 弁護士? そんな簡単にいくものじゃないよ。

 両親とも高卒で、大学のことも法曹のこともよく分かっていないのだが、俺が大学に受かったと言った時、随分喜んでくれた。我が家系でそんな秀才は初めてだと俺を褒めた。学費だって頑張って出してくれた。

 俺は別に何の気もなく、その祝福を捨ててしまったのだけれど。

 どうしようもない親不孝者に違いない俺は、実家の、そのまま残されていた子供部屋に戻った。しばらく一人で部屋に籠った。何もしないで日を過ごした。寝転がったまま天井を見上げていると、電灯の笠の中に入り込んでしまった大きな羽虫が目についた。必死で飛び回ってはあちこちにぶつかり、こつ、こつ、こつ、と音を立てていた。ああ、あの虫は、もう出られないんだ。白くて乾いた、清潔な人口の光に照らされたまま、少しずつ弱っていく。影がウロウロするのを、じっと見ていた。何日も見つめていたら、そのうち動かなくなった。死んだ。

 それからまた何か月間か、俺も動かなかった。笠の中で死んだあの虫の影に目を向けられなくて、ずっと横向きで眠っていたら、酷く顎が痛むようになった。痛みで口を開くこともできなくなった。音楽も、もうずっと聴けないままだから、目も耳も口も閉じてしまったということだ。俺は世界の何者にも合わせる顔がなかった。

 ある日、母親が部屋に入って来て、俺を叩き起こした。俺の閉じた世界はこれだけで崩壊してしまった。母はいつもの母だった。子が完全に転落したことなど、もう気にしていないのか? いや、そんなわけはない、か……

 とりあえずアルバイト先を探さなければならなくなった。しかし、インターネットで検索すれば、俺の名前が出てくるのが気になった。もちろん音楽関係ではない。SNSなんかの自分のアカウントを消したら、俺の音楽活動の履歴は全て消えたから。長い間いろいろと足掻いてきたが、広大なインターネットの海の中で、俺の曲の話をしていたのは、最後まで俺だけだったということだ。だから、検索して出てくるのは、ただもう、一人の底辺の馬鹿の名前だけだった。それすらも、小さな、微かな話題だった。けれども、調べれば出てくる、けっして消せない過去だった。人生を照らす暗い光の、濁った波長の一つだった。黒く輝く、沸騰したタールのようなスティグマ。

 こんな小さな名前にも、罪が刻みつけられている。

 しかし俺は、ほどなくしてスーパーマーケットのアルバイトを始めることになった。川を越え、片道自転車で一時間、家族や知り合いが利用しない場所となると、実家の近くで働くわけにはいかなかった。

 長い間、いわゆるフリーターというものをやってきたので、仕事に新たな苦痛があったわけではなかった。慣れ親しんだ苦痛だった。

 それでも時々、どうしようもない衝動的な怒りが湧いてくることがあった。そしてそれが抑えられないのである。あの時以来、感情の調整弁が壊れてしまったらしい。心の内と外を隔てる堤防がなくなったみたいに、いろんなものが直接出ていったり入ってきたりする。

 カゴ車からペットボトル飲料の詰まった重い段ボール箱を運び出している時、爪が欠けた。もう爪の手入れなど不要なはずなのに、苛立ちが噴き出して、気づけば、八つ当たりで商品の入った段ボールを思い切り蹴っていた。

 他に誰もいない冷蔵室で、一人ハッとして、罪悪感が滲み出てきた。もうここにはいちゃいけない、辞めようか、とも思った。けれども、黙ったまま仕事を続けた。

 人をぶん殴った人間が、商品を蹴ったくらいで罪の意識を感じるのも、なんだか妙だと思う。本末転倒というものだ。

 ○

 バイト先近くの公園で、一人ぼんやりと座っていたら、俺はなんと、いじめ、というものを見かけた。数人の小学生男子が、一人を囲んでおちょくったり、突き飛ばしたり、蹴ったりしている。制服のズボンを下げられる。ランドセルを砂場に埋められる。

 酷いなと思った。

 酷いな、惨めだな、辛いだろうな……鈍った頭には、そんな単純な思考しか浮かんでこなかった。俺に何かができるわけでもなく、ベンチに座ったまま、呆然と見ているだけだった。

 休憩時間が終わりに近づいていたので、俺は立ち上がって、公園から逃げ出した。暴虐にあっていた少年があの後どうなったのかは、分からないままだ。

 誰も助けてくれやしない。

 そう考えたことが何度あっただろう。部屋で一人、苦しくて、何度も考えたのだ。こんなに世の中は理不尽で、俺は苦しんでいるのに、誰も助けてくれやしない。

 だが、今なら分かる。そりゃそうだ。当り前だ。俺だって、誰も助けないんだから……

 あの少年を助けなかった。目の前で酷い不正義が行われても、怒りは湧いてこなかった。気持ちはよく分かるし、同情もするのだ。俺だって同じだったから。なのに、手を伸べようとはならない。自分のためなら、愚かなほどにカッとなるのに。

 何故?

 とはいえ、過去の俺が酷く嫌悪し拒絶していた「凡人」という生き物は、みんなそんなもんなのだ。

 どうにも世界は暗いのである。いじめられていた少年は、暗い世界で強く生きられるのだろうか。あるいは、あの少年が自分より弱い者と相対した時、救いの手を差し伸べられるだろうか。それともやはり、立場が変われば凡人の哀しい習性に呑まれてしまうのだろうか。少年は優しい人間でいられるだろうか。

 俺はまっすぐ歩けないまま、スーパーに戻った。傍から見れば、随分おかしな人間だっただろう。

 ○

 このままでは、夢に殺されてしまう。首の周りに冷たい手が忍び寄って来て、喉を締め上げる。そんな想像が、よく思考を襲ったことがあった。考えたくないのに、考えてしまう。辛かった。

 しかし最近は、強迫観念に襲われることも減ってきたのだ。もう死んだも同然だからだろうか? 確かに、地獄に落ちた後も死を恐れる人間というのは、そういないだろう。そこまで狂おしいほど生に潔癖な人間だったら、何かが為せたのかもしれない。

 あの苦しい日々は何だったのだというほど、ぼんやり生きている。段々、何も考えなくなってきているのが分かる。棘だらけの感性や思考が、折れて、削れて、薄れてきているのだろう。

 そんな無思考、無批判な自分を続けていると、ほんの少しでも親しみやすさというものが生じてくるのだろうか。

 スーパーで小学校の同級生と出会った。向こうが話しかけてきたのである。悪意なく誰かが話しかけてくれたとすればそれは、俺の人生において、滅多にないことだけど。

 男である、話しかけてきたのは。

 佐竹という奴だった。別に大した人間ではないというのが当時の認識だったし、俺が県立の中高一貫校に行ったから、中学以降のことは知らない。身体のデカい、何と言うか、加害性に満ちた男だった。骨格の大きい、俺の苦手なタイプだ。

 こちらは過去に後ろ暗い事情のある人間であるし、仮に初恋の相手と遭遇したって話なんかできないという心境なので、「勤務中です……」と語尾を有耶無耶にして、適当に避けた。すると、奴もまた何やら要領の得ないことをごちゃごちゃ言った。

 夜、スーパーが閉じて、勤務が終わって裏口から外に出た。見れば、暗くなった正面入り口の辺りに、佐竹がぽつんといる。

 待って居たのか。どうなっているんだ。

 ごくわずかな興奮と、大きな不気味さが、無感動だった腹の底に湧き上がってきたのを感じて驚く。俺は何かを期待しているのだろうか、と考えた。友人? そんな存在は知らない。呆然と立ち尽くしていると、佐竹は俺が遠くから見ているのに気づいたらしかった。奴が手をあげた。俺は小さく頭を下げた。しばらくの間、スーパーマーケットの前の空間で、数メートルの距離を保ったまま、何とも言わずに向かい合っていた。流れる雲が月を覆い隠して、乾いた混凝土を黒く塗りつぶした。

「久しぶりだ。元気だった? 分かってくれて嬉しいな。いつからここで働いてるの?」

 佐竹はそう言ったのである。もっと粗暴な何かを想像していた俺は、その奇妙な言葉遣いに絶望した。やはり歳を取れば人間はマトモになるのか、と思った。カツアゲでもされた方がマシだった。しかし俺も奴も、もはや三十近いのである。大人にならなければならないのは、当り前だ。

「ちょっと話さない?」

 そう言うと、佐竹は向こうの公園を指差した。俺がよくぼんやりしている場所だ。そこでふと思った。果たして、店の前で何時間も待っている(あるいは、閉店時間を見計らって来たのか? しかし俺が、閉店まで勤務している保証はない)人間は、マトモなのだろうか? 確かに土曜日ではあるのだが……

 ジリ……と、奴が一歩、こちらに踏み出す。

 俺は無意識に一歩退いていた。

 しかしだからといって、背を向けて別の方向に歩き出す気概は無かった。

 俺はふらふらと逃げるように公園に入りベンチに座った。木の板は硬くて冷たく、俺の体重を拒絶している。それから、同じベンチの向こうの端に、佐竹が座った。ベンチがギシリと沈んだ。

 ○

 それから何があったか、それは藪の中・闇の中に塗り潰されている。もはや俺の脳が受け付けなかったことだ。

 狂った記憶で状況だけ振り返れば、まず俺は、小学生の頃の佐竹に対して、残酷で短慮で衝動に任せて動く、理性の無いガキというイメージをもっていた。そんな佐竹が歳をとって、かつてはあり得なかった言葉を俺に向けてくる。

 俺は奥歯が重くて仕方がない。

 佐竹が何かを喋っている。それは俺に対する何らかの感情を示すものだった。

「今も、俺、って言ってるんだね。変わってるって言われない? ねえ、どうなんだ——」

 奴が喋るのを無言で済ましながら、俺はただ、コイツは何を言っているんだ? と考えていた。

「でも昔から、細くて、小さくて、可愛いって思ってたから——」

 俺の壊れた脳細胞が悪いのか。言いたいことが理解できなかった。話の流れが予測できない。全て曖昧模糊としていて、うまく分節されてない。アメーバのような言葉。俺の思考もすっかり曇ってしまったが、それでも慣れない、コンテクストが全く理解できない、気味の悪い話し方だった。

 それにしてもこの男、一体どういうつもりなのだろう。俺に何を思い出して、何を言ってもらいたいんだ……俺はただ苦しんでいた。腹の奥に尖った石が入り込んみたいだ。「……」俺は黙り込んでいる。吐き気がする。気色悪い、似合わない、ベタッとした言葉遣い。お前はそんな人間だったか?

 昔のことと言っても、俺はコイツに殴られたり蹴られたりした記憶しかない。俺のランドセルを隠したり、泥の塊を投げつけたのもこの男だった。それなのに、今更何を言っているのか、何を考えているのか。

 気分が悪い。何も言いたくない、考えたくもなくなった。感情も動かないままだ。

 混乱してうまく機能しない頭、詰まって濁った血に満ちた、腐った俺の頭……

 けれども、

 奴が身体を起こし、座ったままの俺の正面に立った時、

 俺の頭は瞬時に沸騰した。

 ああ、そうだった。

 俺は奴を殴ろうとした、それは確かだ。怒りと嫌悪感のまま、力任せに。

 だが、俺のよりずっと大きな手が俺の両肩を掴んで、闇の中に沈めた。俺は自分の存在の軽さを感じた。背中が痛かった。夜は暗くて、誰の意識も存在しなかった。ただ何も見えない、閉じた暗黒に放り込まれるのが分かった。

 その中で、何もかもが重く、気怠く、頬を流れる液体が酷く熱かったのと、何かとても煩いのを感じた。嫌な臭いがする。生き物の生臭さ。昔おばあちゃんの家に行った時の、隣の牛舎の澱んだ臭い。掃き溜めの臭い。

 しかしほんの少しの、心の温かさを感じたような気がしたのは、防衛本能の働きか。あるいは、自分に全く希望を見出せないから、人を求め、受け入れるのか。黒い粘々とした感情だった。

 それ以上の事は、思い出せない。

 ○

 気づけば俺は、たった一人で立って居た。

 手には千円札が三枚握られていた。アルバイト約三時間分に相当する金。視界が汚点に歪んだようで、よく見えない。公園を街灯の白い光が照らしている。意識と反対に、神経は狂おしいほどに鋭敏になっていた。光の揺れる音すら聴こえそうだった。何もかもが頭の奥を刺す。うるさい! まぶしい! やめてくれ!

 ぶんぶん頭を振って周囲を見ても、誰もいない。俺しかいないのだ。公園にいるのは俺一人だった。

 胸の奥から汚れたものが込み上げてきて、俺はその場で嘔吐した。皮膚と同じ色のゲロがびちゃびちゃ散って、スニーカーのメッシュに染みた。けれども俺は蹲ってしまって、吐瀉物に紛れるように何度も吐いた。目の前は汚物でぐちゃぐちゃ穢された。

 結局、誰もお前を好きじゃない。

 ゲロ塗れ地面に、自分の顔が映っているような気がした。一瞬でも、ナニカ、幸福のようなものを感じた自分が、惨めで、愚かで、屈辱的だった。俺の想像力を越えて、世の中はもっと下卑ている。ただ感情と欲望のままに動いて、それ以外に価値を感じられない奴ら、軽蔑すべき奴ら、なのに……

 俺は賢い子供だった。間違いなく。

 それはつまり、そこら辺に溢れている馬鹿な凡人に、嫌悪され、無視され、笑われ、踏みつぶされて忘れられるだけの、弱い人間だったということなのだ。

 俺はよろよろと立ち上がった。自転車にも乗らず、ただ設計された動きをするだけの人形となって、歩き始めた。家に、帰らなきゃ、それから……

 ○

 俺は長い道のりをずっと歩いていた。

 ほんの少しだけ冷静になった頭に、遅れて感情が噴き出してくる。言葉が溢れて、勝手に喋り始める。それはもしかしたら、初めて俺の心が、虚飾を捨て知恵を捨て、本当のことを言うために、その口を開いたんだって、そんな気もする。

 俺は上を向いて喋る。

「けっ、行き着く先は男相手の娼婦かよ。俺の価値は、そこでしか見出されないのか。俺の価値は、粗野なあの男に欲しいままにされるようなものなのか。それも紙幣数枚の価値なのか。一体どうなってやがる。馬鹿な世の中。掃き溜めにたかる蝿どもめ。薄汚い、価値の分からねえ奴ら。気色悪い。腐ってやがる」

「俺は偉大な人間だったはずだ。俺は輝かしい宝石なんだ。ダイヤモンドなんだ。なのに何故それが分からない?」

「これ以上、もう、俺の精神を壊さないでくれ! 玩具を扱うみたいに砕いて、心の奥を蹂躙するのを止めてくれ! 幸福なんかないなら、どうして不幸だけあるんだ! もう放っておいてくれ!」

「一体どうなっている? 何故だ? 何故そこまで酷い目に遭う? 俺ばかり、苦しんで。ふざけんじゃねえぞ。ふざけんじゃねえぞ。ふざけんじゃねえぞ」

「ふざけんじゃねえ、ちくしょう、ちくしょう……」

 握りしめた拳から、血が吹き出た。爪は折れていた。その上に涙がぽつぽつ落ちて、醜く滲んだ。夜の底、誰もいない歩道、諦めだけが待つ道行。それでも俺は、歩こうとした。脚を上げて前に進もうとした。強い風が吹いて、街路樹が攻撃的な音を立てた。身体の震えは止まらなかった。寒い。どうしようもなく寒い。孤独。この暗い世界に、身を守れる拠り所を持たずに、ひとりぼっちでいる寒さ。何も無い。何も得られず、何も残されていない。心細さ、不安、恐怖、絶望……

 この掃き溜めに、何も善いものなど無い。価値など無い。決して価値など存在しない。依って立てるものなど無い。正しいものなど無い。誰一人として、明るい世界を生きてはいない。世界は何も支えない。

 力の入らない足が、地面を拒絶して、ぐにゃりと曲がった。

 ○

 俺は転んだ。

 そうして、どこまでも落ちていくのだ。

ねえ、どんな気持ち? 私を嗤ったあなたが、転がり落ちていく。ねえ、どんな気持ちなの? あなたが教えてくれた、ボブディランの「ライクアローリングストーン」って、私はよく分からないけれど、きっと今のあなたにとてもお似合い。そのままそうやっていつまでも、みじめに泣いて泣いて、ずうっと下を向いていてね。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ