3.堕天のシンペラズマ
数時間後。ライジアとの約束の時間になり、私は再び狭間の世界へ向かった。ポケットには、ライジアのピアスが入っている。ピアスを見つけた時、何故ピアスが落ちているのか疑問に思った。……きっと、戦争中に落としてしまったのだろう。私はそう思いながら、待ち合わせの場所に向かう。といっても、もう瓦礫の山になってしまったけれど。
約束の場所に着いたが、ライジアはいなかった。私の方が早かったのだろうと思い、ライジアを待った。そのうち来るだろう。そう思って、私は静まり返った世界で彼を待つ。
しかし、彼は約束の時間から一時間経っても来なかった。私は不安な気持ちで一杯だった。まさか、ライジアは……。
私はそこまで考えたが、首を横に振った。そんなはずはない、きっと聖戦で疲れて来れなかっただけ。以前、ライジアは私に言いました。『当たり前だろ、俺は消えたりしないさ。消えたら……ドロイアと会えなくなるからね』と。
だから、大丈夫です。私はそう自分に言い聞かせ、天界に戻った。こんなに寂しい帰り道は初めてでした。
屋敷に戻り、自室に入る。私はベッドに横たわった。
「ライジア……」
大丈夫。そう思っても、納得できない自分がいた。私はピアスを取り出し、それを見つめる。いつも、ライジアが触っていたピアス。
コンコン。
不意に、ドアがノックされた。私は急いでピアスをポケットにしまう。そして「はい」と返事をした。ドアが開き、現れたのはピュリだった。
「ドロイア、夜ご飯の時間だよ」
もうそんな時間でしたか。私は「分かりました」と言い、立ち上がる。そしてピュリの傍まで来た時、彼女は突然 鼻をひくつかせた。
「ピュ、ピュリ……?」
「なんか……変な臭いがする。何か、悪魔みたいな臭い……」
ピュリは顔をしかめた。……まさか。私はポケットの上から、ピアスに触れた。これのせいですか……?
「ドロイア、今日はお風呂で ごしごし洗った方がいいよ。多分、狭間の世界に行ったから、悪魔の臭いが移っちゃったのよ」
私は、「は……はい、そうしますね」と言い、ピュリと共に食堂へ向かった。
次の日も、その次の日も、聖戦は続いていた。それと同時に、ライジアとも会えない日々も続いていた。私は、返す事の出来ないピアスを、誰にも見つからないよう、なくさないように肌身離さず持っていた。そのお陰で、ピュリからは会うたびに「まだ臭い残ってる…」と言われるようになってしまった。アイシレス様や執事さん達には、気づかれていないようだが、ピュリはハッキリ臭いが分かるらしい。『悪魔のピアスを持っている』。そんなことをアイシレス様に知られたたら、きっと大変なことになる。だから、誰にも話せない。早く、ライジアに会いたい。そう思うしかなかった。
また別の日の夕方。私は、今日もライジアと会うことが出来ずに、とぼとぼ帰って来た。屋敷の門を通り、屋敷へと歩いていると「ドロイア様」と名を呼ぶ声がした。声の方した方を見ると、そこには庭の花に水やりをするミラさんが居た。
「ミラさん……」
「おかえりなさいませ、ドロイア様」
私は彼女に近付いた。彼女が水をあげていたのは、薔薇の花だった。
「綺麗ですね、この薔薇。とっても……」
私がそう話すと、ミラさんは心配そうな表情で私の顔を覗き込んだ。
「ミラさん……?」
「ドロイア様……最近、元気が無いように見えますが、如何されましたか?」
「いえ……」
そこまで言って、私は口を閉じた。「大丈夫です」と言おうとしたけれど、最近の自分を思い返してみれば、不適切な言葉だと分かる。ライジアと会えなくなってから、私はどんどん気分が落ち込んでいった。……だって、彼と会うことが私の毎日の楽しみでしたから。それが無くなってしまい、私は……。
「……っ」
ミラさんに相談したい気持ちはある。しかし、それは私が狭間の世界で悪魔と会っていることも言わなければならない。……それはできない。このことは、誰にも言ってはいけないことです。
「ドロイア様。私の思い違いであったなら申し訳ありませんが……毎日会っていたお方と、何かあったのですね?」
ミラさんに言い当てられ、私は思わず頷いてしまう。すると、ミラさんは「やっぱり」と溢した。
「もし良ければ……話して頂けませんか? 私にお話しできる範囲でも構いませんから」
「ミラさん……」
ミラさんが私の手を握った。真っすぐな瞳で見つめられ、私はもう だんまりなど出来なかった。
「実は……その人と、最近会えていないんです。約束の場所に時間通り行っても、そこでどれだけ待っても、彼は現れないんです」
いざ言葉にすると、辛くてたまらない。私の視界が揺らぎだす。
「でも、約束を破るような方ではないんです。それに、私と彼は……その、両想いで、しかも、告白されたのも会えなくなる少し前のことで……だから、彼が私を嫌いになって来なくなったとも考えられなくて……っ」
ぽろぽろと涙が零れ出す。ミラさんがハンカチを取り出し、優しく拭ってくれた。けれど、私の涙はとまらなくて、どんどんハンカチが濡れていく。
「……っ、考えたくないんですけど、彼、軍人なんです。聖戦にも行っていて……だから、もしかしたら、聖戦で――」
そこから先は言えなかった。言ったら、納得してしまいそうだったから。
「ドロイア様……」
ミラさんが私を抱きしめた。優しく背を撫でてくれる。それが嬉しくて、私は彼女の肩口で泣きじゃくった。
その後、目を腫らした私を自室まで送ってくれた。そして、夕食を運んできてくれた。「アイシレス様に今のドロイア様を見られたら、何もかも話さなくてはいけなくなるでしょうからね」と彼女は言った。
「私はドロイア様のメイドですから。貴女が一番幸せな選択肢を選びますよ」
微笑みながら言ってくれたその言葉は、私の心にとても響くものだった。
▽
同日、午後八時。私――アイシレスは、食事を終えたあと自室にてデスクワークをしていた。聖戦期間中でも、主天使としての仕事は変わらず行わなければならない。私が聖戦で戦っているため、代わりに人間界での仕事を行ってくれている部下たちからの報告書に目を通し、次の指示を出すというのが最近の私の勤めだ。
報告書全てに目を通し、私は息をついた。そして、机上に置いていた ピュリから貰ったお守りを手に取る。「さて、次の指示はどうしたものか」と思考を巡らそうとした時。自室の扉がノックされた。
「アイシレス様! ピュリなのよ!」
「ピュリか。入りたまえ」
私がそう返すと、扉が開き、パジャマ姿のピュリが入って来た。もう風呂は済ませたようだ。
「えっとね、アイシレス様。お仕事中にごめんなさい。でも、アイシレス様に聞いて欲しいことがあるの」
……聞いて欲しいこと? 彼女がそのような用件で訪ねてくることが珍しく、私は不思議に思った。
ピュリをソファーに座らせ、私もその隣に座った。ピュリは座ってからも、何処か落ち着きなさそうにしていた。それほど気がかりなことなのだろうか。
「さぁピュリ、私に話してくれるかい?」
「うん。……あのね、ドロイアのことなんだけどね」
ドロイアのこと? 二人の関係は非常に良好なはずだ。一体何のことなのだろうか。私が一層疑問に思っていると、彼女は だんだん声を小さくしながらこう言った。
「……最近ね、ドロイアから悪魔のにおいがするの」
「……!」
……馬鹿な。あの悪魔は私が数日前に始末したはずだ。あの二人の関係は経ったはずだ。それなのに、何故……。
「えっとね、前にピュリが狭間の世界に行っちゃったって話したでしょ? その時のことなんだけどね」
私はその話を思い出し、ピュリの肩を抱いた。私に完成したお守りを渡すため、狭間の世界に行ってしまったという話を、悪魔を殺した日に聞いた。それを聞いた時、私は気絶してしまうかと思うくらいの衝撃を受けた。ただでさえ、「ドロイアと悪魔が交流していた」ということだけでも気が動転したというのに、今度は聖戦中に義娘二人が狭間の世界に言っただなんて聞いた時には、ハルマゲドンを見たかのような表情をしていただろう。……まぁ、二人とも無事であったし、ピュリの話を聞いて推測すると、ピュリを助けてくれたのはドロイアと交流していた悪魔だということが分かった。それだけは不服であった。悪魔に義娘を助けられるだなんて、悪魔嫌いの義父として恥ずかしいことだ。
「えっとね、その時のことなんだけどね」
黙ってしまった私に確認を取るように、ピュリがもう一度そう言った。私は「あぁ、すまない。続けてくれ」と謝罪する。
「ピュリね、狭間の世界から天界に戻る途中、ドロイアが何か拾ってポケットに入れるのを見ちゃったの。何を拾ったのかまでは分かんないんだけど……ピュリ、思うんだけど、たぶんドロイアはずっとそれを持ってるから、悪魔のにおいがすると思うのよ」
ピュリの話はとても納得できるものだった。彼女の言う通り、悪魔のにおいはそれが原因だろう。ドロイアが拾い、天界でも大切に持っているということは……あの悪魔の持ち物だろうか。そうであれば大変なことだ。折角 悪魔を殺したというのに、彼女はまだ邪気に触れていることになるのだから。
「ピュリ、このこと話して良いのかなって思ってたんだけど……やっぱり、ドロイアから悪魔のにおいがずっとするのは良くないことだと思って……それで、今日アイシレス様にお話に来たの」
「……そうだったのか。お前の判断は正しいことだ。わざわざ来てくれて有難う、ピュリ」
彼女は「ううん、良いの」と言って、立ち上がる。
「アイシレス様のお仕事の邪魔になっちゃうから、ピュリはもう行くわね! お仕事がんばってね、アイシレス様」
そう告げて扉へと歩いていく彼女を、その途中で後ろから抱きしめた。
「アイシレス様……?」
「ピュリ。……お前だけは、何があっても守ってみせる。だから……許してくれ」
彼女は不思議そうに私を見上げていた。私は彼女を解放し、背中を軽く押した。ピュリはそのまま扉を開き、部屋を出ていった。
それと入れ替わるようにして、私の臣下二人が部屋に入って来た。明日の聖戦の打ち合わせがしたいから来てくれ、と連絡を入れていたのだ。
「アイシレス様! こんばんはですっ」
「ようアイシレス、来たぜ」
チアルとヴァロウが部屋に入って来た。彼らは私の前に立つと、私の言葉を待った。私は こほんと咳ばらいをし、こう話し出す。
「聖戦の作戦を立てる前に……二人に手伝ってほしいことがある」
……嗚呼、主様。私はもう、心に決めました。貴方の使いである主天使として――私は行動いたします。
▽
ある日のこと。私――ドロイアは、いつも通り狭間の世界へ向かい、ライジアに会えず帰って来た。自室に戻り、ベッドに倒れ込む。
彼と会えなくなってから、もう一週間が経つ。もう、永遠に会えないのかもしれない。そう思うと、悲しみで心が一杯になって……私は涙を流した。
ちょうどその時。コンコン、とドアがノックされた。私は涙をぬぐい、起き上がる。「どうぞ」と声をかければ、入って来たのは……。
「アイシレス様!」
義父のアイシレス様だった。しかし、入って来たのは彼だけではない。アイシレス様の臣下である チアルさんとヴァロウさんも居た。
「アイシレス様……? 一体、どんなご用件で――」
私がそう問うと、アイシレス様は目を伏せ、臣下たちにこう言った。
「頼んだぞ」
……何を? 私がそう思った瞬間、私はアイシレス様の臣下二人に取り押さえられていた。
「……!? アイシレス、様……?」
私は彼を見つめた。彼は「失礼するよ」と言い、私の服のポケットに手を入れた。
「……ッ!」
冷や汗が噴き出た。駄目です、その中には……!
アイシレス様は、そんな私の思いに反して『それ』を取り出した。……ライジアのピアスを。
アイシレス様はそれを見て、眉間に皺をよせた。悪魔の持ち物であったからか、つまむようにして持っていた。
「ピュリに言われたのだよ。『ドロイアから悪魔のにおいがする』と。……案の定、悪魔の所持品を持っていたとはな」
アイシレス様は私の顔を覗き込んだ。険しい表情で見つめられ、私は怖くて仕方ない。
「……ドロイア。私は君に、散々言ってきたつもりだった。『悪魔は汚らわしい。純粋で美しい君が知るべきではない存在』と。しかし、君は私の言葉に反して悪魔と交流していた。その悪魔の名は――ライジア」
「………っ!」
「実はな、君とライジアが狭間の世界の村にある店で一緒に居るところを見てしまったのだ。随分と仲が良かったようだな。ここ一年、君が決まった時間に外出すると聞いていたが……まさか悪魔と親しくなっていたとは、驚かされたぞ」
アイシレス様の言葉に、私は言葉を失った。……見られていたなんて。完全に油断していました。アイシレス様に『狭間の世界で目撃される可能性』など、微塵も考えていませんでした。……でも、そうですね。アイシレス様は今、聖戦の為に狭間の世界を毎日のように訪れている。聖戦後も、偵察に行っていたという話も以前聞きました。聖戦後にライジアと会う――それが どれほどリスクを伴うことなのか、私は考えていなかった。
「いつ……、ですか。私とライジアを狭間の世界で目撃したのは」
「そうだな……確か、君がクッキーを焼いてくれた日のことだ。私のためではなく、『彼の為にクッキーを焼いた日』だ」
……アイシレス様は、もう何でもお見通しのようです。私とライジアが会っていたことは勿論、私がライジアに好意を抱いていたことまで――。
「ドロイア、私は……とても悲しかった。『アイシレス様のため』と言ってくれたが、君の心は悪魔の方を向いていた。愛する義娘に嘘をつかれると、こんなにも辛いものなのだな」
寂しげな表情になったアイシレス様を見て、私は一層胸が締め付けられた。
「だがな、ドロイア。私も……君に嘘をついていたことがある」
「……っ?」
アイシレス様は私の羽を撫でた。急にどうしたのだろう。そう思った瞬間――。
「……うぅッ!?」
羽が一気に重量を増した。何かを背負っているみたいだ。一体、アイシレス様は何をしたのでしょう。
アイシレス様は臣下二人に、部屋にある全身鏡を指差した。私を捕えた二人が鏡に近付いていく。すると、鏡に映ったのは。
「……っ!? そん、な」
漆黒の羽を生やした、私だった。
「君の羽は、一年前から――狭間の世界に行き出した頃から、どんどん黒く染まっていったのだ。私が何度も悪魔について注意喚起していたのにも関わらず、君は狭間の世界に赴いた……その行いが招いた結論だ」
「それじゃあ、アイシレス様が私の羽をいつも撫でてくださったのは……」
「君に魔法をかけていた。羽の色を偽る魔法だ」
その真実に、私はショックを受けた。アイシレス様は、私の羽を撫でるのが好きなのではなかった。『私の羽の色が好きではなかった』のだ。
「天使の羽が黒く濁った場合、初期症状であれば天界本部の医療部で治療ができる。だが、濁った理由が『悪魔との親しい交流』であると、天使の幽閉所と言われる第五天・マテイに収容され、そこで治療を受けながら囚人生活を送らざるを得ない。……私は、とてもその処置を受け入れられなかった。愛する娘が収監されるなど、考えるだけでも酷なことだ」
「……だから、私の羽の色を偽ったのですか? 私が、今まで通り過ごせるように」
「そうだ。正直、最初のうちは君が狭間の世界に行っているということは全く考えていなかった。狭間の世界は基本、天界本部にある扉から向かう。天界の何処かに数か所、狭間の世界に繋がる扉が別にあると言われているが、まさか義娘がその場所を知っているだなんて、夢にも思わなかった。『何故、ドロイアの羽が濁っていくのだろう』。ずっとそう考えていた。だが、その原因がついこの間分かった、ということだ」
それが、アイシレス様が私たちを目撃した時……。アイシレス様は、私を信じてくれていたということだろうか。『ドロイアが悪魔と交流するはずがない』。だから彼は、原因を突き止めるまで時間がかかったということか。
「だが……」
アイシレス様は持っていたピアスを胸ポケットにしまう。そして、こう続けた。
「原因が分かれば、対処するのは容易なことだ」
私はその言葉の意味が、よく分からなかった。……いえ、分かりたくなかった。
「……っ、嫌――」
「一週間ほど前に、ライジアに会った。聖戦中にな。ちょうど彼と仲間が言い争いをしていた時だった。話を聞いて分かったことだが、ピュリを助けてくれたのはあの悪魔だったようだ」
その発言に、私は一瞬喜びを覚える。ピュリを助けたのは、ライジアだったのですね……! だから、あの場所に――ピュリが『ここで助けてもらったの』と言ったところにピアスが落ちていたのですか。
……ピアスが、落ちていた? そしてアイシレス様は『原因が分かれば、対処するのは容易なことだ』と言った――。
「アイシレス、さま。ライジアは……、ライジアはその後、どうなったのですか?」
「私が始末した」
そう、きっぱりと言った。私は、全身の力が抜けていくのが分かった。ここまでの話を聞けば、分かっていたことだった。けれど、何処かで彼が生きていると信じたい私がいた。しかし、そんな想いは泡沫の願いだった。
酷くショックを受けている顔だったのでしょう。アイシレス様は悲しそうに眉を下げた。そして、私の頭を撫でる。
「そんな悲しそうな顔をしないでくれ、ドロイア。悪魔は汚らわしい存在、排除すべき存在だ。実際に君の羽も蝕んでいた。……殺して当然の相手だ」
アイシレス様はそう言った。だが、私は納得できない。ライジアは、『普通の悪魔と同等に扱って良い悪魔ではありません』!
「……、酷い……!」
私はそう呟いた。
「アイシレス様……っ! ライジアは、ピュリを救ってくれたのですよ? ピュリが無事だったのは、彼のお陰です! それに私、彼から沢山の事を教わって……、彼は悪魔ですが、悪い悪魔ではありませんでした! なのに、殺すなんて! アイシレス様は、有難いと思わなかったのですか!? ピュリを助けてくれたことを! せめて、せめて……っ、彼を殺したことを、後悔しなかったのですか!?」
「――黙れ」
アイシレス様は私を睨みつけた。まるで、悪魔を見るかのようだった。
「有難い? 後悔だと? ……笑わせるな、悪魔は主様の敵。主様の敵は全て排除する。それが主天使である私の誇りであり、誓いだ」
急に強さを帯びたアイシレス様の言葉に、私は身体を震わせる。
「まさか……ここまで毒されていたとはな。非常に残念だ、ドロイア。……チアル、ヴァロウ。行くぞ」
アイシレス様は、私に背を向けた。私は抵抗する事も出来なかった。……アイシレス様には、私が何を言っても届かないだろう。アイシレス様は、主様のことを酷く慕っている。
『主様の威光を世に知らしめる』。それが彼にとって、何よりも重要なことなのだろう。……愛する義娘よりも。
私は、アイシレス様の臣下二人によって、屋敷から連れ出された。そして向かったのは、第五天・マテイにある収容所。第五天は初めて来た。空は厚い雲に覆われ、肌寒い。天使たちが住む第六天は、常に主様の威光により明るい状態であるため、第五天の空は私を一層不安にさせた。
収容所に着くと、私は牢屋に放り込まれた。
「……っ」
そして、ガシャンッと大きな音を立て、牢の扉が閉まる。アイシレス様は牢の鍵をかけた。私はもう逃げられない。
「さて、ドロイア」
アイシレス様は、捕まった私の姿を見てこう言った。
「君の処分は、明日だ」
「……処分、ですか」
処分されるということは、もう薄々分かっていた。私の羽は、もう末期状態なのだ。殺す他に手段が無いのでしょう。……ですが、その日が明日というのは――実感がありません。
「私としては、もう暫くここに置いておきたかった。……だが、主様は早急な対応を求めていらっしゃる。だから、明日に決めたのだ」
アイシレス様はそう言うと、「では、明日また会おう」と私に背を向け行ってしまった。まるで、友人同士の挨拶のように単調なものだった。残された臣下二人も、アイシレス様の後を追って行ってしまう。
一人残された私は、静まり返った牢の中で膝を抱えて座った。地面は冷たく、牢の中はとても暗い。通路に蝋燭が数本置かれている程度。
「明日、私は……消えてしまうのですね」
そう口にしたとき、脳裏に浮かんだのはライジアの姿だった。ライジアが消えてしまった事。正直、自分が処分されることよりも、彼を失ったことに未だショックを受けていた。私が日々を過ごす意味は、彼と会うことだったから。だから、ライジアが消えてしまった今、私はもう存在している理由なんて無い。彼は本当に素敵な悪魔だった。どんな悪魔よりも魅力的で、優しかった。
けれど……アイシレス様は、そんな優しいライジアでさえ受け入れなかった。確かに、悪魔が嫌いなのは天使として当然のことなのだろう。私だって、狭間の世界にいる白い羽根の悪魔たちは平気なだけで、魔界にいる悪魔はライジアを除いて怖いと思っています。悪魔であるライジアも『悪魔は悪い奴だ』と言っていた。でも、悪魔の中には、ライジアのように優しい悪魔が他にもいるはず。私はそう信じている。狭間の世界に住んでいた白い羽根の悪魔は、もとは魔界に住んでいた。善の心を持ってしまったから、あの世界へ送られただけ。彼らも元から優しい方だったのかもしれない。
天使は善の感情を、悪魔は悪の感情を持っている。それは当然のことだと思う。でも……ライジアも言っていた通り、『天使は悪の感情を、悪魔は善の感情を持っていない』ということはないと思う。というか、持っていると思う。戦争中に、悪魔が味方の悪魔の事を思って庇ったとしたら、それは善の感情だと思う。逆に、天使が自分より上の階級の天使に嫉妬し、嫌味を言ったとしたら、それは悪の感情だと思う。
今 挙げた例は、きっと日常の中の何処かで見ることができるはず。天使も悪魔も、少なからず自分が持っている感情と逆の感情を持っている。……アイシレス様だって、悪の感情を持っている。ピュリも、執事さんも、メイドさんも――。
「善の心と、悪の心……」
私は以前、ライジアから聞いた話を思い出した。その内容は『人間』。
実は……私は数百年ほど前、一度だけ人間界へ行った事がある。アイシレス様の仕事を見学するため、私とピュリと、アイシレス様の三人で人間界へ赴いたのだ。だから、ライジアから『人間』について教わった時、すでに私は基本的な事は知っていた。
人間は、私たちよりも全ての能力が劣っている。羽も生えていないので、飛ぶこともできない。天使や悪魔から、能力や羽を取った生き物。……ではない。
彼らは私達とは違い、善と悪の両方の感情を持っている。天使のように、悪の感情を抱いたら堕天するわけでもなく。悪魔のように、善の感情を抱いたら羽が白くなるわけでもない。彼らは、自分に正直な生き物。善の感情や、悪の感情を持つことに躊躇わない。それにより、多少の争いなどが起こることもある。けれど……。
「……羨ましいです、善悪どちらも持っているだなんて」
天使であるが、悪の影響を受けた黒い羽根を持つ私。善悪を持ってしまった今の私にとって、人間という生き物は素晴らしく思える。たとえ、能力が劣っていたとしても、羽がないとしても……。私は人間が羨ましい。
「人間に、なりたい……」
私はそう呟いた。ふと思いついた言葉。その言葉は、誰かに届くことなく収容所の闇に溶けていった。
▽
同日、午後十時。アイシレス様の屋敷にて。私――ミラは、先ほどアイシレス様から、ドロイア様の今後についてお話を聞いた。突然のことであったため、少々頭が付いていかなかったが要点は分かった。ドロイア様は……明日、アイシレス様の手で始末されるということ。
ドロイア様が悪魔と交流をしていたということに関して、私は驚きはしたものの、落胆の情は生まれなかった。寧ろ、彼女を誇りに思った。遠い昔から、天使と悪魔の親しい交流は否定的なものである。けれど、ドロイア様は己の感情に正直に恋をなさった。……私は大好きでした。ドロイア様が、毎日同じ時刻に嬉々とした様子でお出かけになられ、満足そうな表情で帰宅なされるのを見るのを。ドロイア様がクッキーを焼きたいと言ったことも、聖戦が始まり 彼と会う時間が短くなってしまっても、ドロイア様は幸せそうでした。私は、恋をされているドロイア様が大好きでした。
屋敷にある私の部屋で、私は一人考える。……分かっている。ただのメイドがどうにかできる問題ではない。けれど、考えずにはいられなかった。少しでも運命に抗いたいという感情が私の中にある。
――コンコン。
扉がノックされ、私は我に帰る。私は椅子に座ったまま「どうぞ」と答えれば、入って来たのは……。
「……っ! ヴァロウ……」
私の幼馴染であり、アイシレス様の臣下であるヴァロウだった。彼は真剣な眼差しで私を見つめている。彼の瞳には、意思が宿っていた。強い意志だ。
「ミラ、お前に頼みがある」
「頼み……? 一体、何の――」
「ドロイアちゃんを救いたい」
私は息を呑んだ。それは私の心にあった感情。その言葉は彼の想いからであることは分かったが、なんだか見透かされているようにも思えて私の胸が高鳴る。
ヴァロウは部屋に入ってきて、座っていた私の手を取った。そして、両の手で強く握る。
「俺と来てくれ、ミラ」
私は大きく頷いていた。
▽
次の日。……だと思います。私――ドロイアは、目を覚ました。いつの間にか寝てしまっていたようです。監獄はずっと暗く窓もないので、今が朝なのか夜なのかも分かりません。しかし、此処に連れられたのが夜だったので、日を跨いだのは確かでしょう。
私は起きてから、牢の中をうろうろと歩いていた。昨日(多分)はずっと地面に座っていたので、お尻が痛い。
立ったり座ったりを繰り返していると、遠くで扉の開く音がした。恐らく収容所の扉でしょう。……誰か来たのでしょうか? そう思っていると、現れたのはアイシレス様の臣下、ヴァロウさんだった。
「おはようさん、ドロイアちゃん」
「ヴァロウさん……! おはようございます」
彼は手に籠を持っていた。中にはパンと水筒が入っていて、鉄格子の隙間から私に渡してくれた。
「朝飯だぜ」
「あ……、ありがとうございます」
私は彼からパンと水筒を貰い、空腹のあまりすぐに座りこんで食事始める。
「流石に飯抜きは可哀想だからな。あと……」
ヴァロウさんは、監獄の扉の方へ向かって手招きした。すると、現れたのは……
「おはようございます、ドロイア様。……お会いできて嬉しいです」
「ミラさん!」
ミラさんが現れた。いつも傍で世話してくれた彼女が来てくれて、私は思わず笑顔になる。
「ミラさんも来てくれたんですね、嬉しいです」
私の言葉に彼女は微笑んだ。
「実は、ドロイア様にお話があって参りました」
ミラさんはそう言うと、私の前に座った。
「お話……ですか?」
「はい。……ヴァロウ、このことは私からじゃなくて、貴方から言った方が――」
「いや、ミラが言ってくれ。俺は一応……アイシレスの臣下だからさ。それに、ドロイアちゃんはミラとの方が話しやすいだろ」
一体何の話をしているのだろうか。私はそう思いながら、水筒の蓋を開けた。……良い香り。私の好きな紅茶です。
ミラさんはヴァロウさんにそう言われ、「……分かったわ」と頷いた。そして、真剣な顔になってこう話し出す。
「……ドロイア様、貴女の事情は全て聞きました。悪魔と交流したことで、羽が黒くなってしまい……」
私は彼女の言葉に苦笑う。
「はい……そのお陰で、こんな有様です」
ミラさんはそんな私を見て、一瞬悲しげな表情を浮かべる。けれど、ヴァロウさんがその背中をさすった。ミラさんは頷き、言葉を続ける。
「ドロイア様、私とヴァロウは貴女を救うためにここに参りました。貴女の望みを叶えるために」
「私の、望み……?」
「単刀直入にお聞きします。ドロイア様は、どうされたいですか。このまま、アイシレス様によって消える運命を受け入れていらっしゃるのですか」
ミラさんにそう言われ、私は目を伏せた。
「私は……そうなってしまうのだろうと思っています。望みはあります、でも……それは難しいことですから」
「……人間に、なりたいのでしょう?」
「……っ!」
胸の内を見抜かれ、思わず肩が震えた。
「ヴァロウと昨晩考えたのです。ドロイア様は今、どんなお気持ちだろうかと。貴女が愛した悪魔は殺されてしまった。貴女が通っていた村も瓦礫の山になってしまった。そうなると……貴女が次に目を付けるのは、人間界だと思ったのです」
「ドロイアちゃんが好きだったライジアの事、調べさせてもらったぜ。狭間の世界や人間界の調査も独自に行っていると記録があった。ドロイアちゃんはライジアに色々なことを学んだって言ってたから、人間界のことも聞いてたんじゃねぇかなと思ってさ。善と悪が共存する世界のことを」
二人の考えは、何もかも正しかった。内に秘めておかなければと思っていたこと、全てを二人は汲み取ってくれた。
私は「はい……」と呟いた。『人間になりたい』。その気持ちがあることを。すると、ミラさんはは私の答えを聞いて微笑んだ。
「それなら話は早いです」
……え?
「早いって、どういう事ですか……?」
私は首を傾げた。ミラさんの言葉の意味が理解できない。そんな私を見て、ヴァロウさんはニッと笑う。
「あとはドロイアちゃんの気持ち次第だ、ってミラと話してたんだ。ドロイアちゃんが『人間になりたい』と思っているなら、話が早いなってさ」
「というわけで……ドロイア様。今から、人間になるための方法を教えます」
私は「えっ」と声を漏らした。人間になる、方法……?
「ドロイア様。話が早く進んでいるため、困惑してしまうのも無理ありません。しかし……もう時間がないのです」
確かにそうだ。今が朝ならば、私は今日 始末される。もたもたしている場合では無いのだろう。
「……大丈夫です。教えてください、ミラさん」
彼女は「分かりました」と言い、説明を始めた。
「ドロイア様、人間になる方法はとても簡単なことです。それは……人間界へ通じる扉から、人間界へ堕ちる。つまり、堕天する。それだけです」
とてもシンプルな方法に私は驚いた。その反面、一つ疑問が浮上した。
「それだと……普通に人間界に行くだけになってしまいませんか?」
私の問いに、ヴァロウさんが首を振る。
「いや、今のドロイアちゃんなら堕天できる。何故なら、天界から人間界へ堕天する時の条件は『羽が黒く染まっていること』だからさ」
「黒く濁った天使の羽根では、人間界では飛ぶことが出来ないのです。なので、ドロイア様は『降りる』のではなく『堕ちる』……つまり『堕天』となるのです」
堕天の仕方が分かると一気に現実味が増し、私の胸の鼓動がスピードを上げた。私、本当に人間になれるのですね……!
「ドロイア様。ここまで話した後に、もう一度改めて伺います。……人間に、なりたいですか」
「はい……! 人間界は、ライジアが望んだ世界です。だから私はせめて……ライジアの望んだ世界で、善悪の感情を持って生きてみたい。彼の望みを、この魂で体験したいのです」
私はハッキリと宣言した。……もう、天界に私の未来はない。ならば、残された希望を手にしたい。
ミラさんとヴァロウさんは顔を見合わせ、頷いた。
「よし、んじゃあドロイアちゃん。堕天の仕方も分かったことだし、これから堕天の段取りについて説明するぜ」
「段取り……ですか?」
「あぁ。本当は、今すぐここから出して、人間界へ行かせてやりたいんだが、この牢の鍵はアイシレスが持っている。ここの鍵には特殊な魔法もかけられているから、俺には開けらんねぇんだ」
だから、アイシレスがここから出してくれてからが勝負だ。と、ヴァロウさんは言った。
「まず、アイシレスが鍵を開け、俺とチアルにドロイアちゃんを拘束しろと言うだろう。ここは大人しく俺たちに拘束されててくれ。アイシレスが言うには、表に出てドロイアちゃんを銃で撃つと言っていた。だから表へ出て、アイシレスが銃を構える前に……俺がまず、チアルを大人しくさせる」
ヴァロウさんは腕を組み、苦い顔をして続ける。
「ほんとはチアルにも手伝って欲しかったんだが、チアルは『アイシレス様のためなら』って奴だから、こっち側についてくれなさそうだったんだよ。だから、まずチアルを大人しくさせる。すると、ドロイアちゃんの身は自由になる。アイシレスはそこで異変に気付くだろう。だが、ドロイアちゃんは俺たちに構わず人間界へ繋がる扉まで走ってくれ。俺がアイシレスを食い止めるから」
つまり、ヴァロウさんに盾になってもらうということになる。私は申し訳なく思いながらも、「分かりました」と答える。
「あっ、でも……私、人間界へ通じる扉の場所が分からないです……」
私がそう言うと、ミラさんが私の手を握ってくれた。
「大丈夫ですよ。人間界へ繋がる扉は、この収容所を出て千メートルほど北に行った場所にあります。そこまでの道は、平らな道で障害物などは全くありません」
「それに、人間界のに繋がる扉は全て同じデザインだ。前にアイシレスやピュリちゃんと行った時に見ているはずだから、きっとすぐ分かると思うぜ」
人間界へ繋がる扉は、今までに一度しか見ていませんが……確か、とても精巧な作りで美しいデザインだったのを覚えています。白い扉に金のドアノブが付いていました。
「アイシレスのことは、俺が何とか食い止める。だから、ドロイアちゃんは真っすぐ扉に向かってくれ。……正直、アイシレスは敵に回すと手強い奴だ。俺も、ドロイアちゃんが堕天するまで食い止めきれるか怪しいところだが……最善は尽くす」
ヴァロウさんが言うことはよく分かる。アイシレス様は頭が良く、戦闘能力も高い。一対一で向き合えば、恐らく本気でぶつかり合うことになるのだろう。……だから私は、そんなヴァロウさんの為に。そして、私を応援してくれるミラさんのためにも。
「必ず、やりとげてみせます。人間になりたいです、人間になって……彼が望んでいた、善悪共存の世界をこの目で見たいのです」
『俺は……それが羨ましくて仕方ない。俺も人間界で生きたい。出来ることなら、君と一緒に。この世界……狭間の世界は、上と下の世界に潰されてしまいそうだから』
あの日、彼が言ったことを私はずっと覚えている。彼が望む善悪共存の世界。今の天界や魔界では難しい問題です。だからせめて……彼の『人間界で生きたい』という思いを、私が代わりに叶えてみせます。
「頑張ってください、ドロイア様」
そう言って笑顔を見せてくれたミラさん。……そうだ。今日堕天するということは、ミラさんとお別れするということ。ミラさんだけではない。ピュリやエイスさんも……。
「……っ」
でも、悲しんでいてはいけない。私には やることがある。だから、この別れは乗り越えなければ。
「ミラさん。お願いがあります」
「はい、なんでしょう」
「今まで……本当に、有難うございました。私、ミラさんが大好きです」
「……!!」
ミラさんの瞳が揺らいだ。私も、感謝を言葉にして泣きそうだ。でも、お互い涙は堪えた。ここで泣いたら、別れ難くなってしまうから。
「ピュリやエイスさんにも、「有難う」と伝えておいてください」
「えぇ、勿論です。ドロイア様」
そう言葉を交わし、私たちは手を繋いだ。私をここまで世話してくれた、貴女の手。何度も何度も繋いだことのあるこの温もり。私は――決して忘れない。
ヴァロウさんとミラさんが収容所から立ち去り、数時間が経った頃でしょうか。扉の開く音が聞こえ、私の身体が強張った。アイシレス様が来たみたいです。私は深呼吸をし、心を落ち着かせた。……失敗は、許されませんから。
「おはよう、ドロイア。今日は……君の最後の日だ」
アイシレス様が現れた。チアルさんとヴァロウさんも一緒に居る。
「君の処刑方法を考えた結果、私の銃で終わらせることにした。あの日の彼のように」
アイシレス様はそう言うと、牢の鍵を開けた。
「二人とも、頼んだぞ」
二人の臣下が、牢の中に入ってきた。そして、二人は私の身体を背後から捕らえる。私は抵抗せず、大人しく牢から出された。
私と臣下二人が牢から出ると、アイシレス様は収容所の出口へと歩き始める。私と臣下二人もその後に続く。
そして、出口の扉がアイシレス様によって開け放たれた。一日ぶりだったが、外の世界が眩しくて私は目を細めた。
「さて、ドロイア。……覚悟は良いかい」
アイシレス様は、私に背を向けたままそう言った。私はヴァロウさんを見た。彼は私と目が合うと頷いた。……えぇ、アイシレス様。覚悟ならできています。
「……チアル、すまねぇな」
ヴァロウさんがそう囁いたのが聞こえた。チアルさんは「え……?」とヴァロウさんの方を見ると――。
「うぅッ!?」
私を解放したヴァロウさんが、私からチアルさんを引き離し、鳩尾に拳を入れた。チアルさんは、あまりの痛みに私を解放する。
「……ッ!? 一体何事だ!」
臣下の悲鳴を聞いて、アイシレス様は振り返った。その瞬間、ヴァロウさんがアイシレス様を押し倒す。アイシレス様は、いきなりの事に身体が対応できず、そのまま押し倒されていた。
「貴様……ッ!」
「行け! ドロイア!!」
「はいっ!!」
私は大きく頷くと、走り出した。
背後から、アイシレス様とヴァロウさんの言い争う声が聞こえた。けれど、私は振り返らない。失敗は許されません。だから私は、成すべきことをします。
私は走り続ける。ただただ、走り続ける。人間界へと。
……私と貴方が望む、世界へと。
▽
臣下であるチアルの呻きが聞こえ、振り返った時には私はヴァロウに組み敷かれていた。視界の隅に映るのは、背を向け走っていく義娘の姿。
「離せ、ヴァロウ!!」
彼女を逃がすわけにはいかない。私は必死に抵抗するが、ヴァロウが私の両手足を押さえつけているため、逃れることが出来ない。
「すまねぇな、アイシレス。……これだけは譲れなかった」
ヴァロウも押さえつけるので必死なのだろう。額に汗が滲んでいる。
「……ッ、私を裏切るとはな。私はお前を信頼していたというのに」
「俺だって、お前に逆らうことなんかしたくなかった。だが……今回の件に関しては、俺は納得できなかった」
一週間前。私は臣下二人にドロイアのことを話した。ドロイアが狭間の世界で悪魔と交流していたこと。彼女の羽の色を偽っていること。それを主様に知られていたこと。この件にケリをつけなければならないことを。そして、二人にドロイアを拘束し、処刑するため手伝って欲しいと伝えた。
チアルは多少の躊躇いがありつつも、「アイシレス様のためなら」と承諾してくれた。だが、ヴァロウは違った。彼は首を横に振った。何故かと聞けば、「ドロイアちゃんの想いを尊重したい」と言った。
そこで私とヴァロウは言い争いになった。主天使である私は、主様の信頼を失いたくなかった。そのためなら、たとえ義娘でも手にかけると言った。ヴァロウはそれに激怒した。そんなに地位が大事かと。義娘の恋を応援したいと思わなかったのかと。
結局、その日はヴァロウが折れてドロイアの拘束に協力してくれるという結論に至った。私はそこで、ヴァロウは諦めたのかと思っていた。しかし、それは違っていたようだ。彼は諦めていなかった。私の知らぬところで、計画を練っていたのだ。
「なぁ、アイシレス。もう一度聞くぞ。お前は……ドロイアちゃんの恋を、応援したいと思わなかったのか」
「義娘の恋を応援したくない親がいるものか」
私は即答した。「なら……ッ!!」ヴァロウは私の胸倉を掴み上げた。
「なら、どうしてライジアを殺した!! お前は見たんだろ、二人が幸せそうに話していたところを!!」
「彼が悪魔だったからだ。それ以外に理由はない」
「……ッ、確かに、ライジアは悪魔だ。だが、狭間の世界の状況を知っているだろ? 天使と悪魔が恋をしてるんだ。あそこは許された場所なんだ」
「許されてはいない。あの世界は見放された世界だ」
「あぁそうだ、見放されている。だから自由なんだ! 二人はあの世界で恋に落ちたから幸せだったんだ! なのに、お前が壊した! ライジアを殺し、遂にはドロイアまで手にかけようとしている!」
「悪魔を殺すのは当然だ。それに……彼女の羽はもう濁りきっている。始末する他ないだろう」
「それは『主天使』の考えだ! そんなに地位が大事かよ!」
「貴様のような『最下級天使』に何が分かる!!!」
私は遂に声を荒げた。ヴァロウが一瞬怯み、私はその隙に腰に提げた銃を手にした。そして、銃口を彼の胸に突きつける。
「……ッ、アイシレス」
「ヴァロウ、私は……お前のような考えは出来ない」
彼は私と違い、他人との繋がりを大切にする男だ。見ていれば分かる。私の屋敷の者とも仲が良く、多くの天界本部の職員とも親しい。だから彼は『恋』にも特別な想いを持っているのだろう。そのため、ドロイアとライジアの関係を尊重しようとするのだろう。
「私は、天使と悪魔の恋は応援できない。ライジアが天使であったらどんなに良かったかと、何度も考えたさ」
私だって、一人の義父親だ。義娘には色々な人と親しくなって欲しいし、恋だってしてほしい。私自身が他人との付き合いが殆ど無い生活を送ってきたため、せめて義娘たちには……とは思っていた。だが、その相手が悪魔だなんて考えもしなかった。
「ヴァロウ。……彼女は、今から何をしに行くのだ」
「……堕天だよ。人間界に堕天するんだ」
予想範囲内だった。消失を免れるなら、もう残された道は『悪魔になるという堕天』、『狭間の世界での生活』、『人間界への堕天』の三択だ。彼女が悪魔になるとは思えない。悪魔になっても、もうライジアは存在しない。狭間の世界での生活も考えにくい。二人が交流をしていたあの村は、聖戦区域外での戦闘を起こした悪魔たちによって破壊された。彼女が行くべき場所は、あの世界にはない。すると、自動的に選択肢は一つになる。
「彼女は、人間になってどうするのだ」
「ライジアの夢を叶えるんだ。ドロイアちゃんは言ったよ、ライジアが『生きたがっていた』世界で生きたいって」
私は目を伏せた。彼女はそこまであの悪魔を想っていたのか。……だが、私の心は揺らぐわけにはいかない。
「……退け、ヴァロウ。私はドロイアを追う」
「嫌だね。……お前、これだけ聞いても考えを曲げないつもりかよ」
「どんな理由であれ、『堕天』を許すわけにはいかない。人間は醜い生き物だ。自分の義娘がそのような存在になるのは耐えきれん。……私がこの手で始末し、一度彼女をリセットする。そうすれば、彼女はまた天使として生まれ変わることが出来る」
天使も悪魔も人間も、死を迎えると肉体は消滅するが、魂は残る。その魂は一度 主様かサタンのもとへ集まる。主様のもとへ連れられれば、天使か人間に。サタンのもとへ連れられれば悪魔になる。次にどの種族になるかの確立に差はないと言われているが、少なからず生前の心の『善悪の割合』に左右されているとも言われている。
ドロイアは確かに『悪』の行いをした。だが、彼女が――堕天使に酷く近しい存在であったとしても、天使であることには違いない。そして、主様の管理下である天界で終わりを迎えれば……きっとまた、天使に生まれ変われるだろう。私はそう思ったのだ。だから、何としてでも彼女の『生』を天界で終わらせたいのだ。
ヴァロウは私の言葉を聞き、少し戸惑った。だが、彼は私を離さなかった。
「……お前の気持ちは分かった。だが、やっぱりそれは違う気がするんだ。俺は『来世』じゃなくて、『今世』を大事にしたい。天使や悪魔が人間に堕天する時、記憶は失われるが肉体はそのまま引き継がれる。ライジアのことは覚えていなくても、ドロイアは『ライジアと触れ合った肉体』で人間界で生きれるんだ。それがライジアの夢を叶えることだ。だから……俺は彼女を堕天させてやりたい」
彼の意思も揺らがないようだ。
「そうか、ならば――仕方あるまい」
――乾いた銃声が響き渡った。
▽
もうどれくらいの距離を走ったでしょうか。走り出してから、一度も足を止めていない。そんなに体力があるわけではないのですが、やはり……自分でもここが正念場だからでしょうか、止まるなんて出来ません。
しかし、流石にそうは言うものの、息は乱れ、スピードも落ちてきています。羽も重たくて、それで一層体力を奪われている気もします。
ここまで来たら、アイシレス様も追いつけないでしょうか。ヴァロウさんは今もアイシレス様を止めてくれているのでしょうか。確認したくて振り返っても、もう二人の姿が見えない場所まで来ている。となれば、尚更 前に進むしかありません。
「……っ、はぁ、はぁ」
遂に私は、走るというより歩いていた。疲労で足が上がらなくなってきています。……こんなにも距離があるとは。私がそんな風に思い始めたとき、遠くの方に何か白いものが見えた。
「……、まさか」
それは、ぽつんと存在しているようだった。生まれた期待が、エネルギーとなって私の足を動かす。その白いものは、縦に長い長方形だった。……あぁ、間違いない。
「やっと――」
「ドロイア!!」
背後から聞こえた私の名。驚きで心臓が飛び出しそうでした。疲労と驚きで、呼吸が苦しい。私は恐る恐る振り返った。すると、遠くの方から此方へ飛んでくるのは。
「……っ、アイシレス様」
私は逃げるように走り出した。正直、もう追いつけないだろうと思っていた。それなのに、姿が見える距離までやって来るなんて。
「ドロイア、止まりたまえ!!」
私を引き留める声をよそに、私は人間界に繋がる扉へ走る。扉は近付くにつれ姿が鮮明になる。過去にアイシレス様と一緒に人間界へ出向いた時に見たのと同じデザイン。精巧で神聖な美しさを伴う扉は、それがあるだけで別世界のように目を奪われそうだ。
「ドロイア!!」
そして遂に、私は扉に触れた。急いで扉のノブを掴んだその時。
――ダンッ。
背後に立った人が、扉に手を着いた。アイシレス様です。私は今、扉とアイシレス様に挟まれている。
「アイシレス、さま……」
「……はぁっ、はぁっ。……ドロイア、君はこれほどまでの距離を走ることが出来るのだな」
頭上から聞こえた声は、私を非難するものでは無かった。てっきり叱られると思っていたため、私は拍子抜けしてしまう。
「……ドロイア、此方を向いてくれないか」
黙っている私に、彼はそう優し気な声で言った。私は戸惑った。もう、この扉のノブを回してしまえば人間界へ行けるのだ。私の願い――ライジアの願いが叶う。けれど私はどうしても背後に立つ、愛する義父の顔が見たくなってしまった。
「アイシレス様……」
私は振り向いた。するとそこに居たのは、困ったように笑みを浮かべるアイシレス様だった。アイシレス様は私と目が合うと、少しの間 目を伏せた。何か言いたげな様子で、乾いた唇を舐めた。
「ドロイア、その……だな。聞きたいことがある。君は……人間になりたいと思っているのか」
その問いに私は頷いた。キュッとアイシレス様の口元が結ばれる。その様子に私の口から謝罪の言葉が漏れる。
「……っ、ごめんなさい、アイシレス様」
私の行動が、彼を悲しませているのは痛いほど分かる。けれど、正直に彼に伝えなければならない。直接、私の想いを伝えなければ。
「アイシレス様、私……どうしても、人間界へ行きたいのです。そして、人間になりたいのです。……私は見てみたい。善と悪、両方の感情を持つ人間が生きる姿を。そして……彼が望んだ世界で……生きてみたいのです」
私は、自分の思いをアイシレス様に伝えた。よく考えてみれば、この想いを直接話したのはヴァロウさんとミラさんの二人だけだった。そう思うと、アイシレス様には申し訳ないことをしたと感じた。それと同時に、伝えられて良かったとも思った。
私の言葉に、アイシレス様は暫く黙っていた。けれど、「そうか」と一言呟いた。そして、頬をかいて私から目を逸らす。
「……参ったな」
ぽろりと溢された言葉。視線を彷徨わせるアイシレス様。その様子を不思議に思い、私は彼の顔を覗き込んだ。
「……アイシレス様?」
私と目が合ってしまい、アイシレス様は罰が悪そうに ふっと笑った。
「……本当は、君を此処で捕えて始末するつもりだった。だが、困ったことに……此処まで辿り着く間に色々と考えていたら、君を始末しようとは思えなくなってしまった」
アイシレス様は腰に提げていた銃を撫でた。しかし、それが手に握られることは無かった。
「ヴァロウに言われたことを思い返していた。君の恋を応援することが、今の君の夢を応援することが義父としてすべきことなのだと言われてね」
「ヴァロウさん……! そうです、アイシレス様、ヴァロウさんは――」
「殺してしまった」
「……っ、え――」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。けれど、アイシレス様の後悔に満ちた表情に、言葉の現実味が増してくる。
「……いや、生死を確認せず此処に来たのだが。間違いなく、銃弾は胸を貫いた。出血量も多かった。私は……君の大切な人だけでなく、自分自身の大切な人さえも手にかけてしまった」
「そんな……っ」
私のことを応援してくれたヴァロウさん。彼が居たから、私は此処まで辿り着けた。そんな彼が、いなくなってしまっただなんて。――ならば、私は一層 夢を叶えなければならない。
私はぎゅっと両の手を握りしめた。
「アイシレス様、私は――堕天します。ライジアや私のためだけではありません。応援してくれたヴァロウさんのためにも。だから――」
止めないでください。
そこまで口にする前に、アイシレス様に抱きしめられた。幼い頃から何度も感じた体温と匂いに包まれる。
「ドロイア」
アイシレス様の声が、耳のすぐそばで聞こえる。その声は、少し震えていた。
「私はとても愚かだ。……ヴァロウを手にかけてから、君の堕天を許したいと思ってしまった」
「……!!」
「彼を手にかけないと、そう思えなかった自分に嫌気がさす。君を許すために、私は犠牲を生みすぎた」
私は首を横に振った。アイシレス様に許してほしいと思いながらも、私はそれが貴方にとって とても難しいことは分かっていた。アイシレス様の主様に対する忠誠心の重さは、幼い頃から何度も聞いたためよく分かる。私の義父は、とても『天使らしい天使』だから。それが私の自慢でもあった。
そんな彼が、私の堕天を許してくれた。私は嬉しいという感情よりも驚きの方が勝ってしまっている。
「良いの、ですか?」
「あぁ、君の好きなようにしたまえ」
「……あの、アイシレス様は大丈夫なのですか」
彼は主天使だ。義娘の堕天を許したことで、罪に問われてしまうのではないか。
「大丈夫……ではないだろうな。君の羽の色を偽り、臣下を殺し、君の堕天を許した。ただでは済まないだろう」
だが。と、アイシレス様は私の頭を撫でた。
「もう全て済んでしまったことだ。君の堕天を止めたところで、もう既に罪を背負っている。今更、一つや二つ増えたところで変わりないさ」
「……ごめんなさい、アイシレス様。有難うございます」
アイシレス様は優しく微笑んでくれた。そして、私から手を離すと人間界へ繋がる扉に目を向けた。
「さぁ、行きたまえ。私が心変わりする前に」
「はい……!」
私は大きく頷き、扉に向き合う。ひとつ深呼吸をして、扉を開いた。
「アイシレス様、お元気で。……大好きです」
振り返らず、私はそう告げた。今、顔を合わせたら別れ難くなってしまうと思ったから。
「私も愛しているよ。愛しい我が義娘……ドロイア」
ぽん、とアイシレス様が私の背を押した。私はその勢いで、人間界へ身を任せた。