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第1章 1話 物語のはじまり

その日の空は、珍しいほどの快晴に恵まれていた。澄み切った青空が彼女の生まれ住む街を優しく包み込んでいる。薄桜色の長い髪を朝の光に輝かせながら、チェルカは祖父の管理する図書館へと向かっていた。



薄いブルーのワンピースをまとったチェルカは、石畳の歩道を軽やかに歩いていく。途中、彼女は大きなお屋敷の前を通りかかった。広々とした庭では、小さな子供用のブランコが静かに揺れている。朝日に照らされた露の滴がブランコの鎖を伝い落ち、キラキラと輝いていた。


チェルカは少しだけ足を止め、切ない表情でブランコを見つめた。彼女は知っていた。この大きなお屋敷には、子供がいないことを。優雅な貴婦人と優しそうな紳士、そして数人のメイドや執事たちが住んでいるだけだと。


かつてここに住んでいた貴婦人と紳士の娘は、ずっと昔に行方不明になってしまったのだ。


たまに、もうだいぶ年を取ったその貴婦人を見かけることがある。彼女はチェルカの事を自分の娘と重ねているのか、たまにチェルカを見かけると優しい眼差しで手を振ってくれる。けれど、いつも寂しそうにどこか遠くを眺めている事も知っている。まるで、消えてしまった娘を今でも待っているかのように。


誰も乗っていないブランコが、キィと鎖の音を鳴らしながら揺れた。使われることのないブランコは、まるで失われた少女の思い出を留めているかのようだった。チェルカの胸に、言いようのない悲しみが広がる。彼女は深く息を吐き、再び歩き始めた。


図書館で一日を過ごすのは、決してつまらないわけではない。でも「今日も変わりばえのしない一日になるんだろうな」と、チェルカは心の中でつぶやいた。


しかし同時に、彼女の胸の内には小さな期待が芽生えているのも事実だった。チェルカにとって、読書は「いつもどおり」の日々の中で「いつもとちがう」体験ができる、かけがえのない時間だったのだ。本のページをめくるたび、新たな世界が広がり、少しだけ日常から解放される。それが彼女の密かな楽しみだった。


祖父の管理する図書館は、チェルカのお気に入りの場所だった。街で一番大きくて古い建物でもあるそこには、ありとあらゆる国や時代の書物が置かれている。まだ一度も街を出たことがないチェルカにとっては夢のような場所だった。


図書館の重厚な扉を開けると、何十年もの時を経た書物の香りが漂い、チェルカを包み込む。カウンター越しに、チェルカは白髪交じりの髭を蓄えた祖父の姿を見つけた。


「おはよう、おじいさま」


チェルカは微笑みながら声をかけた。


祖父は老眼鏡の奥から優しい目でチェルカを見つめ、温かな笑顔を返した。


「おはよう、チェルカ。今日も早いね」


チェルカはふと祖父の胸元に目をやった。そこには、いつもの鍵が下がっている。しかし、チェルカの目を引いたのは鍵そのものではなく、鍵に結ばれた赤いリボンだった。


祖父はその赤いリボンを指で優しく撫で、まるで大切な思い出に触れるかのような表情を浮かべた。チェルカはこの仕草を何度も目にしていたが、リボンの意味について祖父に尋ねたことはなかった。


「今日はどんな本を選ぶんだい?」


祖父の問いかけに、チェルカは我に返った。


「まだ決めていないわ。でも、今日は素敵な物語に出会いたいと思っているの」


チェルカは本を選ぶため、書棚の間を歩き始めた。図書館の内部は、高い天井から吊るされた古めかしいシャンデリアの柔らかな光に包まれていた。


床から天井まで届く巨大な木製の書棚が整然と並び、その間を歩く足音が静寂を心地よく破る。


彼女は指先で本の背表紙を優しく撫でながら歩みを進めた。革装丁の本、布張りの本、様々な色や大きさの本が並ぶ様は圧巻だった。古い本の香りと木の香りが混ざり合い、チェルカの鼻腔(びこう)をくすぐる。今日はどんな物語の世界に飛び込もうかと考えを巡らせる彼女の瞳が、虹色に輝いた。


歴史書のセクション、詩集のコーナー、そして冒険小説の棚へと、チェルカはゆっくりと進んでいった。


しかし突然、何か不思議な力に引き寄せられるように、彼女の足は図書館の奥へと向かい始めた。普段は立ち入ることのない、薄暗い通路へと歩みを進める。


心臓の鼓動が少し早くなり、呼吸が浅くなる。チェルカは自分の足音にも神経を尖らせながら、ゆっくりと足を進めた。古い木の床がきしむ音が、彼女の緊張をさらに高める。


そして、彼女の目に不思議な光景が飛び込んできた。本棚の隙間から、かすかな光が漂っているのが見える。チェルカは息を呑み、慎重に近づいた。埃っぽい空気の中、光の筋が踊るように彼女を誘っていた。


よく見ると、それは隠されたように佇む小さな扉からの光だった。扉は古びた木でできており、金色の繊細な模様が刻まれている。その隙間からこぼれる柔らかな光は、まるで彼女を招き入れているかのようだ。


チェルカは手を伸ばし、ドアノブに触れた。冷たい金属の感触が指先に伝わる。彼女の心臓は今や大きく鼓動し、期待と不安が入り混じった感情が胸の内に渦巻いていた。




震える手でドアノブを回すと、長い間開かれていなかったかのような軋み音が静寂を破った。その音は、まるで時間そのものが動き出したかのようだった。


扉が開くと同時に、チェルカの目の前に秘密の書斎のような空間が広がった。薄暗い部屋の空気は、何世紀もの時を閉じ込めているかのように重く、埃っぽかった。天井から吊るされた古びた小さなシャンデリアがかすかな光を放ち、幻想的な雰囲気を醸し出している。


薄暗い部屋の中央には、古めかしい机が置かれていた。その机は、深い色合いの木目が美しく、表面には細かな彫刻が施されている。そして机の上には一冊の本が開かれたまま置かれていた。チェルカは躊躇なくその本に手を伸ばした。


本の表紙は、深い青色の革で装丁され、金色の繊細な模様が描かれている。開かれたページからは、かすかに光が漏れ出ているように見えた。


「これは……書きかけの物語?」


チェルカは深呼吸をし、どのような話が書いてあるのか確認するためゆっくりとページをめくり始めた。しかし物語は突然途切れ、真っ白なページが現れた。


そのページを開いた瞬間、どこからともなく優しく、それでいて切ない声が聞こえてきた。


「アリス……どうか、....りを、....わらせ……」


その声は、まるで自分を求めているかのように聞こえた。驚いて周りを見回す間もなく、チェルカの体がふわりと宙に浮き始めた。


「きゃっ!何が起こってるの?」


チェルカの小さな悲鳴も虚しく、彼女の体は本の中へとゆっくりと吸い込まれていった。周りの景色が渦を巻くように歪み、チェルカの意識が遠のいていく。


不思議と「怖い」という感覚はなかった。それよりも、先程聞こえた声の主が誰なのかということをチェルカは知りたくなっていた。途切れそうになる意識に身を任せるように、彼女は静かに目を閉じた。



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