潮見津原の巌比売7
放られた農具が地面につくよりも早く、駆けたバラストの拳によって吹き飛ばされる襲撃者の半身。
遅れて衝撃波が吹き荒れ周囲の低木を割く。
「これは恐ろし。まともにやりあえば敗けよるか」
欠損を瞬く間に戻して土の精隸は薄笑いを浮かべ空へと逃げた。
その態度が一層バラストを怒らせた。
珠の力を奪いに来たと言ったか。
言葉から察するに最近各地でいくつかの大いなる力が消失し気脈を揺るがしたのは奴の仕業だったようで、そしてどうやら我が子は珠の巫女となっていたらしい。
本来ならば導祖は数え年十五以上の女でなければ巫女に選ぶことはないという。
いよいよ巫女に選ぶ者がいなくなったのか、事情は知らないが如何なる理由があっても我が子を差し出す親などいるわけがなかった。
最愛の者が死してまでこの世にもたらしてくれた命である。
傀儡たる土の精隷を遣わしたのが幽世にいるはずの闇女上なのかそれとも別の誰かなのかなどは知る必要もなく、その理由でさえどうでもよかった。
「滅せよ!」
バラストが空にまで跳躍してきた時、土の精隷の顔から笑みは消えた。
元より余裕の笑みというよりは虚勢である。
空を蹴り天地逆さまになって繰り出された踵落としが真空の刃を生んで遠く離れた雲に大穴を開ける。
無論、間近でくらった精隷は息を飲む暇もなく粉々になる。
土の精隷はバラストの本気を知らなかった。
元よりバラストは目立つことを好まず、上代においても上を名乗らなかった陰業衆に類する存在であった。
徒党を組むことさえ厭い、ずっと一人で隠棲していたおかげでかつて単騎で荒馬人を倒すまでは無名の存在だった。
その頃の土の精隷はといえば既に敗走を喫しており実際に逸話を聞いたのはずっと後の事で彼の者の力量を心から信じてはいなかったのである。
それでも念には念を入れてバラストと赤子が離れている隙に短期勝負を仕掛けたつもりであったがどういうわけか赤子には傷一つつかなかった。
そして今は圧倒的な力でまさに手も足も出ない。
土から離れて空に逃げたのは悪手だったようで、再び体を復元した精隷は急いで盾を創り出したがバラストの拳から繰り出される衝撃波は容易く全てを粉砕した。
だから土の精隷は逃げた。
適わないと判断するや否や崩れていく土の精隷の肉体。
止めを刺そうと拳を振り上げていたバラストが攻撃の手を止め首を掴むと土の精隷は最後の一撃と言わんばかりに渾身の刺突を胸めがけて繰り出した。
しかし片手で弾かれてしまい手の甲を切り鮮血が舞ったがその程度の傷をつけることしか出来なかった。
どろどろと溶けていく肉片が泥へと変わっていく中で土の精隷は思考と発言の分別を無くし恨み言のように呟いた。
「うう……うぐぬぬぬ……。一度ならずニ度までも。機を逃すとは何たる不徳よ……」
「正無しき者め逃ぐる気か!? 待て!」
「待つわけなかろう恐ろしい、ああ恐ろしい……」
何か口を割るかと思い止めを躊躇ったが土の精隷はそのまま溶けて消えた。
意味も分からず、残ったのは義理の甥の死とバラストの戦いぶりによって壊滅した稲畑だけだった。
バラストは大穴の中に降りると未だ泣いている我が子を拾い抱きしめる。
一部始終を見守っていた鄙人たちは、有力者の娘婿であるから今まで黙っていたものの明らかに人とは違っていたバラストに一層恐怖の目を向けるのであった。
一方その頃、御闇山と潮見津原の中程にある沼地にて泥に沈んでいた男が起き上がる。
荒く呼吸し咳き込んで、泥にまみれていた顔を拭うと硬いものが水面に落ちた。
それは土で出来た仮面であり土面と呼ばれる装飾具にして呪具である。
男──ヤクナスは両肩を抱いて擦り、式神を遠隔操作していたにも関わらず感じた死の恐怖に震えていた。
「はぁっ……はぁっ……死ぬるかと思うた……。ば、化け物め。未だあのような者がこの現世におるとは、我はあと如何ほど時を待たねばならぬのだ!? ……否、否とよ、もはややるしかあるまいぞ。嗚呼……恐ろしい。だがあのバラストなる者、避けおったわ。不死ではないか。ならば決して斃せぬこともなし。それに……」
見上げた先には天嶮、御闇山がそびえる。
泥まみれの顔には歯と目だけが爛々と光っていた。
「今一つのほうは成せり」
時は少し遡る。
ヤクナスは異能の気配を消し、陰族の縄張りへと繋がる御闇山の参道にて機を窺っていた。




