人ならざるもの2
鬼とは実体の不確実な怪奇であり妖の異称である。
古くは人や対外的な何かに対して明らかな害意を持つものが実体あるものに乗り移ることを禍憑きと言い、それが転じて実体そのものを凶津鬼と呼ぶようになった。
凶津鬼となってしまったら最後、魂は導祖によって新珠の泉へと運ばれることなく永劫の苦厄に囚われ続ける。
その闇から解放されるには魂が囚われる事になった原因を解消するか、彼らの歪んだ道理をも問答無用でねじ伏せる力で死を理解させるしかなかった。
陰業衆は妖を打ち祓う異能者集団のことだとは知っていたがそのやり方までは想像もしていなかったスオウ。
アビコがあまり良い顔をしていなかったためそれが本当に正しいやり方なのかは分からないがマヌイによる妖の祓い方は凄まじかった。
生木も燃えるほどの炎を両腕に宿しそれで殴りかかるのだから鄙人たちは成す術もない。
長い脚を巧みに使った回転に翻弄され槍による刺突も虚しく燃やされていく鄙人たちの絶叫はスオウに風吹く鄙での記憶を呼び覚まさせるのだった。
マヌイの言葉をその通りに取ればアビコは死者の願望を叶えるやり方で妖を祓うことを専らとする異能者のようだ。
しかし温情では救えない存在も当然いるようで、今はそうと割り切って鄙人たちの頭の泥壺を破壊し痛みから解放してやる方針に切り替えたようだ。
ただしそのやり方では被り物の中に満ちた血と膿を全身に浴びることになり現にアビコの顔は髪も張り付く程にどろどろになっていた。
それでも細い目を喝と見開いて戦う様は今までの妖退治がどれほど強い精神力を持たねばならないものであったかを想像させるに難くなかった。
当然スオウも静観してばかりはいられず死人と相対した。
示し合わせたわけではないが四人は互いの邪魔にならないように散らばって戦った。
粗方の鄙人を倒したと思った時、スオウは周囲の様子が変わっていることに気付いた。
木々に張り巡らされた糸が明らかに増えており、ムクロメは四人と鄙人の戦っている間に自身が最も活動出来る狩場を整えていたのだ。
逆さになって木から降りて来たムクロメが金切り声を上げた。
家々から被り物をした女や老人たちが飛び出し、吐き出され産み落とされる幼虫たちが蜘蛛となり蜂となり襲い掛かる。
圧倒的物量を活かした攻撃は陽動も兼ね、ムクロメは頭上から分析していた四人の中で最も弱そうな者に飛び掛かった。
異形は糸の上を飛び、羽根で滑空するとスオウ目掛けて裂けた口を開いた。
「スオウ殿っ!」
「あっ……」
「ああもう……煩れえなぁああああっ!」
戦いを楽しんでいたであろうマヌイが雑魚の相手に飽きて怒りだすのとスオウに目をつけたことで隙が生じたムクロメに対しメイが不自然な姿勢で振り返るのは同時だった。
爆発的な炎が吹き荒れて全てを焼くと辺りは真っ白な光に包まれた。
スオウは衝撃で地面に叩きつけらる。
そして一時的に意識を失ってしまうのだった。
自身の皮膚が溶け肺が焼け、眼球が惜し潰れる様を客観的に見たスオウは驚いて飛び起きた。
だが周囲の森は燃え盛っているのに自らの身には何事もない事を確認するとその理由はすぐに判明した。
見ればメイの巨大化した手がマヌイとの間にあり、きっとそれが盾となって爆風を防いだのだ。
ただしメイは決してスオウを守ろうとしたというわけではないようで、地面に突き刺さった指の間には血反吐を吐いたムクロメの上半身が仰向けで挟まっていた。
メイの手が引き上げられ元に戻るとその向こうでアビコが今まさに何かをしようとしている所だった。
全身が不燃の蝋で覆われているマヌイとは異なり何故アビコが無事なのかの答えもすぐに知ることになる。
手を掲げたアビコを中心に一気に炎が消えていき、波紋状に広がっていく見えない何かに入るとスオウは一瞬だけ息が出来なくなるのを感じた。
風か空気か、恐らくそれを操るのがアビコの異能なのだ。
火が消えると辺りは暗闇に包まれるかと思いきや蛍にも似た無数の光が現れ辺りを漂い始めた。
あれは風吹く鄙でも見た人の魂である。
圧倒的な炎に焼かれることで不死者たちも死なざるを得なかったのだろう。
ただしその光には無念の気配はなく、何十年と続いた苦しみから解き放たれた安らぎに満ちていた。
一方、ムクロメは下半身を失いながらも絶え絶えながらまだ息があった。
そのしぶとさは鬼であるが故か、しかし再生することはなく後は肉体を失い消えゆくのみだろう。
ムクロメの顔をじっと見つめるメイ。
その様子を見るスオウの横に並んで片膝をついたアビコが悲しそうな顔で呟いた。
「よもや……よもや巫女とあろう者が妖とならじとは」
「そもよう、珠の巫女ってのはなりたくてなるもんじゃねえんだろ。そこらへんの女が一晩明けたらなってるもんだ。道としての巫女様と心構えを同じく考えちゃ酷だぜ」
「…………」
「あー疲れた。久しく思い切り力使ってなかったから晴れらかな心地だぜ。今日はよく眠れるぞお」
「マヌイ。汝は端からムクロメ殿が死人であることに気づいていましたね?」
「んあ? あー。へへっ」
「何故言わなかったのです!」
「ははは、よもや陰業衆のアビコ様ともあろう御方が見破ってねえだなんて思いもしなかったもんでな。大して手強くもねえ妖なもんだから今少し生い立つまで愉しみに取り置いておくもんだと思ってたわ」
「そのようなわけないでしょうが!」
「そりゃ俺の言葉だぜ。ムクロメ、ムクロメってよう、骸の女って呼ばれてんのに聞き流すもんかね」
「……敢えて悪しき名をつけて長寿を願う風習は何処にでもありますから」
「へっ、そういう事にしといてやるよ。にしても、まさか近頃じゃなくて、童の骨があんなに苔むしる昔に妖になってたとはなあ。そんな年月でこの程度の強さとは、口惜しいぜ。概ね妖ってのは時が経てば経つほど恨みとかが溜まりに溜まって強くなるもんなんだが」
「亡者を何だと心得ているのです。亡者は汝の遊び物ではありませんよ! その僻めた性根、今一度巫主に直して貰いましょう!」
「あのなあ、猿婆はわざわざしく俺を己につけて遣わしたんだぜ? 火をつける俺に火を消す己、んで森の中ときたもんだ。俺は端から俺の自在に計らえられたと思ってたぜ。己の煩わしい祓い方じゃなくてな!」
「その事は御闇山にて明らかにしましょう。……メイ殿、スオウ殿。疾う疾う珠の力を拾い給え。死した後でも拾えるならば、疾く止めを」
「メイ」
「…………」
「どうした。どうなのだ? いくら妖とはいえ元は人。今の苦しき様をうちやるのは人の道にあらじ。まあ己に説うても詮無き事だろうが。珠の力は生かしておかねば拾えんか」
「これで良いのか」
「なに?」
「暫し待て」
ふらふらと歩いていく様子を何事かと見ているとメイは木の陰にあってマヌイの炎から逃れた子供の頭蓋を持ってきて苔を払いムクロメの胸の上に置いた。
ムクロメの瞳に光が宿り、彼女に見えたのは幼子の姿。
鬼に身を窶した者と現世に隠れ潜んだ魂とでは住まう世界が異なり出会う事はなかったが今や二つの魂は幽界で交わった。
母と子、実に七十余年ぶりの邂逅である。
「アア……オトウル……」
小さな頭蓋を抱いて涙し女は息絶えた。
それを見下ろす冥之上の目からはやはり如何なる感情も読み取れない。
しかしならば何故そのような行動を取ったのか。
スオウは鋭く細めた目で暫くメイを見ていたがアビコに倣い哀れな死者たちに手を合わせ目を閉じた。