2.聖戦
一週間後。遂にこの日がやってきてしまった。聖戦開戦日です。
朝、私はアイシレス様の見送りをするため、玄関に居た。ピュリやソアレさん、メイドさん二人もいる。
「じゃあ、行ってくるよ」
アイシレス様がそう言うと、ピュリがアイシレス様に抱きつく。
「……! どうしたんだい、ピュリ?」
「アイシレス様……、絶対、絶対帰ってきてね?」
ピュリは、ぎゅうぅっとアイシレス様を抱きしめた。アイシレス様はピュリの小さな背中を撫でる。
「大丈夫だよ、ピュリ。言っただろう? 私は対悪魔戦の最前線に立つ能天使の保佐を務めるが、保佐は私の他にもいる。それに、いざという時には、熾天使様たち上級天使様もいる。消えたりしないよ、私は」
そう言って、ピュリの頭を撫でた。ピュリはアイシレス様から離れると、「うんっ」と大きく頷く。
「良い子だ、ピュリ。……さて、そろそろ行くとするよ」
私たちは頷いた。そして、
「「「「「いってらっしゃいませ、アイシレス様!」」」」」
私やピュリ、ソアレさん、メイドさんの皆でそう言った。「あぁ、行ってくる」
アイシレス様はそう言って、屋敷を後にした。
アイシレス様を見送ったあと、私は洗濯物を干していた。すると、遠くの方から鐘の鳴る音が聞こえた。
「……始まってしまったのですね」
私はそう呟いた。するとその時、
「ドロイア様! また家事をなさっているのですか!? 家事は我々使用人の仕事ですっ」
いつも私の家事を阻止するミラさんが駆けてきた。
「おや……見つかってしまいましたね」
私は、くすっと笑う。
アイシレス様、ライジア。どうか……ご無事で。私は聖戦の勝敗なんて興味ありません。ただただ、二人が無事に帰ってきてくれることだけを祈ります。
その日の夕方、鐘が鳴ったのを耳にした私は その一時間後、狭間の世界に向かった。いつもより遅い外出にミラさんが心配そうな表情を浮かべたが、「すぐ戻りますから!」と言って屋敷を飛び出してきた。街と森を抜け、狭間の世界へ。約束の場所に、ライジアはいた。
「ライジア……!」
私は急いで彼に駆け寄る。彼は私を見ると、ぱぁっと笑顔になって「ドロイア!」と私の名を呼んだ。
「お待たせしてすみません、無事で安心しました」
「有難う。さ、いつものようにお茶しようか」
ライジアはそう言って、カフェを指差す。
「そういえば……聖戦が始まったのに、この辺りは昨日と変化がありませんね。どうしてでしょう」
「この区域は聖戦の戦場から除外されているからね。もしこの場所も戦場に含まれていたら、聖戦後にドロイアと会うのは諦めようと思っていたんだ」
それを聞いて、私は安堵の息をつく。……心配していたんです。もし狭間の世界が昨日と違う景色になっていたら、と。流石にこの村の方々も聖戦が始まったことを知っているのか、少し空気がピリピリしているように思う。しかし、私たちを警戒している様子はうかがえなかった。
「……悲惨、だったよ」
カフェに入り、お互いの飲み物が届いたあと。ライジアは、ぽつりと呟いた。
「俺は研究員だから、まだ良かったけれど……。天使と悪魔が何人も消失した。この村は大丈夫だったけれど、他の村が戦場内に入っていたために全滅していた。俺はそれを、見ていることしかできなかった……!」
ライジアは項垂れた。こんなライジアを見るのは初めてで、私はどう声を掛けたらいいのか分からない。
「いつか、いつか俺は、この世界を救えたらって……。この世界で生きる皆が、天使にも悪魔にも受け入れてもらえる、そんな日を願っていたのに……!」
そこまで言うと、ライジアは目元を手で覆った。肩が震えている。……ライジアが、泣いている。
「ライジア……」
私は、そう彼の名を呼ぶことしかできなかった。
聖戦が始まってから数日が経った。ライジアとは毎日会う事が出来ている。初日は あのような姿を見せた彼だが、今は悪魔軍として戦う決心をし、頑張っているらしい。
「今日は天使軍と戦闘になっちゃってさ。大怪我は避けられたけど……」
カフェで話していると、ライジアが己の腕に巻かれた包帯を指差した。
「普段は研究ばっかりで戦闘慣れしていないからね。気を付けないと」
「痛そうです……。私が言える立場ではないですが、気を付けてくださいね。酷い傷は後に応えますよ」
私はただの天使なので、聖戦に対して出来ることは何もない。だからせめて……毎日こうやって彼に会って、お話をして、彼の支えになれたらと思う。アイシレス様もこう言っていた。『聖戦から帰ってきて、我が義娘たちの顔を見られるだけで……私は元気になるのだよ』と。
でも、やはりこれではいつも通りだ。彼と会ってお話しすることは、聖戦以前から行っていること。何か、特別なことをしてあげられたら良いのですが……。
翌日、午後一時。昼食後、私はキッチンへ出向いた。キッチンには、洗い物をするミラさんの姿が。
「ミラさん」
「あら、ドロイア様。どうかなさいましたか? 洗い物なら、もう終わりますよ」
いつものように、家事を手伝いに来たと思われているみたいです。ですが、今日は違います。
「いえ、洗い物では無くて……ミラさんにお手伝いして欲しいことがあるのです」
「はい、何でしょうか。ドロイア様の御望みのままに」
ミラさんは最後の食器の泡を洗い流し、食器籠に立てかける。濡れた手を拭き、私と向き合った。
「ミラさんに、クッキーの作り方を教わりたいのです」
私のお願いに、ミラさんは目をぱちくりさせた。
「……そんなに驚きますか?」
「いえ……まぁ、予想外のことでしたので。急にどうされたのですか?」
そう問われ、「えっと……」と昨日から考えていたことを話す。
「いつもお世話になっている方が、今とても忙しそうにしているので……何かしてあげられたらと思ったんです。それで、疲れている時には甘いものが良いとよく聞くので、お菓子を作ってプレゼントしようかと思ったのですが……お菓子作りをあまりしたことが無いので」
ミラさんは「成程」と頷いた。
「その相手様は、アイシレス様ですか?」
「えっ、いや、アイシレス様では……」
そこまで言って、ハッとする。……駄目です、ライジアと会っていることは天界の方には秘密にしないと! 悪魔と会っているなんて知られたら、すぐにアイシレス様に伝わって、叱られてしまいます。
「えっと、そうです、アイシレス様です! アイシレス様にプレゼントしたいんです!」
ミラさんは一瞬 不思議そうに眉を寄せたが、すぐに「そうでしたか」と微笑む。
「でしたら、早速取り掛かりましょう。今から作れば、夕方には完成しますよ」
「本当ですか! 宜しくお願いします……!」
夕方に間に合うならば、出来立てをライジアに食べてもらえる。毎日聖戦で頑張っている彼に、美味しいクッキーを食べてもらいたい。
こうして、私のクッキー作りは始まったのだった。
クッキー作りは順調に進んでいた。ミラさんがとても丁寧に教えてくれたので、次は一人で作れそうです。
「あとはオーブンで焼くだけです。美味しく出来そうですね、ドロイア様」
クッキーを並べた天板をオーブンに入れ、一旦休憩です。
「ミラさん、有難うございました。流石、私たちの食事をいつも作ってくれるだけあって、手際がとても良くて……私もそんな風に作れるようになりたいです」
「ふふ、有難うございます。特に……おやつ作りは私の担当ですからね。クッキーは勿論、ケーキなども慣れていますよ」
「ケーキ! 難しそうですね……。でも、作ってみたいです。また今度、ケーキの作り方を教えてくださりませんか?」
私がそう尋ねれば、ミラさんは「勿論です」と言ってくれた。
「ドロイア様、焼きあがりましたよ」
ニ十分後、クッキーが焼きあがった。オーブンを開けると、甘い香りがキッチンに広がる。
「少し冷ましてから食べましょうか」
「はい! とても楽しみです」
天板に並んだクッキーは、どれも美味しそうに焼けていた。これなら、ライジアも喜んでくれるでしょう……!
クッキーを冷やすため、ミラさんとケーキクーラーにクキーを並べていく。すると、
「お、美味そうじゃん。一個もらうぜ」
すっと手が伸び、焼き立てのクッキーが一枚取られてしまった。驚いて振り向けば、そこに居たのは……。
「よっ、ドロイアちゃん、ミラ」
「ヴァロウさん……!」
なんと、アイシレス様の臣下の一人、ヴァロウさんだった。黒のメッシュが入った、薄紫のふわふわとした髪。長い睫毛と、色っぽい下睫毛。琥珀のような金の瞳で、私とミラさんを見つめていた。
「ちょっとヴァロウ! 勝手に入ってきてつまみ食いだなんて!」
いつも冷静なミラさんが、珍しく声を上げる。その様子を見て、ヴァロウさんは ははっと笑う。
「そう怒るなってミラ。このクッキー、めちゃくちゃ美味いぜ。ドロイアちゃんに教えてあげてたのか?」
「そうよ。ドロイア様がアイシレス様にプレゼントするために作ったクッキーなのに、一番関係ない貴方が最初に食べるだなんて……」
「良いのですよ、ミラさん。いっぱい焼きましたし! それに、分かっていたことではありますが……美味しいと言っていただけて嬉しいです」
ヴァロウさんは「おう、めっちゃ美味い」とまたクッキーに手を伸ばそうとした。すると、その手をミラさんが叩く。
「いてっ」
「もう! 余ったら貴方にもあげるから、少し待ちなさい」
「はーい」
二人のやり取りに私は思わず、くすっと笑ってしまう。ヴァロウさんとミラさんは、幼馴染だそうです。詳しい話はまだ聞いたことがありませんが、かなり仲が良いことは見て取れます。
「ドロイア様。このナルシストが食べてしまう前に、必要な分だけラッピングしてしまいましょうか」
「おいおいミラ、俺はナルシストじゃないぞ。マジでイケメンなんだ。自意識過剰じゃあないぜ」
「そういうところがナルシストって言うのよ!」
ヴァロウさんといる時のミラさんは、なかなかツンツンしている。けれど、これが『嫌悪』ではないことぐらい私にも分かります。そうです、ミラさんは『ツンデレ』なのです。
賑やかになったキッチンで、私はライジアとアイシレス様の分のラッピングをする。ライジアは、赤と白のチェックの袋に赤いリボン。アイシレス様は、青と白のチェックに青いリボンのラッピングです。
「お二つですか? アイシレス様と何方なのか聞いても宜しいでしょうか」
ミラさんの問いに、私は「えっと」と言葉を詰まらせる。すると、ミラさんはもう分かっていたのかこう言った。
「一年ほど前から、毎日お会いする方……ですか?」
「……! は、はい。そうです」
「ふふ……っ、やはりそうでしたか。本命も、アイシレス様では無くて、そちらの方なのでしょう?」
「……っ!」
ミラさんは私の表情を見て、満足げな表情を浮かべる。
「一体、何百年ドロイア様のメイドを務めていると思っているのですか? それくらい分かりますよ」
「うっ、な、なら、なんで詳しく聞かないんですか……?」
そこまで分かっているなら、どうして彼のことを聞こうとしないのだろう。私は自分で思っているよりも、上手く隠し事ができていないみたいです。
「どうしてって……」
ミラさんは困ったような表情を浮かべる。
「だってドロイア様が、頑張って隠そうとしているのが伝わってきますから……あまり詳しく聞かないようにしていたんです」
「……!!」
……ほら、やっぱりミラさんはしっかり勘付いていたんです! 上手く隠せていると思っていた自分が恥ずかしい。
「大丈夫ですよ。ドロイア様がお話ししたいと思えるようになったら、詳しく教えてください。無理してまで話してくれとは言いませんよ」
「ミラさん……」
……ああ、私のメイドさんはなんて優しい方なのでしょう。ミラさんのような方が私のメイドで本当に良かった。
「……もしもーし、俺のこと忘れてない?」
「忘れようとしていたのよ」
「った~く、ミラってばそうやって俺をいじめる~」
「ドロイア様とのガールズトーク中だったのよ? 男の貴方は引っ込んでなさい」
しっしっと追い払うように手を動かすミラさん。私は「だ、大丈夫ですよ! もうガールズトークは終わりましたから!」とヴァロウさんを宥めた。
「ははっ、ドロイアちゃん優しいのな。流石、アイシレスの義娘だ」
「そういえば、ヴァロウ。貴方、どうして屋敷にいるのよ。今は聖戦中でしょう?」
ミラさんの問いに、そういえばそうだと私も思った。ヴァロウさんはアイシレス様の臣下だ。アイシレス様は今日も聖戦に出ているのだから、ヴァロウさんも臣下としてアイシレス様の傍にいるはずなのに……。
「あー、俺な、今日 非番なんだよ」
「ですが、アイシレス様は聖戦に行かれましたよ……?」
私がそう聞くと、「おう、アイシレスは今日も仕事だからな」と頷く。
「だが、アイシレスの今日の仕事は、熾天使・セラン様と狭間の世界の偵察なんだ。戦場区域の状況を確認するために、今日は上級天使のトップであるセラン様と、中級天使のトップであるアイシレスが組んでの仕事らしいぜ」
熾天使・セラン様。上級天使第一位の階級であるセラン様は、天使の中で最も主様に近い存在と言われています。威厳と名誉に満ちた天使で、全ての天使の憧れの存在です。
ヴァロウさんは「だから今日、俺は休みってわけだ」と、余っているクッキーを食べた。ミラさんがその様子を睨む。
「アイシレス一人で偵察だったら間違いなく同行したが、セラン様が一緒なら俺はむしろ足手まといなくらいだからな。あのひとは、本当に凄い天使だ。勿論、あの人の魔力は主様に近いものを感じるしな」
セラン様は炎の魔法を使う天使様で、伝説の魔法とされている『七色の炎』を自在に操るすごいお方なのです。階級が高いだけあって、私たちのような下級天使は殆ど姿を見たことがありません。アイシレス様も「上級天使様……特にセラン様は滅多に会わないな。あの方が近くにいれば、主様への愛と情熱で温かさが伝わってくる」と言っていました。熾天使様は『主様への愛と情熱で身体が燃えている』と言われている。アイシレス様は「それは勿論比喩だが、膨大な炎の魔力でセラン様の周りの温度が高いのは事実だ」と言っていたので、実は比喩ではないのかもしれません。
「ヴァロウさんは、何度かセラン様と会ったことはあるのですか?」
ヴァロウさんはアイシレス様の臣下だが、私と同じ下級天使第三位の天使である。やはり、本部の天使であるヴァロウさんならよく見かける方なのだろうか。
「ん? まぁ……アイシレスの臣下になってからは会う回数は減ったが、昔は毎日のように会ってたぞ」
「ヴァロウはアイシレス様の臣下になる前に、セラン様の臣下を務めていたのですよ」
ミラさんの補足に、私は「えぇっ!?」と声を上げる。
「あれっ、言ってなかったっけ」
「はい。まぁ……熾天使様に関する話をあまりすることがなかったので、知りませんでした」
ということは、ヴァロウさんは私が思っている以上に凄い天使だということです。熾天使様の臣下だなんて、そう易々となれるものではないでしょうに。
「何だったかしら、セラン様にクビを言い渡されたのだっらかしら?」
「ち~が~い~ま~す~! 主様から直々に『アイシレスの臣下になって欲しい。彼にはお前のような存在が必要だ』って言われたんです~」
……主様から直々にですか!?
私たち天使にとって父親のような存在である主様ですが、実は私は一度しか会ったことが無いのです。主様と面会できるのは階級の高い天使と言われていて、主様からのお言葉は上級天使や中級天使を介して伝えられるものなのです。それなのに、ヴァロウさんは直々に主様に言われただなんて……!
「ヴァロウさん、ごめんなさい……。私、ヴァロウさんのこと、正直みくびってました……てっきり、陽キャの代表みたいな方だと……」
「ドロイアちゃん?? ミラの悪口うつってない??」
「ドロイア様の言う通りよ。この陽キャ代表ナルシスト」
「進化したな!?」
クッキーはいつの間にか、すっかり冷えていた。ライジアとの約束の時間までまだ時間があるので、私たちはピュリやエイスさんも誘ってお茶にすることにした。誘った二人にもクッキーは好評で、余りの分もあっという間になくなってしまいました。
そして夕方。私はラッピングされたクッキーを持って、ライジアとの待ち合わせ場所に向かった。今日もライジアの方が先に待っていて、彼は私に気が付くと手を振ってくれた。
二人でカフェに入り、いつもと同じ席に座る。此処はたいてい空いている席で、恐らく私たちがいつも座ることを皆知っていて空けているのだろう。
「いらっしゃい、お二人さん」
注文を取りに来たカフェのマスターである天使のおじさまも、私とライジアがいつも同じものを頼むので「いつもので良いかい?」と尋ねる。それに私たちは「はい、それで」と答える。
天使や悪魔にとって、一年という期間は一瞬です。けれど、こうやって常連客だと思われるくらい重ねられた時間でもあります。関係を紡ぐのに、一年は十分な期間です。
マスターが『いつもの』を持ってきた。私はココア、ライジアはブラックコーヒー。お互い飲み物が届いたところで、私は持ってきたクッキーを机上に置いた。
「ライジア、これ……受け取ってください。クッキーを焼いたんです」
ライジアは差し出されたクッキーを酷く驚いた様子で見つめていた。
「えっ、ほんと? ドロイアの手作り?」
「はい。といっても、メイドさんに教えてもらいながら作ったのですが……」
「いや、それでもドロイアが作ったのには違いないよ。……食べていいかい?」
私が こくんと頷けば、ライジアは嬉々とした様子でラッピングのリボンを解いた。そして、クッキーを一枚つまんで口に含む。
「ん!」
「ど、どうでしょうか……?」
恐る恐る問う私に、ライジアは こくこくと大きく頷く。
「すごく美味しい! 甘さも丁度良くて、いくらでも食べられそうだよ」
「ほんとですか! 良かった……!」
とても美味しそうに食べてくれるライジアの姿に、私の頬が緩む。……嗚呼、本当に嬉しいです。貴方に一番食べて欲しかったから。貴方に喜んで欲しかったから……。
「ほんとに初めて作ったの? そうとは思えないくらい美味しいよ」
「そんな、褒めすぎですよ……!」
「いやいや、そんなことないって。……となれば、俺もとびっきりのお返しを用意しなきゃね」
ライジアのその言葉に、私は首を横に振った。
「いえ、これは私からのお返しなんです。だから、お返しはいりませんよ」
「ドロイアからのお返し? 俺、何か君にプレゼントしたっけ……?」
首を傾げるライジアに、私は思いを打ち明ける。
「いっぱい貰いましたよ。ライジアは無知な私に沢山のことを教えてくれて、天使の私にとても親切にしてくれて……。そして今は、聖戦で一生懸命戦っています。私、そんなライジアに元気になってほしくて……」
やはり、こうやって言葉にするのは照れくさいですね。でも、大事な機会です。今まで思っていたこと、ちゃんと話したいです。
「聖戦が始まってから、ライジアは毎日どこか疲れているように見えて……。それなのにこうやって私と会う時間を設けてくれて、私、ライジアに優しくしてもらってばかりだなぁって思ったんです。だから、私がライジアにしてあげられることは何かなって思って……」
それで、クッキーを焼いたんです。そう話せば、ライジアは「もう……」と嬉しそうに眉を下げる。
「もう、ドロイアってば良い子過ぎだよ。俺はただ、純粋に君と会って喋りたくて……君が思っているほど、俺は立派な男じゃないよ」
「そんなことないですよ! 私、本当にライジアに感謝していて……、……っ!」
ライジアが私の言葉を遮るかのように、私の手を握った。真っすぐな紅の瞳に見つめられ、私は彼から目が離せない。
「ライジア……?」
「……何でなんだろうね。もし俺が人間だったら、すぐに君に想いを伝えて、君を俺のものにしようとするのに」
「……っ!!」
突然のその言葉に、私の頬が熱を帯びる。
「実はね、今日は聖戦に出ていないんだ。その代わり、人間界に行った。人間界に住んでいる同じ研究員の悪魔から、頼んでいた研究結果を貰うためにね。その時、彼と話したんだ。『人間界は、善も悪も蔓延る世界だ。きっと、天使も悪魔も自分の世界よりも此処の方が過ごしやすい』ってね」
ライジアは視線を繋いだ手に向けた。そして、私の手を優しく撫でる。
「天使は『善』、悪魔は『悪』の思考を持つと言われている。確かにそれは正しい。けれど、百パーセントではない。天使だって誰かを憎いと思ったりするし、悪魔だって誰かを助けようと思ったりする。感情に善悪があるのだから、感情を持つ者には善悪があるということ。天使と悪魔は、その『善』と『悪』の配分が善よりか悪よりかで分類されている。だから、俺たちは種族が違う。でも、俺たちは同じもので構成されている」
ライジアは私と手を繋ぎなおした。私の手が、ライジアの手に包まれている。
「起源に戻れば、悪魔も主様から生み出されたものだ。主様は対となるものを最初に生み出した。天と地、大地と海、太陽と月、そして……天使と悪魔。けれど、これらは全て主様が作った世界に共存している。悪魔を生み出したのだから、魔界を生み出したのも主様だ。主様の手の中に全て存在している。天使も悪魔も、みんな主様によって生み出された。それはつまり、天使も悪魔もみんな家族だということさ。けれど、天使と悪魔だけは共存を拒否しているように思う。それが聖戦だ。天使と悪魔はどちらも存在すべきものであるのに、心のどこかでは一方を排除したいと思っているひともいる」
その言葉に、アイシレス様の顔が浮かんだ。アイシレス様は能天使様の言葉に納得していなかった。『悪魔を滅ぼしてはいけない』ということに疑問を抱いていた。
「俺たちは共存すべき存在なんだ。確かに、悪魔はだいたいムカつく奴だし、天使の癪に障るのもよく分かるよ。でも、皆がみんなそうではない。俺やドロイアのように、そしてこの世界……狭間の世界のひとたちのように、お互いの存在を理解して仲良くなることだってできるんだ。だが、それを世界が許してくれない」
ライジアはそこまで言うと、ハッとした表情を浮かべる。そして「ごめん、ちょっと飛躍しすぎたね」と謝った。私は「構いませんよ」と告げる。
「えっと……何が言いたいかっていうと、人間界は善と悪の両方が存在する。人間は善と悪の比率が等しい存在だ。だが、皆がみんな等しくはない。少し善の割合が大きい人もいれば、その逆もある。でも、共存しているんだ。俺は……それが羨ましくて仕方ない。俺も人間界で生きたい。出来ることなら、君と一緒に。この世界……狭間の世界は、上と下の世界に潰されてしまいそうだから。……でも」
ライジアは私の手を離した。触れていた温もりが離れ、何だか寒く感じた。
「でも、それは出来ない。俺も君も、お互いの世界に捨てられない存在がある。だから、俺は願ってしまうんだ。この狭間の世界で、天使と悪魔が共存できれば良いなと。天界も魔界も、ちゃんとそれを認めてくれたら良いな……ってね」
ライジアは「うーん」と頬をかく。「上手くまとめられなかった。長々とごめんね」と謝ったが、彼の言った言葉は私の望みでもある。誰にも否定されない、彼と幸せに過ごせる世界を私も望んでいる。それに近い世界が、人間界であることも何となく分かる。
「……で、こんな話の後に言うのはムードが無いってことぐらい俺にも分かるけど……良いかな」
「はい、言ってください」
「うん。……えっと、ね」
ライジアは頬を赤らめて、こう言った。
「俺は、ドロイアのことが好きだ。勿論……男として」
「……! はい、私もです。私も……ライジアが好きです」
彼の言葉が嬉しくて、私も自分の気持ちに正直になった。きっと、私の顔は今 林檎のように真っ赤だろう。でも、彼も一緒です。
「……ふふ、嬉しいよ。いや、きっと君もそう言ってくれるだろうなとは思ってたけど、やっぱり何処か不安だった」
「私も同じです。嫌われてはいないのは分かってました。でも、ここまで踏み入れて良いのかは自信が無かったです」
お互いが同じように考え、疑い、想っていたことが嬉しい。私たちは、自身が思っている以上に繋がっていた。いや、分かっていながら、不安で目を向けられなかったのかもしれない。……ともあれ。
「有難う、ドロイア。俺、すごく幸せだ」
「ふふ……っ、私もです」
彼が何を言っても「私もです」と答えてしまう。でも、仕方ないのです。私たちの想いは、繋がっているのですから。
▽
同時刻、狭間の世界。
「そろそろ切り上げるか、アイシレス」
私の隣に立つ天使――熾天使・セラン様がそう言って、私の肩を叩いた。私は手にしていた書類から視線を上げ、セラン様を見る。
「……ですが、まだ全て確認しきれていませんよ」
今日は聖戦に参加せず、セラン様と狭間の世界の偵察に来ている。詳しい内容としては、戦場区域の確認だ。聖戦では区域外での戦闘は基本行われないが、相手は悪魔だ。いつその規定を破っても可笑しくない。そのため、このように天使が実際に戦場を見回り、区域外での悪魔の動きが無いかを調べているのだ。
今日は朝から、セラン様と二人で仕事を進めていたのだが、あと数か所を残してセラン様が私の手を止めた。
「あと数か所ですし、セラン様はもう天界へお戻りください。残りは私が済ませておきます」
「いや、私だけ仕事をあがるなど不公平だ。残りは明日、別の仕事と一緒に片付ければ良い」
セラン様はとても優しい方だ。最上の階級の天使ということもあって、誰よりも他人想いの素晴らしいお方である。私に無理せず休んで欲しいという想いで、仕事を切り上げようと仰ったのだろう。しかし……
「セラン様。お気遣い感謝いたしますが、やはり私としては今日中に片付けてしまいたいのです。それに、残りの区画はそれほど大きくありません。わざわざセラン様が出向くほどでもありませんから……。お願いします、私にお任せください」
私の確固たる言葉にセラン様は「そうか」と苦笑する。
「君は本当に真面目な天使だ。真面目過ぎるほどにな。そこまで言われてしまえば、私に止める権利などあるまい」
セラン様は「夕食の時間には遅れるんじゃあないぞ。君の義娘たちが心配するからな。……では、また明日」と言葉を添え、軽く手を振ると天界へと帰って行った。
セラン様を見送った後、私は再び書類に向き直る。残りは……三か所。此処から近い位置にあるため、恐らくすぐに片付くだろう。私は顔を上げると、任務を続行した。
狭間の世界、Ф地区。聖戦区域外の村ということもあり、戦闘によるものであろう損傷などは見受けられない。邪気の濃度もそれほど高くないため、この村で悪魔軍が動いている可能性はほぼゼロだろう。
必要事項を記入し、私は次の村に向かうことにした。この仕事は極力、狭間の世界の者との接触を避けなければならない。今は聖戦中であるため、この世界の者たちは天使や悪魔に良い印象を抱いていない(もっとも、悪魔に対しては最初から良い印象など抱くはずもないが)。接触することでこの世界の民を刺激してしまうことを防がなければならないのだ。まぁ、私の場合……この世界の民を見かけると、思わず腰に提げている銃に手が伸びてしまうからな。私に会わない方が、彼らにとって身のためだろう。
しかし今は、今日の聖戦終了の鐘が鳴った後。この世界の者の行動も聖戦中に比べて活発になる。そのため、嫌でも彼らを見かけてしまうのだ。
「……カフェ、のようだな」
建物らしきものはキッチンしか見受けられないが、その周りにパラソルがついたテーブルと椅子が沢山ある。この世界の民が何人かお茶していた。羽の黒い天使と、羽の白い悪魔。……嗚呼、見苦しい。早々と村を出ようとした矢先、私の目に とある二人の天使と悪魔の姿が目に留まった。二人はこの世界の者では無かった。白い羽根の天使と、黒い羽根の悪魔。悪魔の方は見覚えが無い。黒髪で黒衣のようなものを羽織っている。……だが、天使の方は見覚えがある。いや、『覚えがある』などという次元ではない。
「……、ドロイア」
その天使は、私の義娘・ドロイアだ。
彼女は悪魔に小さな包みを渡した。悪魔がそれを開けると、中から何かを取り出し口に入れた。食べ物……お菓子だろうか。そして二人は言葉を交わす。二人とも、とても幸せそうな表情を浮かべていた。
二人が何を話しているかまでは分からない。だが、二人は手を繋ぎ少し頬を赤らめている。それだけで、二人の関係性が見えてくる。
……嗚呼、何ということだ。
私は呆然とその様子を見つめていた。そして、次第に湧き上がってくるのは悪魔のような感情。私は天使なのに。いや、しかし、この感情は避けられまい。
「成程な、ドロイア。……何故なのだ、と思っていたのだ」
私は腰に提がる銃に触れた。だが、それを撫でるだけで手には取らない。……今は駄目だ。彼女が気の毒だ。
だが、いずれ必ず――
「殺さなければ、な」
▽
ライジアと別れ、狭間の世界から天界へ戻り、夕食後の事。私――ドロイアは、アイシレス様に渡すクッキーを持って、彼の部屋を訪れた。
ドアをノックすれば、「入りたまえ」と声が返ってきた。扉を開けると、部屋のソファーに座るアイシレス様と その横にはピュリの姿もあった。
「やぁ、ドロイア。君も遊びに来てくれたのかい?」
「えっと……渡したいものがあって来たんです」
アイシレス様は「渡したいもの?」と首を傾げ、事情を知っているピュリはニコニコしながらその様子を見ている。私はアイシレス様の前に立つと、青と白のチェックの包みを差し出した。
「今日、クッキーを焼いたんです。受け取ってください」
「ドロイアの手作りか。成る程……、有難う」
アイシレス様はクッキーを受け取ると、早速リボンを解いた。
「ピュリもおやつに食べたけどね、とっても美味しかったのよ!」
「そうかそうか……それは楽しみだ。頂きます」
クッキーを口に含んだアイシレス様を じっと見つめる。「ん……!」と彼の口角が上がった。
「とても美味しいぞ、ドロイア」
「本当ですか! 良かったです……」
美味しそうにもう一枚を手に取る義父の様子を見て、私は ほっと息をついた。
「ドロイアが一人で作ったのかい?」
「いえ、初めてだったので……ミラさんに手伝ってもらいました」
「成る程。ちなみに……作った意図を聞いても良いかい? 誰かの為に作ったのか?」
アイシレス様のその言葉に、私は息詰まる。『誰かの為に作ったのか?』 ……はい、そうです。ライジアの為に――なんて、言えない。相手がアイシレス様だならば、尚更だ。
「えっと……アイシレス様のために作ったんです! アイシレス様、最近 聖戦でお忙しそうですから……甘いものは疲労に効くと言いますし……」
私がそう答えると、彼は「そうかそうか」と手元のクッキーを見た。それとも、目を伏せたのだろうか。
「それは嬉しいことだ、有難う」
アイシレス様はまた一枚、クッキーを口に入れた。そして、ソファーの自分の右隣を ぽんぽんと叩いた。ちょうど一人分空いている。私はそこに腰掛けた。
すると、アイシレス様の手が私の羽に触れた。優しく撫でられ、私はそれが気持ちよくて思わず目を閉じる。
「アイシレス様」
「なんだい、ドロイア」
「アイシレス様はよく、私の羽を撫でてくださりますよね? 何か意味はあるのですか?」
以前から思っていた素朴な疑問を私は口にした。すると彼は「そうだな……」と言葉を詰まらせる。
「特に意味は無いのですか?」
「ん……、まぁ、私が撫でたいと思ったから撫でている。気に障っていたなら、すまなかった」
謝ってしまったアイシレス様に、私は「いえ、そんな……!」と声を上げる。そういう意味では無かったのに。
「此方こそ、ごめんなさい。気に障ってなんかいません、寧ろ……好きなので、ちょっと気になってしまったんです」
私がそう答えれば、アイシレス様は安心したように頬を緩めた。
「そうか、好きか……。なら、もう少し」
彼はそう言って、また私の羽を撫でた。するとアイシレス様の左隣に座っていたピュリが「ずるいずるい!」と声を上げる。
「アイシレス様、それ、ピュリにもやって欲しいの!」
「ふふ……、分かった分かった」
アイシレス様は二人の義娘の羽を撫でる。優しい手つきで、何度も……。
「そういえば……ピュリとアイシレス様は何をなさっていたのですか?」
羽から手が離れた頃に、私はそう問うた。するとピュリが、「あのねあのね!」と身を乗り出して話しだす。
「ピュリね、悪魔のにおいが分かるようになったのよ!」
……悪魔のにおい?
「私が聖戦で使用した武器の手入れをしていた時に、ピュリが部屋に来てね。ピュリが部屋に入って早々、『へんなにおいがするの!』と言ったのだよ」
ピュリはそのにおいを思い出すかのように、目を閉じて鼻をヒクヒクさせる。
「あのね……なんかね、『ふんッ』ってなる感じなの」
「……え?」
私はライジアといる時のことを思い出す。しかし、そのようなにおいがした覚えが無い。私が頭に『?』を浮かべていると、アイシレス様は「まぁ……」と口を開く。
「分からなくても仕方ないさ。そのにおいはよっぽど嗅覚が優れていなければ、分からないようなものなのだよ」
私は何度もにおっているし、激しい戦いの後はそのにおいが立ち込めているため、悪魔のにおいだと認知できるのだが……。と、アイシレス様はピュリの方を見た。
「ピュリは嗅覚が優れているようだな。それとも、邪気を感じることが出来るのだろうか。いずれにせよ、凄いことだぞ」
アイシレス様に褒められたピュリは「えっへん!」と胸を張ってみせる。
「ドロイア、悪魔のにおいはね……『硫黄』のにおいなのよ! アイシレス様に教えてもらったの!」
「硫黄……ですか」
「あまりピンとこないだろう。天界に硫黄は殆ど存在しないからね。人間界でも、あまり嗅ぐ機会のないにおいだ。そうだな……よく、『卵が腐ったようなにおい』と表現される。臭いのだよ」
「なら、私……においたくないかもです」
だって……ライジアからそんなにおいがするだなんて、信じたくありませんから。
「まぁ、ピュリは例外的に認知できるようだが、もしドロイアが悪魔に会っても……恐らく、分からないだろうから大丈夫さ」
「えぇーッ、アイシレス様、そうなると『ピュリは凄い』のに、全然 得してないのよ!」
「ん? そんなことはないさ。もし狭間の世界や人間界で悪魔に遭遇しても、硫黄のにおいで遭遇する前に逃げることができるぞ」
するとピュリは「でもピュリ、その二つの世界に行くことが無いのよ?」とアイシレス様に詰め寄る。
「……ははっ、困った。これ以上、何も言えないな」
「もうっ!」
二人のやりとりを見て、私は思わず笑ってしまう。そんな私のことを見て、二人も笑っていた。
▽
翌日、私――アイシレスは聖戦に向かう前に、天界参謀本部にある病棟にいた。壁も床も、何もかもが白い廊下を熾天使・セラン様と歩く。
「……セラン様」
「分かっているさ。君が言いたいことは」
先ほど、私たちはとある病室にお見舞いに行っていた。見舞いの相手は、能天使。聖戦で最前線に立つ役目を持つ、能天使だ。
昨晩。能天使が急に体調を崩し、病棟に運ばれたそうだ。原因は、昨日の聖戦中に悪魔から受けた攻撃だ。悪魔の兵が放った矢が、能天使の羽に突き刺さったらしい。その場ですぐに抜いたものの、その矢には毒が含まれていたらしく、その症状が晩に現れたのだという。どうやら時間差で効果が現れる毒だったらしく、能天使は聖戦後の夕方も元気そうにしていたため誰も心配していなかったのだ。
先ほど見舞いに行った時、能天使は眠っていた。治療担当の天使に話を聞けば、病棟に駆け込んで来た時、彼は「まるで羽を裂かれるような痛みだ」と言ったそうだ。治療が始まった頃には、安心したのか能天使は気を失ってしまったらしい。それから治療後の今も目を覚ましていないらしく、心配である。
セラン様と私は眠る彼の様子を見て、担当医から話を聞き、今に至る。
「アイシレス。君が心配しているのは『これから誰が最前線で指揮していくのか』ということだな」
セラン様は、主様のように何でもお見通しである。私は こくりと頷いた。
「確かに、困った問題ではある。聖戦真っ只中、天使軍の長が戦闘不能であることは軍に属する天使たちを不安にさせてしまうからな。だが、彼は堕天していない。それが唯一の救いだ」
確かに、それは私も思ったことだ。もし彼が堕天してしまっていたら、天使軍に混乱を招き、悪魔軍に戦力を与えてしまうところだった。幸いにも彼はまだ天使だ。傷が癒えたら、また能天使として私たちを率いてくれるだろう。
「とりあえず、キュリアムに話を聞こう。昨晩の彼の治療後から、ずっと仕事をしてくれている」
キュリアム。それは、上級天使第二位・智天使様の名前である。天使の中で最も『知識に満ちた』方と言われており、七つある天界の一つ、第四天・マコノムにある『エデンの園』の管理をしている。その一方、彼は治療の魔法に長けているため、天界本部の医療部の長も務めており、特に負傷が増える聖戦中はとても忙しそうにしていた。彼自身はとても温厚で優しさに満ちた方で、争いを苦手としているため聖戦には直接参加していない。
「キュリアム様、聖戦が始まってからお休みを取られていますか? よく本部で見かけるようになったので、休まれているか心配です」
私がそう話すと、セラン様は眉を下げる。
「なかなか休めていないようだ。屋敷でも持ち帰った仕事をしているため、最近は私とアフェローンで家事をしているよ」
アフェローンというのは、上級天使第三位・座天使様の名前だ。上級天使様三人は幼馴染らしく、同じ屋敷で住んでいるらしい。その三人の中でキュリアム様が母親的存在で、セラン様やアフェローン様の昼食はキュリアム様の手作りお弁当であるときが多いそうだ。それくらい三人は仲が良い。
「私としても、キュリアムには休んで欲しいさ。しかし、天界が今 必要としているのは彼の知識だ。彼には申し訳ないが、聖戦が終わるまでは頑張ってもらうよ。恐らく彼自身もよく分かっているはずさ」
そのように話していると、私たちは病棟にあるキュリアム様の部屋の前に到着した。
「とにかく、能天使の回復の見通しを聞いた後、能天使復帰までの方針を考えようじゃあないか」
セラン様はそう告げると、扉を開いた。
部屋に入ると、デスクで書類に目を通しているキュリアム様がいた。
「すまない。邪魔するぞ、キュリアム」
「セランでしたか。おや、アイシレスも。よく来てくれましたね」
多忙の身であるというのに、キュリアム様は私達を歓迎してくれた。
「紅茶でも淹れましょうか。まだ聖戦開始まで時間があるでしょう? 私も早朝からこの調子でしたから、休みを取りたいと思っていたところだったのです」
私とセラン様は二人掛けソファーに通され、キュリアム様は紅茶の準備をしてくれる。
「なぁキュリアム、能天使のことを聞いても良いか」
セラン様の問いに、彼は「えぇ、構いませんよ」と微笑んでくれた。そして、表情を真面目なものに戻して話す。
「そうですね……彼が目覚め次第、復帰の目途がつくかと思います。カルテを見る分には、昨晩の治療で邪気は殆ど取り除けたと言えるでしょう。ただ……」
「ただ?」 私はキュリアム様からカップを受け取り、そう問うた。キュリアム様は向かいのソファーに座り、口を開く。
「一度、天使が邪気に苛まれてしまうと、耐性が急激に低下します。ですので、彼が堕天する恐れが今一層高まってしまうのは確かです」
「能天使の、堕天……」
私は揺れる紅茶の表面を見つめる。心配そうな表情の私がそこにいた。
「天界の歴史に何度も記述される内容だな」
セラン様は ぐびっ、と紅茶を飲み干してそう言った。「行儀が悪いですよ」と言いながら、キュリアム様が紅茶のおかわりを注ぐ。
「そうですね。最も堕天しやすい天使と言われていますから……」
能天使は、対悪魔戦で最前線に立つ天使。最も邪気にさらされる立場であるため、堕天してしまうリスクが九つの階級の中で最も高いと言わているのだ。
「あの、キュリアム様。一つお聞きしたいことがあるのですが」
私はカップとソーサーを一旦テーブルに置いた。
「『堕天』と見なされるのは、どの状態からなのでしょうか」
私の問いに、キュリアム様だけでなくセラン様も「ふむ……」と考える仕草を見せた。
「私から言えることは……」
先に口を開いたのは、キュリアム様だった。
「治療の施しを打ち切るのは、羽が漆黒に染まり、聖気と邪気の割合が等しくなった時でしょうか」
彼の言葉に、セラン様も「そうだな」と頷く。
「羽が黒くとも、主となる心は『善』である場合もよくあることだ。現に、狭間の世界の民はその場合が多い。それも、羽が黒くなった原因が『攻撃など物理的要因でなく、精神的な要因である』というのが必須だな」
「能天使の場合、今回は外的要因でしたし、治療が円滑に進められていたので堕天はしませんでした。しかし、これがもし彼の心情による羽の色の変化だったとしたら……私たちは治療を断念――までは行かずとも、もう少し彼に負担のかかる決断を下したでしょう」
私は目を伏せた。『心情による羽の色の変化』――。
「そのような場合で羽が黒くなれば、堕天も時間の問題です。ですので、我々天界本部として出来ることは一つ。第五天・マテイにある監獄に収容、そして心身から邪気を抜くためのセラピーをすることです」
「第五天・マテイ、ですか」
私も何度か行ったことがあるのだが、マテイはあまり良い場所ではない。主様の威光も分厚い雲により遮られ、薄ら寒いその世界にある監獄には、希望を失いかけた天使や、悪に目覚め始めている天使が収容されている。天界だというのに、そこは魔界に近いものを感じるのだ。……まぁ、天使は魔界に入ることが出来ないので、想像ではあるが。
「マテイ送り以外に、何か手は無いのですか」
私の問いが意外だったのか、キュリアム様は目を ぱちくりさせた。
「他に、ですか。他に……は、なかなか手は無いでしょう。もはや、心情からの羽の黒化は取り返しのつかない状態であるサインです」
「……ッ!!」
私は雷を打たれたかのような衝撃に見舞われる。そんな私に、セラン様が優しく背を撫でてくれる。
「大丈夫だ、アイシレス。先ほども言ったが、能天使は今回、外的要因で羽が黒くなった。彼はマテイ送りにはならない。ましてや、今すぐ堕天ということもない。そんなにショックを受けることは無いさ」
セラン様の優しいお言葉に、私は「はい……」と絞り出すように答えた。
「とにかく、能天使のことは彼が目覚めてからでないと、話になりません。恐らく、今日中には目を覚ますでしょう」
キュリアム様は紅茶を飲み終わると、部屋の時計に目をやった。
「セラン、アイシレス。そろそろ準備をしなければならないかと。私も、聖戦開始時にオペの予定が入っていましてね」
「そうだな。有難う、キュリアム。お前の知識は天界の未来に必要だ。まだまだ仕事は落ち着かんだろうが……よろしく頼むぞ」
セラン様は立ち上がり、私に「行くか」と手を差し伸べた。頷き、その手を取る。
「セラン、アイシレス。どうか気を付けて。決して無理をしてはいけません。『聖戦に終わりはない』……これを忘れてはなりませんよ」
私とセラン様は部屋を出た。セラン様は元気をなくした私を心配して、軍事本部に到着するまで何度も励ましの言葉をかけてくれた。
「能天使なら大丈夫だ。きっと良くなるさ」
だが、私の頭にずっと浮かんでいたのは、能天使の姿では無かった。
天界本部、武器庫にて。
「アイシレス様~!」
天使軍の装備の最終チェックを行っていたところに、私の臣下がやってきた。私は臣下を二人従えており、彼は二人のうち新参者でパワフルな水の天使。名を、チアルという。
「チアル。お前の管理下のチェックは済んだか?」
「えっと……それはまだ終わってないんですけど、さっきアフェローン様からアイシレス様に伝言があるって声をかけられたんです」
アフェローン様は、先ほど話していた上級天使第三位の座天使様だ。
「アフェローン様が、『天界本部正面入り口で待っている。聖戦には参加せず、此方を優先してくれ。主様がお呼びだ』……だそうです」
……主様が? 私は少し思案する。一体私に何の御用なのだろうか。主様から直々にお呼びがかかることなど、滅多にないことだ。
「ヴァロウさんにもこの事を伝えておきますし、臣下二人でアイシレス様の分もチェック終わらせておくので、早く行ってください。主様からのお呼び出しだなんて、何かあったに違いありませんよ」
確かにそうだ。極めて重要な内容でないのなら、上級天使や中級天使を介して伝えられる。
私はチアルに「すまんな、頼む」と書類と共に言葉を残し、アフェローン様のもとへ向かったのだった。
天界本部正面入り口。アフェローン様は『愛車』に乗って待機していた。『愛車』に関して説明するのは非常に難しいが、私が表現できる精一杯を伝えよう。
まず、アフェローン様の階級『座天使』について説明しよう。座天使は『神の戦車』と言われており、聖なるものを運搬する役割を持つ。『主様の玉座を運ぶ者』というのが正式な役割とされているが、主様は第七天・アラボトにある神殿の外に出る事も、もっと言うなれば、玉座から立ち上がることすら極めて稀なことである。主様は常に玉座に座し、玉座の前にある水鏡で常に世界を見守ってくださっているのだ。なので、主様には我々天使や人間の言動は全てお見通しだとも言われている。
……話がずれたな。アフェローン様の正式な役割は『主様の玉座を運ぶ』ことだが、先ほど言ったように実際に玉座を運ぶ機会はない。彼はその代わり、我々天使を主様のおられる第七天・アラボトまで送る仕事をしている。第七天は他の天界とは違い、アフェローン様に運んでもらわなければ到達できない場所なのだ。そのため、第七天に行くときはアフェローン様に送ってもらわねばならない。その時に乗るのがアフェローン様の愛車『ハルマ』である。
神の戦車である『ハルマ』だが、外見は戦車というより馬の居ない馬車のようなものだ。アフェローン様が取り付けられたハンドルで運転し、後ろにある荷台に我々天使が乗る。ハルマは座天使だけが運転を許される戦車で、アフェローン様曰く、運転するには膨大な魔力が必要らしい。熾天使のセラン様や智天使のキュリアム様でも運転できないそうだ。セラン様が言うには「私やキュリアムは魔力のエネルギーが高い、一方彼は魔力の量が多いのだ。私たちより魔力の強さは少々劣るものの――他の天使に比べたら十分に強いのだが、持続性はずっとずっとある。ハルマは持続的に高い魔力を送り込む戦車だからな。そのため、彼しか運転できないのだよ」だそう。
ちなみに、私たちがいつも目にしているハルマは、金の車輪が輝く美しい外見である。しかしそれはカモフラージュで、真の姿は車輪に無数の目がついているそうだ。カモフラージュされていて本当に良かった。
「よう、アイシレス。待ってたぜ」
アフェローン様は運転席から私を見下ろして、手を振った。私は下から「お待たせしました、宜しくお願いします」と声をかけ、乗車して良いか尋ねる。彼は親指を立てて荷台に取り付けられた席を指した。
アフェローン様のハルマに乗って、第六天から第七天へ飛ぶ。乗車中はアフェローン様が他愛もない話をしてくれた。上級天使の三人の中で、アフェローン様が一番気さくな天使だと言われている。彼は誰に対しても友人のような態度で接し、いつも明るい笑顔で面白い話をしてくれる。……まぁ、いつもと言っても、上級天使様たちは遭遇率が非常に低い。私も聖戦が始まってから、上級天使様とよく会うようになったのだから。
「よ~し、着いたぜ」
ハルマを停車させ、アフェローン様は此方を振り返った。
「俺はここで待ってるから、行ってこい」
「はい、帰りも宜しくお願いします」
私は下車し、神殿まで伸びる長い階段を上っていく。羽があるから飛んでいけば良いだろう。という者も居るが、主様にお会いするまでの道のりは、心を整理し落ち着かせるための時間だと考えている。乱れた心で主様にお会いするなど、無礼である。
心の乱れが無くなった頃、私は神殿の前に立っていた。重厚な扉が自然に開いた。主様の力でお開けなさったのだ。私は招かれるままに神殿に入る。
広く、細部まで精密に作られた美しい神殿。その中心には大きな水鏡があり、その向こうには玉座に座る主様が。
神殿に入った瞬間、主様の威光に包まれその場で膝をつきそうになる。だが、それでは主様のお言葉が聞けない。水鏡を挟んで主様と対面するよう私は移動し、膝をついた。主様は玉座に座し、じっと此方を見つめていらっしゃった。
「主天使・アイシレス、ここに参上いたしました」
私がそう言うと、主様が「頭を上げたまえ」と仰った。ゆっくり頭を上げ、主様の方を見つめる。
「聖戦中で多忙であるというのに、呼び出してしまいすまなかったな」
「いえ……! 我が父ともいえる主様からの命が何よりも優先すべきことです。当然のことをしたまででございます」
私は深々と頭を下げ、主様のお言葉を待った。
「アイシレスよ、お前に話があるのだ。話、というべきか……そうだな、『忠告』と表すのが正しいか」
「『忠告』、でありますか……?」
私は顔を上げた。主様は「あぁ」と玉座の肘掛けに肘をつき、顎に手をやって私の瞳をじっと見つめる。そして、静かにこう告げた。
「いつまで偽るつもりだ?」
「……ッ!!!」
全身に震えが走る。落ち着かせたはずの心が乱れていく。
「アイシレスよ。お前はいつも自分で言っているだろう。『主様は何でもお見通しだ』と。お前の魔力の技量には驚かされたが、気付かれぬとでも思ったか?」
バクバクと心臓が音を立てる。それが一層、私の心を乱していく。……嗚呼、本当だ。私が一番分かっていたはずでいたのに、全く分かっていなかった。主様のお言葉は全て正しい。
「アイシレスよ」
主様は名を呼び、私が平生に戻るのを待っていた。私は呼吸を整え、震えぬように全身に力を込めながら「はい」と声を絞り出す。
「私はな、アイシレス。お前の未来に期待しているのだ。だが、今のままでは駄目だ。『それ』が付いて回るのは非常に良くないことである」
主様のお言葉は全て、私の心を真っすぐ貫く。私はただ、黙っていることしか出来ない。
「アイシレス。いい加減、けじめを付けたまえ。……良いな?」
「……、……はい」
私はそう返事した。これ以外に、どんな返答があるというのか。
▽
数日後。午後三時、屋敷にて。私――ドロイアは、自室で本を読んでいた。すると、扉の向こう、廊下からバタバタと忙しない足音が聞こえてきた。こんなことは初めてでしたから、私は不審に思って本を閉じました。すると、コンコン、と扉がノックされる。
「ドロイア様!」
その声は、ピュリのメイド・エイスさんの声だった。私は急いで扉を開けた。すると、焦りと不安の混じった表情のエイスさんが居た。
「エイスさん? どうされたのですか」
「た、大変なんです……っ! ピュリ様が屋敷のどこにもいらっしゃらないのです!!」
「……っ!!」
ピュリが居ない。その言葉に、私は一瞬理解が遅れた。だって、こんなこと初めてなのです。ピュリが姿をくらませてしまうだなんて。
「おやつの時間になりましたので、ピュリ様を呼ぶためお部屋を訪ねたのですが……ピュリ様がお部屋にいらっしゃらなくて。屋敷内も探し回ったのですが、何処にも……」
どうしましょう。とエイスさんは今にも泣きそうだ。
「エイスさん、屋敷の天使総出で探しましょう! ソアレさんやミラさんにも手伝ってもらえば、きっと見つかりますよ!」
私はエイスさんとキッチンに向かう。キッチンでは、ソアレさんとミラさんがティータイムの準備をしていた。二人でキッチンに駆け込むと、ソアレさんとミラさんが驚いた様子で私たちを見る。
「ドロイア様、エイス!? そんなに焦った様子で一体どうされたのです」
ミラさんが持っていたカップを置いて、私たちに駆け寄る。ソアレさんも不審に思ったようで、手元を止めて私たちの方を見た。エイスさんがぎゅっとメイド服の裾を握って、二人に事情を話す。
「ミラさん、ソアレさん、ごめんなさい……! ピュリ様が屋敷のどこにもいらっしゃらないのです。私がずっとお傍に仕えていればこんなことには……っ」
その言葉にミラさんとソアレさんは顔を見合わせた。
「エイス、それは本当なの? 本当に何処にもいらっしゃらなかったの?」
ミラさんの問いに、こくこくと頷く。
「ピュリ様は今日は朝からお部屋でお裁縫をしていて……確か、アイシレス様のためにお守りを作っていると仰っていました。……いえ、それはさておきまして、お昼ご飯の後もピュリ様は自室で裁縫をしてらっしゃるようでしたので、お二人とティータイムの支度をしていたら……、申し訳ありません!」
今にも泣きそうなエイスさんに代わって、私は口を開く。
「ソアレさん、ミラさん、ピュリを探すのを手伝ってくれませんか? 四人で探せば、きっと見つかります」
私の提案に、二人は頷いた。
「なら、手分けして心当たりのある場所を探そう。エイス、屋敷の外ならば、ピュリ様は何処に行かれたと考えられる?」
ソアレさんはそう問うた。エイスさんは「えっと……」と少し考える。
「屋敷以外であれば、町か森でしょうか。その二か所は、ピュリ様とよくお散歩に行く場所なので……」
「その森って、近くの町の向こうにある森のことですか?」
私はエイスさんに尋ねた。もしそうならば、その森は狭間の世界に行く途中に通る森だ。あの森のことなら大体のことは分かる。
「はい、そうです。あの森には花畑があって、ピュリ様と一緒によく行くんです」
「私もあの森によく散歩に行きます。道は熟知しているので、私は森を探しに行きますね」
私の提案に、ソアレさんが「それが良いでしょう」と頷く。
「なら、エイスは街を探してくれ。俺達には、エイスとピュリ様がよく行く店などは分からない」
「はい、分かりました!」
「ミラは屋敷内を探してくれ。ピュリ様は小柄だから、くまなく頼むよ。俺は庭と屋敷の周りの森を探す」
これで、全員の担当場所が決まった。私はエイスさんに「行きましょう」と告げた。彼女は「はい!」と大きく頷き、私たちは屋敷の外へ向かう。
……ピュリ、一体どこへ行ってしまったのですか? 今まで、こんなこと一度も無かったのに。何が、貴方を連れ去ってしまったのですか……?
▽
ガキィィィンッ
剣の交わる音が、
ダダダダダダッ
銃声が聞こえる。
「アイシレス様っ!」
誰かが私の名を叫んだ。私は くすりと笑うと、身体をひるがえした。見えたのは、悪魔軍の銃弾。私はすぐに体制を戻すと、数メートル前に居た悪魔を、銃で撃ちぬいた。悪魔が悲鳴をあげて消滅する。私の銃弾は、聖気が形を成したものである。そのため、悪魔はこれで打ち抜かれると完全に消滅するのだ。
「愚かな。そんな弾が私に当たるとでも思ったか」
私は残りの悪魔も撃ち、一匹残らず始末する。
周りに一匹も悪魔がいなくなると、私は銃を降ろした。するとその時、臣下のチアルが駆けて来た。
「アイシレス様、大変です!」
「……どうした?」
「聖戦区域外のФ地区を、悪魔が占領しているとの伝言がきたんです!」
その報告に、私はため息をひとつついた。
「……何処までも卑怯な奴らだ。私に任せたまえ、片付けてこよう」
私はその場をチアルに任せ、羽を広げ飛び立った。
Ф地区。以前……いや、数時間前は村であったと思われる場所。しかし、今は瓦礫の山と化している。地に足をつけたとき、悪魔の声が聞こえた。私は近くの瓦礫の山に姿を潜める。
「おい! お前、何で天使なんか助けたんだよ!」
「サタン様の命令を忘れたのか!?」
「ごめん、皆……でも、あの子だけは助けたかったんだ」
「あの子だけはって……お前、まさかあの天使と知り合いなのか!? 俺たちは悪魔だぞ!」
「知り合いって言うか、その……ごめん」
「チッ! このことがサタン様に知られたら……俺らまで罰を受ける」
「そうだな……。つか、前から思ってたんだけどよ、お前さ……聖戦、やる気ねぇだろ」
「聖戦の任務とは別に、この世界や人間界のことを調べてるんだって? お前、『善』に侵食され始めてるんじゃねぇの?」
「んじゃあ、こんな奴は置いていこうぜ? 俺らまでダメになりそうだ」
……どうやら、興味深い話をしているようだ。私は、銃に弾を込め直し、構える。声のした方へ。すると、数匹の悪魔が姿を現した。
私は間髪いれず撃った。悪魔たちは、咄嗟の事で何もできず消えていく。悲鳴すらあげられずに。
「皆! 待ってく――」
遅れて、一匹の悪魔が私の前に現れた。黒い短髪の悪魔。耳には、悪魔の尻尾の形をしたピアスが。……あぁ、知っているぞ。お前のことは見たことがある。敵の顔なぞ覚えぬ私だが、お前の顔はよく覚えている。
「……! 主天使、アイシレス……」
その悪魔は私の姿を見ると、名を呼んだ。私はその悪魔を見て、攻撃せずに銃を降ろす。
「私の名を知っているとはな。……いや、当然か」
「……」
その悪魔は私に武器を向けず、耳元で揺れるピアスを触った。私はそれを見て笑う。
「そちらも攻撃する気が無いとみた。……そうだな、心優しそうな貴様には私を攻撃できまい」
悪魔は目を伏せた。どこか罰が悪そうに。
「……あぁ、そうだ。俺には、貴方を殺せない」
私は悪魔に歩み寄る。悪魔は動かなかった。
「貴様のことを語ってやろう」
そのまま彼の肩口に顔を寄せ、こう囁く。
「貴様は、この世界で大きな罪を犯した。いや……犯している。己の『悪魔』という立場を保ちながら、この世界の民と同じことをしている」
「……っ! 誰から聞いたんだ」
「誰からも聞いていない」
私は一歩下がり、彼の前に立った。彼との距離は三十センチほど。彼の頬に冷や汗が伝っていた。私は彼の顔を覗き込む。そして、こう言ってやった。
「よくも私の義娘をたぶらかしてくれたな?」
冷たく低い声で私は言った。悪魔の肩が、ビクリと震える。
「貴様のせいで、彼女の未来は閉ざされた」
私は銃口を悪魔の胸に宛がう。悪魔は小刻みに震えていた。
「……っ、それは、どういうことだ」
「そのままの意味だ。貴様と関わったことで、彼女の心に『悪』が生まれた。彼女はもう手遅れだ」
「そんなはずは……っ! 彼女の羽は純白だ! 手遅れなはずがない!!」
その言葉に、私はフッと笑う。
「そうだな。彼女の羽は、確かに『純白』だ」
私は引き金に指をおいた。悪魔は私の言葉が理解できないのか、瞳を彷徨わせている。
「悪魔よ。貴様さえいなければ……」
私は、ギッと悪魔を睨んだ。……嗚呼、この悪魔さえいなければ、何もかもが幸せであったのに。せめて、この悪魔に『優しさ』が無ければ――!
「私が彼女の羽の色を、魔法で偽る必要など無かったのに」
私は小さく呟いた。悪魔が目を見開く。その瞬間、私は引き金を引いた。
銃声が止んだ頃には、もう悪魔はいなかった。私は銃を降ろす。
「だが、もう……それも終わりだ」
銃口から延びる硝煙を吹き消し、私は銃を収める。亡骸一つない戦場で、私はぽつりと呟いた。
「貴様を殺し、私は――」
そのあとの言葉は、吹き抜けた風がさらって行ってしまった。
▽
森の中。私――ドロイアは、森の中を駆け巡っていた。
「ピュリ! 何処にいるのですかーっ」
ピュリが行きそうな場所は全て見回った。花畑、池……彼女の名を呼びながら走っても、聞こえるのは私の足音だけ。
「ピュリ……」
森には居ないのでしょうか。それなら、何処にいるのでしょう。……でも、森は探し尽くしました。
「森に居ないなら、やはり町に――」
私はそこまで口にしたところで、まだ森の中で行っていない場所があることに気付いた。
「まさか、……いえ、彼女があの場所を知っているわけが――」
そう口にしながらも、心のざわめきは増していくばかり。私が向かったのは、私がこの森で最も訪れる場所。
「……っ」
狭間の世界に繋がる洞窟。私は恐る恐る足を踏み入れる。すると、洞窟の奥……狭間の世界に繋がる魔法陣の前に、あるものが落ちていた。私はそれを拾い上げる。
それは、直径三センチほどのハートのチャームだった。私はこれに酷く見覚えがある。これは――。
「ピュリのブーツについている、チャーム……」
彼女の履くショートブーツに、大ぶりのハートのチャームが付いているのをよく覚えている。それが今、私の手元にある。
「ピュリ!!」
私はそれを握りしめると、狭間の世界に飛びこんだ。
狭間の世界に着いた私は、目の前の光景に思わず立ちすくんだ。私とライジアがいつも会う村が、そこに無かったのだ。目に飛び込んできたのは、瓦礫の山。……どうして? ここは聖戦区域外だったはず。
「……いけない」
私は足を踏み出した。ピュリを探しにここまで来たのです。村のことが気になりますが、今はピュリを見つけることが最優先です。それに、今は聖戦中の時間帯。ピュリにも私にも、身の危険が迫っているのです。
私は周りを気にしながら歩く。辺り一面瓦礫の山で、その山は低いものから、私の身長を優に超えるものまであった。
「ピュリ、ピュリ……!」
小さな声で、彼女の名を呼ぶ。大きな声を出すのは危険ですから。こんな声量では、彼女に届くとは思えないけれど……。それでも私は、名を呼びながら歩き続ける。瓦礫の山の周りをくまなく探し、彼女が隠れていないか確認する。
この世界に来てから数十分ほど歩いただろうか。私は、まだ破壊されていない建物を見つけた。先ほどから歩いている感じでは、もうこの村には私以外誰もいないようだ。私は思い切ってその家の扉を開けた。中に入り、部屋の中を探す。すると……
「……っく、ひっく…、うぅ……」
誰かの嗚咽が聞こえた。声からして女の子だ。私は恐る恐るその声へと近づく。その声は、壊れて傾いていたクローゼットの中から聞こえた。私は意を決して、クローゼットの扉を開けた。すると、中に居たのは……
「ピュリ!!」
「……っ、ドロイ、ア? ドロイア……ッ!」
隠れていたのは、ピュリだった。ピュリは私の顔を見ると、勢いよく抱きついてきた。私はその小さな身体を抱きとめる。
「ドロイアっ、……ひっく、怖かったよぉ……っ」
「もう! 本当に心配したのですよ……!? どうしてここへ来たのですか! ただでさえ、今は聖戦中で危険だというのに……」
ピュリは、私の胸に顔をうずめた。
「ごめんなさい……。ピュリ、アイシレス様にあげたいものがあって……」
「朝から作っていたお守り……? まさか……届けるつもりだったのですか!?」
ピュリはコクンと頷く。
「だって、早く渡さないと意味がないと思って……。今、まさにアイシレス様がピンチだったらって思ったら、ピュリ、居ても経ってもいられなくて……!」
彼女の想いに、思わず同情してしまう。……その気持ちはよく分かります。アイシレス様が強いお方なのは分かっていますが、やはり心配なのは私も同じです。
「それにしても、ピュリ……。貴方はどうして狭間の世界への行き方を知っていたのですか?」
ピュリを見つけられて嬉しい気持ちが勿論大きい。しかし、『どうしてここに?』という思いもあった。するとピュリは私の胸から顔を離し、こう話した。
「あのね、前に見たことがあったの。エイスさんと森に遊びに来たら、黒い羽根の天使が洞窟に入って行くのを。エイスさんはたぶん見てないのよ、ピュリも、言っちゃ駄目かなと思って秘密にしてたの。それで、この前アイシレス様が狭間の世界の話をしてくれた時に、「あぁ、あの天使はあそこから狭間の世界に行ったのね!」って分かって……それで、今日初めて行ってみたらこの世界に着いたの」
ピュリはそこまで言うと、目を伏せる。
「でも、誰にも言わずに飛び出してきちゃったのは悪いと思ってるの……本当にごめんなさい」
「反省しているなら、もう良いのですよ。貴女が無事で本当に良かった……」
私は改めて彼女を抱きしめた。愛する義妹が無事で良かった。もしピュリが見つからなかったら……私はどうにかなってしまっていたと思います。
黙って彼女を抱きしめていると、
ゴーン、ゴーン……。
今日の戦争の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。ピュリがそれを聞いて、私に問いかけた。
「ドロイア、今日の聖戦……終わったの?」
「はい、今日の聖戦は終わりです。……帰りましょうか。屋敷の皆さんも、心配していますよ」
私たちは家を出た。外に出ると、遠くの方で天使軍や悪魔軍が武器を降ろし、自分の世界に戻って行くのが見えた。改めて考えてみると、不思議な光景ですね。鐘が鳴れば、ぱたりと戦いが終わるのですから。……まぁ、でも、聖戦が終わってホッとしました。私達も安心して戻ることができます。
瓦礫の山と化した村を、ピュリと手を繋いで歩く。
「そういえば、ピュリ」
「なぁに?」
「よく無事でしたね、聖戦に巻き込まれなくて良かった」
私がそう言うと、ピュリは立ち止まった。そして、こう話し出す。
「あのね、私……悪魔さんに助けてもらったの」
「……悪魔に?」
「うん。ピュリが狭間の世界に来た時、何匹かの悪魔と出会っちゃって。ピュリ、悪魔たちに武器を向けられて……もう駄目って思った時、一匹の悪魔さんがピュリを助けてくれたんだよ。それで、その悪魔さんはピュリをさっきいた家のクローゼットに隠したの。「今日の戦争が終わったら、必ず助けに来るよ。君がいなくなったら、悲しむ天使がいるからね」って言って、その悪魔さんは聖戦に戻った。だからピュリ、悪魔さんを待ってたの。そしたら、ドロイアが助けに来てくれたのよ」
ピュリは、つま先で地面をトントンと蹴った。
「ここ。ここでピュリ、助けてもらったんだ」
ピュリは、えへへっと笑った。
「ピュリね、思ったの。悪魔はみんな悪いって思ってた。でもね、その中には天使みたいに優しい悪魔もいるんだなって分かった」
ピュリの言葉に私は微笑んだ。
「はい。悪魔が皆、悪いというわけではないのですよ」
私の脳裏に、ライジアが浮かんだ。彼はとても優しい悪魔です。ライジアの他にも、優しい悪魔がいたのですね……。
「うん、ピュリ、また賢くなったよ。……あー、お腹すいちゃった。早く帰ろ?」
そうですね、と頷いたその時。私は足元に何か光るものを見つけた。
「なんでしょう……?」
私は、しゃがんでそれを拾った。
「ドロイア?」
「……! いえ、なんでもありませんよ」
私はそれを、ポケットに押し込んだ。私が拾ったもの、それは……
悪魔の尻尾の形をしたピアスだった。