うつせみのうちに宿りしは4
得体の知れない不快感が腕から全身へと伝播したので咄嗟に距離を取った。
それを見てヤクナスは何か行動を起こすわけでもなく静かに笑っていた。
しかしその笑みは元から顔面に張り付いていたかのようで、人の感情を読むのが苦手な冥之上にも表情と呼べるものではないと感じさせた。
それはまるで精気を感じさせない、北谷原でムクロメに出会った時に感じたような人ならざる者の気配であった。
ただしあの時と違うのは、大いなる力とムクロメの間にも光の流動があったにも関わらず、目の前の男にはそれが全く感じられないことだった。
例え死者であろうともこの世に在る限りは倣うはずの道理にさえ男は背いているのである。
新珠の泉で一度生まれ変わっている今の冥之上にはその記憶を手繰って比較考察する術はない。
それでもムクロメの時には抱いた未知に対する興味関心も今回は全く湧かなかった。
感じたのは忌避の念だった。
高位の異能者であるヤクナスは潮見津原の上磐裸須人と同様に己の気配を消すことが出来るわけだが、それは気脈の理に逆らう業であり、大いなる力によって創られた精隷からするとその力は己の存在と相反するものであるため身構えてしまうのだ。
ヤクナスはその反応を見て、ほう、と感心する。
興味深い存在として泳がせてはいたがまさかこの短時間で冥之上がここまで成長するとは思いもしなかったからだ。
冥之上には分からない詞で鴉繰人たちに一言伝えるヤクナス。
顔を見合わせた二人は恭しく礼をして、老人は傍らに置かれた持ち手のある小さな金属の呪具を手に取るともう一方の手に持った木製の棒で叩いてそれを鳴らした。
好天の下、丘陵を撫でる風によって青く茂る短い草が微かに揺れていた。
ゆっくりとした呼吸のような金属音が遠くまで響き渡り、点在する天幕からも呼応して聞こえ始めた。
音の伝導によるずれが生じて不規則な旋律ではあるが、しかし不協和は感じさせずに物悲しい残響となって消えていく。
空は何処までも高く、黒い大きな鳥たちが円を描いて飛んでいた。
数人の男たちによってとある天幕から運び出されたのは色鮮やかな布に包まれた老婆の亡骸であった。
冥之上が最初に落とされた場所はどうやら斎場だったようで、そこには既に鉈のような大きな刃物を持ったプキが佇んでいた。
男たちは斎場に遺体を下ろすと各々の天幕へと戻っていき、誰も見えなくなるといよいよ葬儀が始まる。
刃物を両手で持ち跪いたプキが天に向かって祝詞を捧げ、一節が終わるごとに同じ動作を繰り返しながら老婆の服を裂いていくと、鳥たちは儀式を囲うように一斉に降りたつのだった。
手慣れた手つきで解体が始まる。
肉を削いでは投げ、骨を叩いて髄を出しては投げていく。
大人しく待っていた鳥たちが我先にと飛び掛かり羽毛が飛ぶ。
けたたましい鳴き声に紛れ、途切れ途切れにプキの澄んだ歌声が聞こえた。
鳥と共に生きる辺境の民の始まりと終わりがそこにあった。
鳥の血肉となった先人は鳥と共に人々を見守り、時が来ると天に昇って無数の雨となり降りて来る。
雨は大地を潤し、動植物を育み、やがて人に還る。
鴉繰人にとって万物は繋がっており、故に軽んじてはならなず、尊いものなのであった。
冥之上は丘の上からその光景を眺めつつ役成の語る鴉繰人の教えを聞いていた。
そして理解していた。
冥之上の目には全てが光となって見える。
光には明暗の強弱こそあれ、草木からも、石からも、生者や死者の隔てなく発せられて一つの大きな流れに加わり特定の方向を目指していた。
その果てにあるのが新珠の泉だ。
人は死すと肉体を離れて魂だけの存在となり闇女上の分身である導祖によって導かれて泉へと至る。
泉にて洗われ無垢となった魂は再び母胎に循環する。
そうやって人の世は紡がれていくのだ。
鴉繰人の伝承は、冥之上の知る死生観とは多少の差異こそあれ理の大きな枠組みは同じだった。
老婆にはもはや魂はなかったが、それは導祖が既に運んでしまったからだろうし、死者の魂が鳥に宿った後に雨へと転生するという物語は人どもによる勝手な改竄の結果だろう。
人は光の流れが見えないので目に見えるもので己を納得させるしかない。
そう一人ごちていた冥之上に対し、ヤクナスが口を開く。
「此処に導祖は来ず」
ヤクナスに視線を移す冥之上。
冥之上の目にはヤクナスのいる空間は不自然な歪みとしか感知出来ず、傍にいるだけで実に居心地が悪い。
なのに一緒にいるのはヤクナスから敵意が感じられないからということもあるが、一番の大きな理由は冥之上が混乱しているからであろう。
敵として認識していたにも関わらず攻撃が全く効かないのだから打つ手がなく、どうしたらよいか分からないのでとりあえず促されるままになっていたのだった。
「来ない? どういうことだ」
「其の儘のことよ。縁なき故」
「えにし?」
「然なり。鴉繰人は古き者どもにて、上代の昔より既に自らの理と共に在り。故に闇女上に従うことなく、闇の教えに交じることなし。闇の教えを知らざれば闇の力は化生せず。これぞ無得気の真なり」
「むるく。奇特を生む力か」
「プキに聞いたか。然なり。知らねば在らず、在らねば知らず。いずれが先か私にも解らねども、縁なくば生じぬが大いなる力ぞ。我が力も、己もな」
「ふーん」
「心得たか」
「知らん。知らんが、此処に導祖が来ないのであれば、何故あの女が珠の巫女なのだ」
「縁を得たからよ」
プキが新詞を解するのは折衝のような役目を担っていた彼女が里外の者たちと交流するうえで必要だったからだ。
その過程で得た知識の中に闇の文化があった。
自分たちの教えに似ていたということもあったが、柔軟性の高いプキはより高度な次元で空想を受け入れた。
そして世界が繋がったのである。




