大王(きわか)と小女子(をとめご)9
突き出たるは人の丈を超える右腕。
それは過分に水を吸って膨れ上がり、はち切れて指の爪が剥がれ落ちていた。
泥土に添えられた腕に力が込められると皮膚が裂け凝固した血と脂肪が肉汁のように溢れ出る。
現れたのは乱れ髪の隙間から白く濁った眼が覗く巨大な頭部であった。
膨張と腐敗の進んだ胸部より下がないのはメイが腹に大穴を開けたせいで千切れてしまったからか。
この数日間、方々を這いまわっていたことで下半身と左腕はどこかへ置いてきてしまったらしい。
伝えられなかった恋慕の言葉は喉を蛙のように膨らませ、口から飛び出した泡まみれの舌からは新たな眼球が長く伸びる。
その全貌はさながら異形の蝸牛であった。
「な、なんと憎げな……。あれがあの冬蔦なのか!?」
「少し肥えただけじゃねえか。愛してやれよ」
「マヌイっ。大王殿、心憂かずとも吾らがついております!」
都人らしい垢抜けた上品な美貌の持ち主であった冬蔦のあまりの変わりように思わず目を逸らしてしまった大王と、詳しい間柄はよく知らないので自業自得だと言わんばかりに茶化すマヌイを叱るアビコ。
そこへ冬蔦の腕が大王を捕えんとして伸び、水気を含んだ布を叩きつけるような音を立てて大地をかく。
緩慢な動き故に避けるのは容易いが動くたびに撒き散らされる皮膚組織が目を刺激するほどの腐臭を放ち本能が突発的な嘔吐きを体に生じさせる。
たじろぐ三人を横目に好戦的な目をしたマヌイが果敢に冬蔦に向かっていったが大きな音をたてて悲鳴をあげたのはマヌイのほうだった。
「うおおっ!?」
「如何にしたのです、マヌイ!?」
「あっ、あし! あし! おえっ! あっ!?」
濡れた地面に足を取られてひっくり返ったマヌイが何故か足の裏を掴んで大股を開くような謎の動作をして更に転がった。
見れば粘液が手と足を強力に固着させているではないか。
どうやら撒き散らされた粘液を踏んでしまい感触が気持ち悪くて手で払おうとした結果そのまま離れなくなってしまったらしい。
知らずに粘液まみれの本体を直接攻撃していたら大変な事になっていたかもしれないので不幸中の幸いだったが、人どもの前で妖風情に転がされたことに自尊心を傷つけられたマヌイの顔はスオウが直視できないほど怒りに満ちていた。
「ぶ……ち殺されてえのか屎があっ!」
「なっ!? マヌイ! 何故今溶いているのですか!」
「煩れえわ屎ビコ!」
「く、クソビコ……」
粘液の部分のみを切り離すような器用な真似は出来ないようでマヌイは全身を鎧っている蝋を溶いてしまった。
拘束は解けたが汗腺から滲み出るそれを全身に塗りたくって再び鎧とするには暫く時間がかかってしまう。
蝋で地肌を守っていなければ起火主吏の二つ名を持つマヌイといえど自身の異能で自身を焼いてしまうため炎を出すことが出来ない。
そうこうしている間にも冬蔦は大王を捕えて二人だけの泥の底へ沈もうとして徐々に近づいて来ていた。
「アビコ、汝の異能で何とかならんか!?」
「吾の異能では調伏能いません……! 一度退きましょう。どの水溜りがあれの体液なのか分からぬ今……マヌイはともかく吾らが足を取られてしまうと──」
「待てっ! ……なんだ、この音は?」
もともとマヌイの炎頼りだったこともあって一気に策が尽きてしまい逃げるしかなくなる四人。
しかしさらなる曲事が襲いかかる。
里芋の葉を揺らし現れたのは冬蔦の妖気にあてられて忌み場から甦った死者たちであった。
導祖によって魂が運ばれた後の抜け殻となった器は別のものが入り込みやすいのだ。
「おおお……なんということを……!」
絶句した大王の視線の先には煌びやかな埋葬品に身を包んだ女子供の屍があった。
妻子は生者に襲い掛かるだけの人形と化し、大王は今更ながら己の選択を強く恥じた。
文武に長け、同じような者どもが相手ならば一歩も引けを取らなかった自分がたった一人の女の異質な愛に気後れし、逃げ回ったことで多くの大切なものを失ってしまった。
ここでまた退けば亡者たちは四方の家々で震える民たちの元へ散らばっていき更に多くの命が奪われてしまうだろう。
亡者と戦うのは忌み場から出てきたばかりで分散していない今が好機だ。
大王は剣を抜くと向かってくる妻子だったもの目掛けて駆けた。
アビコが強く制止したが大王には粘液に囚われない自信があった。
幾度も歩いた己の縄張りなのだ、異物が紛れていて判らぬわけがないのである。
飛び石を渡るように軽やかに妻の前へ迫り──刹那、死人の顔が飛ぶ。
頬の位置から片手で横一閃、振り抜いたところで両手に持ち替え返す刀で二の腕から胴へ。
骨をものともしない見事な剣捌きであった。
いくら不死者とはいえもはや噛みつくことも這うことも出来ないだろう。
それを見て喜んでいた冬蔦の眉間に剣が刺さった。
白濁した目をゆっくりと回して見ようとするが見えず舌の先の目でようやく状態を認識し再び大王を見る。
大王は投擲した剣よりも鋭く射抜くような視線で冬蔦を睨んでいた。
久方ぶりに愛する者と視線が交わった乙女であったが、しかしそのような目で見られる理由が分からずに狼狽し激しく目を動かしていた。
冬蔦には終ぞ理解は出来ないだろう。
自分の感情ばかりを押し付け、相手の事を何も見ようとしないのだから。
大王が妻を斬ったのは死してなお与えられる屈辱から解放してやる為であり決して疎ましくなったからではない。
それすら理解出来ないからこそ、彼女は今の自分が今生で最も醜いものに成り下がってしまったことにすら気づけないのだ。
「聞け、冬蔦! 己は私を愛するか! 愛するのか! 今もか! ……そうか。ああ、解っていたことだ。されど、私は今まで己を思い消ちていた。許したまえ。思えば私のこの言う甲斐無き心に端があった。己が想いに答うれば、一層の不祥があるやもと、恐れてしまったのだ。……全ては私の咎である! 己を悋気に狂わせたのも、己が妻子らを殺めた事も、己が禍津鬼となり果てたのも、ああ、私の咎なのだ! 故に私は償おう。己が想い、全て私に打つがよい!」
「大王、いけません! 禍津鬼となりたる者の望みを聞くは憑かれるも同じこと! 願い満たして鎮むる術などは我ら陰業衆でも難儀とされております!」
「ならばアビコ殿よ。私が死ぬる前に調伏を頼んだぞ。亡者が冬蔦の想いに当てられて動いておるならば、これで方々の家に隠れし者どもの元へは行くまいて!」
「!! それが本意でしたか!」
「私は大王なるぞ。この中原に覇を成すは大御宝の弥栄を祈らんが為なり。──さあ、如何にした、冬蔦! 私は今、己を見ておるぞ!」
痙攣する眼球から涙が溢れ、耳を塞ぎたくなるような歓喜の慟哭が曇天を衝いた。
冬蔦の意志にあてられた死者たちが一斉に大王の方を向く。
「ふんっ。偉え奴ってのはどうも話が長くていけねえや。だが……よくやった。用意は整ったぜ! さあ、再戦といこうじゃねえか!」
いつの間にか蝋の鎧の再着装が完了していたマヌイが冬蔦に負けない声量で叫んだ。
しかし粘液にまみれた冬蔦の体表はマヌイの炎を易々とは通さず、調伏は思いのほか苦戦することになるのであった。




