潮見津原の巌比売
冥之上、巫主の珠を賜らず東の気穴に赴けり
上舎人、御髪を託し気脈に入る
げにも珠の定めの煩はしきこと哉
まことを聞きて潮見津原の巌比売を求め磐裸須人と向かいけり
大社の裏には登って来た参道とは逆の東側の麓に降りる道がある。
そこは充分な広さがあり、よく見れば舗装された箇所も見受けられたがもう何年も人の往来が細いことが感じられるほどに荒れ果てていた。
この日の眼下は雲海に包まれていたため見えないが晴れた日には遥か下に大きな入り江と浩蕩たる潮満原が見えるという。
その入り江の南手に繁る樹林に陰族はいるらしい。
「陰族とはどのような者どもだ?」
「一言で言えば獣よ。同じく闇女上を崇めてはいるが我らとは決して相容れぬ奴ばらぞ」
アビコとマヌイは巫主に新たな任務を下知されたのでスオウたちを目的地に案内する事になったのは耳と呼ばれる異能者だ。
両の目を縫い付けた黒髪禿の女性であり、妙齢に見えるが巫主と同じく上代から何百年も生きている。
その異能は精気の脈動……即ち気脈を辿って遥か遠くの物音を聞き取る事が出来るというものであり、無二の異能らしく巫主に重用されているようでそのせいか尊大な言動が見受けられる。
ただし異能以外は普通の女と変わらないようでスオウは旅路に心許なさを感じていた。
これから行くところは排他的な者達が暮らす地らしい。
マヌイは余計な諍いを招こうとするものの圧倒的な強さを誇り、アビコも武に優れていたためこういう時にこそ行動を共にしたかった。
不慮の事態となればスオウが一人で頑張らなければならないだろう。
にも関わらずメイもミミも守ってやる気が失せてしまうような手合いであることが問題だった。
「よいかスオウ、陰族の長には我が話を通してやる。だが奴ばらが話に応じるかは分からぬ。もしもの時には命を惜しまずよく我を守るのだぞ。我が異能は無二のものゆえ、汝とは違い替えは効かぬのだからな」
「人を援く陰業衆が聞いて呆れる物言いよな」
「我は巫主の侍従であり陰業衆ではない、無礼者。下郎は口の聞き方も知らぬか」
「よしメイ、巫主の珠を取りに戻るか」
「ん? 戻るのか?」
「な、何を急に言い出すのだ。心無き土の精隷を煽るでないわ。奴は巫主の珠は取らぬ。約定したこと、我が耳でしかと聞いたぞ」
「ふすとやらは現世において闇女上の代わりを成していると聞いたから後回しにしただけだ。最後には珠を賜りに戻ることに変わりはないし、これより闇女上に聞いて不要とあらばすぐに戻る。珠を賜らぬとは言っていない」
「メイよ」
「なんだ」
「巫主は……少し前からあのようなお姿を見せるようになった。あのような、生くるに疲れたなどと弱気なお姿を。……潮見津原の赤子があの方から生くる気力を奪うたのだ。そのうえ、そのうえ闇女上はあの方から樹の実を摘むがごとく珠の力を奪うというのか?」
「死にたいならば都合が良かろう」
「そのような話はしておらぬ。あの方はお隠れになった闇女上に代わり気の遠くなる月日を人どもが為に生きてこられたのだぞ? なのに最期がそれでは……あまりにも無体ではないか」
「知らん」
「ミミよ。私の妹は供犠の定めも果たせずに其奴に貫かれた。何も知らずに、僅か十余の虚しき人間であった。それに比ぶればなんと恵まれていようか」
「口を挟むなスオウ。人ごときと比ぶこと敵わぬ御方だ」
「…………」
同じ境遇かと思って同情をしたスオウだったがミミの高慢な物言いに苛立ちが募る。
だからスオウはミミの足元に矛の柄を素早く差し入れた。
目が見えずとも音で視ることが出来ると豪語していたミミであったが咄嗟の出来事には注意を向けていなかったようだ。
いつもの低くした尊大な声とは裏腹に少女のような高い悲鳴が岩肌の山に響き、坂道で手をつく場所を探り損ねたミミは大股をあけて盛大にひっくり返った。
「導祖に足元を照らして貰うたほうが良いのは汝のほうであったか」
「な、なんだ今のは!? 硬くて太いものが……我の……!」
「木の根だ」
「このような場所に根などないわ! この道は大昔なれど何度も行き来したことのある道ぞ!」
「では岩にでも躓いたのだろう。大昔などと……物事は瞬きのうちに変わるというのに、その慢心は必ずや身を滅ぼすぞ。立てるか?」
「た、援けは無用!」
「…………」
立ち上がろうとしていたミミの尻を思い切りはたくスオウ。
この何百年、そのような無礼を働かれたことのなかったミミは何が起きたか理解できずにただただ痛みに驚いて叫んだ。
地面に置かれた震える手が土埃に汚れ、慌てて払って今度は服を汚す。
土下座した後のような姿勢で無様に座り込み、混乱から呆けるミミの前にしゃがみ込んでスオウは荒々しく顎を掴んだ。
「これより山を下り、幾日も共に過ごす。己は耳聡くあろうが異変に気づいたとて抗う術を持たぬ。ここは安全で、多くの者が己にかしずいていたあの大社とは違うのだ。援けあわねばならぬのは、むしろ己のほうであると弁えろよ」
「あ……あ……」
「返事は!」
「は、はいっ……!」
「大丈夫か此奴……」
ぺたんと座り込んだまま背筋を伸ばして答えるミミ。
スオウは大きく溜め息をつくと立たせてやり土埃を払ってやった。
荒療治だったがいつまでもあのような態度で接しられたらうんざりするので仕方がなかったと自分に言い聞かせる。
その様子を見守るわけでもなくメイはどんどん歩いて行ってしまっていた。




