潮見津原の巌比売10
重たい沈黙が続いていると鈴の音が聞こえ思いもよらない者がやってきた。
美しい着物を着、先端に提灯をぶら下げた棒を持った美女は幾度となく見てきた闇女上の化身、導祖だ。
導祖は幽世の闇女上の代わりに現世に揺蕩う魂を導き新珠の泉で清め別の母胎に届ける役目を持った精隸たちの総称である。
現れたのは恐らくバラストが人を殺めたからであろうが亡骸はここにはなく、どういうことかとスオウが訝しんでいるとメイが口を開いた。
「その赤子……」
「ああ、死せり」
驚いたスオウはバラストの腕の中を凝視した。
赤ん坊はまるで眠っているかのようだ。
ふと、バラストが自分を見ていることに気づき目が合ってしまう。
息を呑むスオウに対してバラストは何も言わず、再び前を向くと目を閉じながら嘆息し独り言のように呟いた。
「護るとは……いと難きことよのう。我が動きに堪うれず、心付いた時には既に事切れたり」
「…………」
「汝どもが来たる僅か前、土の精隸が我が子を殺めんと来たりけり。あれは土の精隸にありながら、その魂の器には朧げに意思を宿したり。……今、心得た。あれは何者かが我にあれと汝を見違わせるために態と土の精隸に取り憑けん。追い返すことは能いたりけれども、久方ぶりに敢えて戦いたるために……我は人の脆さを忘れてけり。其がこの有様よ」
最初にメイを見つめ鬼気迫る表情だったのはそういうことか。
思った通りバラストはメイたちが到着する直前にメイに似た誰かと戦っていて、メイを見つけた瞬間誤解して憤怒したのだ。
どうやら異能の質が違ったことでその誤解はすぐに解かれたようだがスオウにはそれが何を目的としていた者なのかもう分かっていた。
本人なのか志を同じくする者なのかまでは分からないが、確実にヤクナスという上に関係する者だろう。
「その血は……汝のものではないようだが」
「始めに我の肩に手を添えた者は誰やらん。我を哀れんだ者か、咎めんとした者か。今は既におぼめかしけれども、ただ明らかなる事は、もはや我は人の世に居難しことのみ」
ヤクナスに大打撃を与えた時の返り血だったら良かったのに、その血は打ちひしがれていたバラストの肩に手を添えた者やバラストの真の力を見て恐怖のあまり襲い掛かってきた者たちの血らしい。
五十年に渡り渇望してきた最愛の子と、その子を育み命を落とした最愛の妻、そしてその妻と共に生きた居場所を直近のうちになくしてしまった男の隣りにしゃがみこんだ美女が慈しみの笑みでバラストを見る。
まるで自分にも赤子を抱かせてくれとでもいうかのように肩にそっと添えられた手を、バラストは今度は振りほどかない。
導祖の存在意義を知らないわけでもないだろうに、暫く赤子を見つめその頬を撫でていたバラストは意を決するとあろうことか導祖に差し出すような仕草を見せた。
「待てバラスト。珠を渡すな。導祖に渡さば珠は宿命を繰り返すのみ。昊之上を封ずるにはメイが集めて一つにせねばならぬ」
メイは腰を浮かせて手を前に出し、導祖とバラスト双方を牽制した。
導祖はうっすらと笑みを浮かべた表情のままメイを見据えて止まり、バラストはメイの言葉で憶測を確証に変えた。
あの蛇上を目覚めさせようとしている者がいて、封印の鍵となる珠の力を奪おうとしているために闇女上が創り出した土の精隷が先に全てを回収しようとしているというわけか。
だがそれは自分の知っている封印とは少し違う。
「既に二つ集めたか。なれば既に足る、封印を護りたくば珠一つ守れば事足りよう。」
「然なれども違う。今までとは違うのだ。珠を全て集めれば闇女上を現世に戻すことが能う。然なれば珠の巫女は要なくなり、ヤクナスの野望は潰え、現世は永劫護られるのだ」
「役成? ……闇女上を戻すと? 然か……然か。心得たり。然て然て、奴め。思い絶えぬ奴よのう」
バラストは忌々しそうに笑った。
上代の戦いで行方不明になった者の名前をまさかこれほど時が経った後に聞こうとは思わなかったが奴ならばありえなくもない話だと思った。
そして運命というものは隠棲を切望していた自分を放っておいてくれないらしい。
これが人とは異なる力を持って産まれてしまった者の務めとでもいうかのように。
「全て理解せり。そのうえで、ことわる」
「なんだと?」
「我が子巌非売は人にも上にも非ず。分からぬか。珠と魂が混ざり合いたるこの様を。ゆえに泉に運ばれ清められようとも、常なれば人の記憶は洗われ消えけれども、巌は消えぬ。導祖がこの子の珠の力をいずれかの女に宿しさば、その時、女は巌となるのだ」
「どういう、ことだ」
「分からずとも良い。昊之上を封じておくならば汝のその珠のみで充分。闇女上は甦る要もなし、役成の野望も叶わぬ。それでもこの珠を求めるか? 導祖が連れ帰る僅かな間さえあれば良い。相手になろうぞ」
一瞬で吹き荒れた威圧感にスオウは腰砕けて尻餅をついた。
バラストが何を言っているのか理解は出来なかったが、赤子を導祖に渡す邪魔をするなら抵抗すると言っている事だけは分かった。
振り払っただけで人を血飛沫に変える化け物が本気の抵抗を見せたらどうなってしまうのか、考えただけでも恐ろしい。
顔を引きつらせるスオウを横目で見ていたメイはバラストに向き直ると首を振った。
「……いや、やらぬ」
「怖じたか」
「違う」
「その男の死を憂えたか」
「え?」
「…………」
「……ほう?」
「……違う。どうせすぐに何処かで新たな巫女が生まれるならば……ここで戦うのは無駄な事だからだ」
「そうか。ならば競わねばのう。新たに産まれた巌非売を、汝は我より先に奪えようか」
「バラストよ。合力せよ。汝の力、巫主に聞きけり。なにゆえ我らが徒らに争うことがある」
「合力はせぬ。我はもう人の世に関わるのはやめる。闇女上に会うたら伝えよ。どうせ泡沫の人間、守るに値せぬものに纏わるる汝が、我には似非に見ゆるとな」
赤子から光る魂を抜いた導祖が鈴の音とともに消えて行った。
空の器となったものを大事そうに抱え直すとバラストは立ち上がり、呆然とする顔の二人を見て嘲るように笑った。
笑い声が竹林に響き渡り、木霊して消えていく。
静寂が戻る頃にはその寂しい背中はどこにも見当たらなかった。




