上と神8
スオウの故郷である風吹く鄙から渡し場のある東へは行かずに南へずっと下っていくと小さな山脈があり麓にいくつかの鄙がある。
その山脈は風吹く鄙のある大きな扇状地の南端に位置し、山を越えた先には広大な森が広がっている。
渡し場からだと南西を目指せば山を越えることなく平原から森林地帯へと入ることが出来る。
森林地帯を更に南に行けば海へ辿り着く。
太古の姿をそのままに残す緑の一帯は北谷原と呼ばれていた。
スオウからすれば北でも谷でも原でもないが昔からそう呼ばれているのだから仕方がない。
大体の交易は手前の鄙や北の都で事足りるので旅の心得があるスオウもこの地に足を踏み入れるのは初めてだった。
人伝に聞いた話によればあまり友好的ではない人々が少数まとまって暮らしているという。
この地から怪異の気配がするとしてアビコらが派遣されたのは少し前の事だった。
近くならば異質なものの気配を感じ取ることが出来る二人の第六感は働かずに数日過ごしただけで特に問題は起きなかった。
鄙人たちも友好的とまではいかないがごく普通で、今までも特に妖に悩まされた事はないと言っていた。
ならばきっと巫主の勘違いであろうと引き返した矢先に渡し場で出会ったのがメイとスオウである。
「さてはマヌイ。己、ただで帰っては面目が立たんと、メイを討ちて手柄とせんとしたな?」
「し、してねえよ。そんなんじゃねえよ」
「気配はどうですか、メイ殿? ……しますか。成程、然らば巫主が申した妖の気配とは珠の巫女の力を指していたのやもしれませんね。大いなる力を捉える事の出来る我ら異能者に能わず巫主のみが感じたのは同じ巫女同士であるからか」
「でもよお、それだったらわざわざ妖の気配なんて言うかね。妖ってのは大概邪なもんだろ」
「それもそうですね。どういう事なのか、それはメイ殿が明らめてくださるでしょう」
「向こうだ」
辿っていくのは僅かに跡の残る人の道。
向かう先は外れもせずやはり森の鄙だった。
覆いかぶさるようにして立ち並ぶ樹林。
暫く歩いていると突然メイが足を止めた。
「おい、どうした」
「此方を見ている」
「えっ? 何がです?」
「人の形をした小さいものが此方を見ている。木の上から。たくさん」
「は?」
風に揺られ木の葉がすれる音が立つ。
見上げた三人には生物らしき姿は見えず、ただの木漏れ日が目を細めさせるばかりである。
メイは嘘をついたりしないので本当の事なのだろうが、スオウにはともかく異能者であるアビコやマヌイにも見えないとはどういう了見であろうか。
誰彼となく目を合わせ、誰もメイの言葉に同意出来ていないと知るとマヌイが少し背を震わせて眉根を寄せた。
「……なにもいねえじゃねえか。なんなんだよ此奴。俺らを怖がらせようとしてんのか? 屎がっ」
「否とよ。メイはあるがままにしか話さぬ。恐らく何かいるのであろう」
「ふうむ……吾らにも分からぬことがあるとは。されど人が吾らに抱くが心地を得んとはなかなか趣深いものですね。ここはメイ殿にお任せしましょう」
「否とよ。此奴、任せると勢いで巫女を殺すぞ」
森を進んでいくと人工的な溝が大きな木の間に横一線に掘られていた。
大木には燃やされた動物の頭蓋と木彫りの柱が飾られておりそれが縄張りの外と内とを分ける結界の意味を持たせているのだと見て取れた。
その向こうには来訪者に気付いた鄙人たちが既に確認に来ていた。
頭には泥でつくった被り物をし、全身は毛深く衣服は身に付けず、性器と足首に僅かばかりの藁を巻いただけの男たちが槍を手に木の上や岩の上からこちらを見下ろしている。
「むとぅりー、むとぅりー。むとぅぎーてぃやー。なぱー、すんどぅぎやーとぅ」
「むらじー、とぅもーあらや」
「うゆしーうゆし、あぱなーとぅ。ぴとぅぬるずむんうりやー」
「うずぅいく、うずぅいく……」
ぼそぼそとこもった声が不気味に響き渡る。
それはスオウでも判別不能な言語であった。
スオウが鄙で話していた上代言葉でもなければ都から流行り出した新言葉でもなく、ならば更に古い陰族の言葉なのだろうがそれに地方特有の酷い訛りが足されてしまっているのである。
分からないなりに何となく一度来訪の実績があるアビコたちと自分やメイへの態度が少し違うことには気づけたが噂通りかなり余所者を警戒する人々であるようだった。
「うらーっ! すくとぅーすぃ! すくるずあームクロメぬ、うとぅけんどぅ!」
マヌイが大声で叫ぶと森の人々は槍を取り落とし、大仰に狼狽した仕草を見せて後ずさった。
何事か理解しかねるスオウはぽかんとするばかりである。
「な、何事だ? マヌイ、汝は奴ばらの言葉が解るのか?」
「なんだよ、尤もだろが。俺は上代から生きてんだぜ? あいつらメイが人間じゃねえって気づいてだいぶ警戒していたみてえだ。だがまあ、俺に任せておきな」
「おお……頼もしいな。流石、似た姿をしているだけある」
「あ? 一遍死ぬか?」
森の人々が一斉に後ろを向き、奇声を上げて左右に散っていった。
見れば奥から全身に刺青を施した妖艶な女性が歩いて来る。
「彼ばらが御無礼いたしました。汝は先度の陰業衆殿ならずや? 再びお戻りになられるとは、お忘れのものでもなされましたか」
「こちらこそ忽ちに戻りて御無礼をいたします。少しお話をせまほしと思いまして。……スオウ殿、メイ殿、此方がこの鄙の長、ムクロメ殿です」
あれほど念を押していたのにメイがおもむろに近寄り気色ばんだスオウだったが時すでに遅かった。
刺青で黒くなり見えづらいがよく張った乳房の先端を指で突くメイ。
ムクロメは自身の肌を何度も指でつつく初対面の男に目を瞬かせて困惑するしか出来なかった。
スオウがメイの頭が陥没するほどの渾身の手刀を食らわせたのは言うまでもない。