潮見津原の巌比売9
程なくして潮見津原に到着したスオウとメイを待っていたのは狂乱する人々であった。
話かけようにも悲鳴をあげて逃げていくばかりで誰も相手にならず、暫くすると屈強な男たちが現れて問答無用で襲い掛かって来た。
すぐさまメイが迎撃態勢を取ろうとしたのでスオウは全力でこれを止め、髪を掴んでその場から離れるので精いっぱいだった。
ここで意味も分からずに人死にを出してしまったらそれこそ一生この地を踏むことが出来なくなるからだ。
暴徒は執拗に追ってきて、ようやく逃れる事が出来たのは禁忌の地に入ってからだった。
旅をして色々な鄙を見てきたスオウは自身の故郷だけではなくそれぞれの鄙に聖域と禁足地があることを知っていたのでそれを思い出して逃げ込んだのだ。
禁足地はちょうど自分たちのやって来た方角にあり、怒号の中でスオウたちがそこからやって来たのではないかと言及する言葉が聞こえたのが救いだった。
潮見津原は広いので鄙の反対側に禁足地がある立地であったらそこまで誰も殺さずに逃げることは出来なかっただろう。
「己、何をした」
禁忌の林の奥深くに逃げ込み息をついたスオウはメイを座らせて問いただした。
鄙人たちはまるでメイが以前にも潮見津原に来たことがあるような口ぶりだった。
メイはぽかんとしている。
嘘や言い逃れをするような奴ではないので他人の空似で誰かが何かをしでかしたのかもしれないがそれには大きな疑問があった。
メイに似ているといえばすぐさま思い浮かぶのは土の精隷だ。
土の精隷はみな同じ姿かたちをしている。
だが本来の土の精隷は決められた土地の範囲にしか存在せずメイのように方々へ出歩くことが出来るなどという話は聞いたことがない。
メイは闇女上の命を受けてこのような特殊な存在となっているというが、つまり他にも同じように創られた土の精隷がいたということだろうか。
あり得なくはない話だ。
メイに同胞の存在を尋ねてもやはりぽかんとしているだけなので確証は得られないが、珠の巫女が複数人いることを鑑みると闇女上はメイのような精隸を複数創ってそれぞれに使命を与えていたとも考えられる。
そしてその使者がやらかしたのではないか。
最初の鄙でメイが妹を殺した時のように。
いや、そう考えるのは早計だろうか。
精隷を生み出すには必ず何かの媒体が必要なはずであり、無の世界である幽世では闇女上はメイを創り出すことさえ難儀した筈だ。
人であるスオウは上や異能に関わる世界の事など殆ど知らないに等しいが御闇山の巫主もメイの存在を珍しがっていたことからそう何人も創り出せるものではないと思われる。
ともあれこのままではバラストなる上に協力を仰ぐこともままならないが、いやむしろバラストはこの狂乱の中にあって何をしているのだろうか。
「おい。バラストは何処に在るか、分かるか」
「知らん」
「なれば珠は何処にある」
「すぐそこにある」
「己と同じ命を受けし者が、先に賜りたるか」
「知らん。珠はすぐそこだ。そして」
「おのれは常に──待て、そして、何だ?」
「此処に来向かえり。すぐそこだ」
「!?」
人であるスオウでさえ圧倒される尋常ならざる気配が竹林の向こうから迫って来ていた。
恐ろしい重圧のせいでスオウはまるで竹がその者を避けているかのように大きく湾曲している錯覚に捉われた。
大柄で屈強な肉体を持つ赤銅色の肌をした初老の男が血糊で乱れた白髪をそのままにしてこちらを見据える様は昼間だというのに息を飲む恐ろしさだった。
一目見てスオウは男が戦いの上バラストであることを察した。
後ずさりするスオウには目もくれず、バラストは座ったままのメイの前に立ち暫く静かに見下ろしていた。
そしてふと、恐ろしい気配が軽くなった気がした。
直視できるようになったスオウはそこでようやく男が左腕で何かを抱えていることに気付いた。
それは赤ん坊であり、きっと巌比売なのだろう。
「己は……あれにはあらぬようだな」
「あれ?」
「我が名は磐裸須人。潮見津原の老い痴らえ者なり。汝は誰そ。名乗れ」
「メイだ。闇女上の命を受け、珠の巫女より珠の力を賜りに来た」
「…………」
「それか? 珠は」
「お、おい、メイ……!」
「此は……我が子巌比売なり」
やはり男はバラストで、赤子は巌比売で、そして親子であった。
巌比売の生まれの奇妙な逸話も生まれながらにして巫主を凌ぐ異能の力も、全てはこの古上の血を引いているからだったというわけだ。
それゆえにスオウはこの状況を酷く恐れた。
恐らくバラストの全身の血は返り血であり、やって来たのは当然ながら赤子を差し出しに来たからではなく、メイが今までのように巫女を無神経に殺そうとすれば間近で上反撃のあおりを食らうのは自分だと思ったからだ。
「そうか」
そういうとメイは──何もしなかった。
今までなら、賜る、などと言って手を変形させて赤子を奪おうとしただろう。
そうしなかったのは流石に危険だと本能で察したからか。
メイはもちろんメイの目をじっと見つめるバラストの横顔からもなんの感情も読み取れず、スオウは噴き出る汗をぬぐう事も出来ず金縛りにあったかのように立ち尽くしていた。




