潮見津原の巌比売2
いわゆる表側の参道とは違い裏手となる降り口は宿坊も遥か昔に畳まれて険しい悪路となっていた。
野宿などスオウにとっては日常茶飯事のことだったが御闇山の山頂から久しく出たことのなかったミミは事あるごとに文句と愚痴をまき散らした。
女中付きの湯浴みや香焚きなどもってのほかの露営である。
そんな当たり前の事さえ予想出来なかったのかとスオウはミミが駄々をこねる度にうんざりした。
巫主は何故あの場にアビコとマヌイがいたにも関わらずこのような女に供を命じたのか。
陰族の長に会わせるならそれなりの立場の使者が必要だと思ったのかもしれないがこれでは先が思いやられる。
お前がそのように身勝手だから巫主に遠ざけられたのではないか。
必死に排便を拒絶し厠を用意せよと出来るわけもない我儘を言うのでスオウがそう叱るとミミは殊のほか傷ついたらしく絶望の中で尊厳を捨てた。
そして幾日か経ち──。
植生も変わり深い木々に覆われた斜面を三人は行く。
手つかずの自然は北谷原を思い起こさせた。
恐らく宿坊があったであろう遺構で小休憩のため腰を下ろしているとついにミミが我慢の限界に至った。
「ふう……だいぶ降りて来たな。あと如何程だ?」
「……今少しだ」
「萎えておるな。今少しなれば励め」
「……故に恥づかしいのだ。このような穢れた身で陰族の奴ばらと会わねばならぬなど……恥辱の極みぞ」
「まあ分からんでもない。俺も湯が恋しい。されど道中、宿坊の跡はあれど湯は沸いておらなんだな」
「水路を作り宿坊まで引いておったのだ。今は全て埋まっておろうよ」
「湯の匂いはするのだがなあ」
「沢に降りれば湧いておるやもな」
「ふむ。ならば降りてみるか」
「…………」
「如何にせん。行くぞ」
「いい加減にしやれ! 道なくば我は歩けぬ! 歩かぬぞ!」
「穢れた身を如何にせんと言い出したのは汝ぞ」
「煩わしいっ! 聞けっ、もう歩きとうないのだ! 慣れぬ地べたで寝! 慣れぬ物を食い! これがどうして耐えらようか! 熱もあるやもしれん! 我は死ぬべくなりにたらずや!?」
「作病すなっ。息災に足りておろうが」
「知った口を聞くでないわ!」
「なにをっ? 先もあれだけ堅固なるものを放り出しておいて……」
「は?」
「誰が穴掘って埋めたと思うている。あれは病者のそれではないわ」
「はああああああっ!?」
「あー……囂しい……」
便通事情を把握されていて羞恥のあまり叫ぶミミ。
スオウはといえばそのような趣味があるわけではなく殆ど介護の気持ちでいた。
ミミは外見こそ美しい妙齢の女性に見えるがその実は何百年の時を生きた老婆である。
音を聞き分ける異能で通常の目の見えない者よりは自由に動き回ることが出来るがそれでも少しは他者の手を必要とするため今の今までは本人の名誉の為に黙って諸々の尻拭いをしてやっていたのだ。
真っ赤になって暴れるミミをメイに担がせて道なき道を降り自然に湯が沸く沢を見つけて久しぶりの行水をする。
抵抗も虚しく臭い臭いと貶められた傷心でしゃっくりをあげながら硬直するミミの身体を洗ってやり、ふとスオウはイルナシの事を思い出した。
供犠の定めを得た妹を小木蔵に入れる前、こうやって清めを手伝ってやったものだ。
色白の華奢な背中が当時と重なりスオウは無意識にその背に頭を付けミミを窒息させそうになった。
今少しすればメイは再び闇女上と相まみえる。
心無き土の精隷は送り出されるままに現世へとやって来たが今は入れ知恵をして送り返すことが出来る。
珠の力は本当に全て集めねばならないのかという疑問に対する答えも欲しいがスオウはもしかしたら闇女上のいる新珠の泉には導祖の導いたイルナシの魂がまだ残っているのではないかと考えていた。
人々が為に今生で幸せになれなかったのならイルナシは来世で幸せになるべきであり、またそのように計らうのが人に己の因果を託した闇女上の責務だと思っていた。
かくして旅の最後の夜が明けスオウたちは陰族の縄張りへと入った。
縄張りへと入った途端、三人は跳ね上げ式網罠によって頭上高くに吊り上げられた。
スオウは考え事しておりミミはぼんやりとし、メイはいつも通りだったので誰も周りを警戒していなかったのである。
現れた者たちは土の精隷の扱いが解っているのかメイを刺激せずにスオウとミミだけを問答無用で袋叩きにし、手際よく手足を棒に縛り付けて担ぐと風のような速さで走り己らの鄙へと運び入れたのだった。