始まりは五月雨の匂いに誘われて
〇 坂本邸
窓から水滴が叩く音が聞こえる。昼過ぎの書斎は薄暗くジメジメとしており、憂鬱な気持ちはさらに奥底へと沈んでいく。坂本恭之介は物書き嫌いの物書きであった。
ろくな大学も出ておらず20代の前半をダラダラと物書きで埋める日々に多少の罪悪感を感じている坂本は時々こうして窓の外を眺め、自身の境遇と文学に対する不躾な態度を溜息に乗せながら雨音を聞いていた。
ガチャリと書斎の扉が開かれる。
雨の匂いと紫陽花の独特な匂いが部屋へ充満していく。坂本は庭に植えてある紫陽花が気に入っていた。
しかし窓に映る世を憂い、窓ガラスに反射する自分を物憂げに見つめていた坂本にとってその匂いは厄介な来客を伝える術に他ならなかった。
「失礼します」
若い女性の声だ。聞き慣れた少し鼻声の声は静かな書斎の隅々まで染み込み、そして薄れて雨音に掻き消された。坂本は聞こえないふりをした。
「電気ぐらいつけてくださいよ」
電灯がパチパチと光を放つ。書斎は目が眩むほどに光ったかと思うとすぐに目は慣れ、いつもの人工灯で満たされた十畳ほどの書斎へと変貌した。
部屋には書物と原稿用紙、ペンとインクの匂い、その他大勢の小物と雑貨でごった返されており、明治初期の書生の部屋を想起させる。
本棚が部屋全体を囲むように配置された書斎には1つの窓が南向きに設けられている。
その窓に沿わすように木製のカウンターテーブルが美しい木目を強調させながら坂本の肘を支えている。
坂本は今の時代ではコスプレと揶揄されかねない書生服を着用している。形から入るのが坂本なりの流儀であり、かれこれこの服装を着続け3年になる。
「また外の景色みてるんですか。よくもまぁ飽きないですね」
頑なに見ようとしない坂本を横目に若い女性は床に散らばる紙類を足蹴にしながら近づく。
女性は白いトップスに黒いスーツとタイトスカート。手には通勤バッグといういかにもOLと言わんばかりの装いだ。
「一度たりとも同じ景色はない。…何か用か」
ぶっきらぼうにそう告げた坂本は事務用の椅子を回転させ、若い女性もとい、岡本恵子をジロリと凝視した。
「病むのも程々にしてくださいよ。ただでさえ雨続きでこっちまでジメジメしちゃう」
「病んでない。憂いてるだけだ。冷やかしなら帰ってもらおうか」
「はっはっはっ。御冗談を。私が来るのなんて先生からすれば冷やかし以外なにものでもないでしょうに」
「御名答だ。ほら、わかったならさっさと帰りたまえ」
「そうもいきませんよ。次の新作考えなくちゃ」
恵子はそう言って、漆のように黒い髪を結び手慣れた手付きで茶を沸かす。
お盆に二人分の湯呑を乗せ、坂本しか知らない隠していた茶菓子をサッと乗せる。
中央にある丸テーブルに置き、坂本の手を引き座らせる。坂本も流されるまま席に胡座をかき茶を啜った。
しばしの沈黙のあと、恵子から1つの案が提示された。
「先生、短編小説書きませんか」
ため息が坂本から漏れる。
「…アイデア1つ出るのも貴重だっていうのに短編だけで終わらすなんて私は賛成できないがね」
「書いても売れないなら意味ないじゃないですか。だからお試しで短編小説を書いてそれをまとめるんです。人気が出たら続きを書けばいいじゃないですか」
「ふん…そんなうまくいくもんかね。だいたい…」
「そんなこと言って成功した試しなんてないんですから文句言わずに書いてくださいよ」
恵子は茶菓子を頬張りながら素っ頓狂な顔をして坂本に詰め寄る。彼女との口論に勝てた記憶のない坂本は渋々了承をせざるを得なかった。事実このまま外を眺めていても現状を変えることが出来ないなど坂本も重々承知していたので恵子の判断はありがたいという他なかった。
「で?短編って言っても何を書くんだ?」
「なんでもいいですよ。アイデアが出るなら」
「君ねぇ〜簡単に言ってくれるけどねぇ〜」
「山です」
「…なんだって?」
「山」
突拍子のない1単語に坂本は困惑した。山?
「だから、山をテーマに何か1作品書いてみてくださいよ」
「……はぁ〜〜??」
「そっからまた次の作品考えましょ。そうですね〜…夏の終わり頃まで書ければ上等。私も鬼じゃ無いんでそれぐらいでできたらどこか美味しいところ行きましょうよ」
「おいおいおい…」
恵子は茶菓子を一人で全て食べ終え茶を飲み干し、そそくさと帰る支度をした。
「待て待て。帰るな」
「お邪魔しました。あ、その八ツ橋美味しかったです」
ゴミ箱に捨てられたプラ製の個包装を指差しながら書斎のドアを開ける
「ふふ。そうだろう。その八ツ橋は私のお気に入りの店なんだ…ってそうじゃなくてだな」
「先生、まだ『私』なんですか」
そう言った彼女はどこか同情を誘うような世の中を憂いていた坂本と似たような顔を坂本に向けた。
雨音がまた強くなった気がした。
「…まだ取られたままだからな」
「そうですか」
彼女はじゃあまた遊びに来ますと言うと玄関の傘立てに入れていた深い緑色の傘を取り出し一礼をした。傘はまだ濡れていたままだったので傘立てには少し水溜りが出来ていた。
「それじゃあ」
「……あぁ。気をつけて帰りなさい」
紫陽花の匂いは既に消え、また坂本の家に静けさがあたりを支配した。
余談ではあるが坂本がこれから山をテーマに筆を執ったのは実に一週間後のことであった。