女神様、ああ女神様、女神様
ぎしっ……ぎしっ……。
地面の軋む音に目が覚めると、そこは冥界であった。
俺は漆黒の檜でできた船の上に寝ていた。
あたりを見回せば毒々しい鮮やかな紫色の海が広がり、ごつごつとしたいくつもの岩山が浮かんでいる。岩山はよく見れば全て骨の寄せ集めであり、頭蓋骨の一つと目が合ってしまった。
「ひ、ひぃっ!」
「ひひ、私を呼んだかしら、勇者健太郎?」
後ずさりした俺を見下ろすのは、紫陽花色の髪を持つ少女。
血を塗りたくったような深紅の瞳が俺を覗き込んでいる。
漆黒の唇は、満足げに吊り上がっていた。
「女神様っ! まさか、こんなタイミングでお会いできるとはっ!」
「眷属を助けてやるのも女神の務め……。それで、圧倒的な力の次にお前が望むものは何?」
女神様はスカートのポケットから人間のものらしき眼球を取り出すと、くちゃくちゃと咀嚼し始めた。女神様、クチャラーだったのか。
いや、そんなことはどうでもいい。やっぱり女神じゃなくね? どう見ても悪魔や死神の類ですよねっ!?
何かシルバーとかじゃらじゃらしてるしっ!?
「あのー、今更なんすけど、どうして俺なんかに色々してくれるんです?」
「え、わからないの?」
わからない。そもそも気が付いたら俺たちは屍の山の中にいた。
「生前お前たちは夜中に学校へ忍び込んでプールで泳ごうとした。そこまでは覚えてるかしら?」
あぁ、覚えている。実を言えば、俺の弟はカナヅチだ。そして俺もカナヅチだ。泳げないのは恥ずかしいが、泳ぐ練習も見られたくない。
そこで思い立ったのが、深夜に学校のプールを無断で使わせてもらうことであった。足がつく深さでないと怖いので、出身の中学校を選んだのだ。決して女の子のリコーダーを盗みたかったわけではない。
「お前の弟は準備運動もせずに飛び込み、足を吊って溺れてしまった。お前は勇敢だったよ。すぐに異変に気付いたお前は、弟を助けるために飛び込んだ。準備運動をせずにはなぁ」
「あ……あ……」
俺は、全てを思い出していた。
「翌朝お前らは死体で発見された」
「あぁ、だめだぁ、もうやめてくれーっ!」
「公立中学校の足がつく浅いプールで、大学生と無職の男が溺死したってねぇ!」
「ぐああああぁぁぁぁっ!」
そうなのだ。二人して足を吊った俺たちは激痛にのたうち回りながら溺死した。恥ずかしさで思わす顔を掻きむしるが、バッグに忍ばせた女子中学生のリコーダーには触れていなかったので少しだけ安心していた。
「こんなゴミみたいな死に方中々できないよ。ひひひひひひっ、いーっひっひっひっひっひ! ・・・・・・げほっ、げほっ、げほっ! ひ、ひ、あ、まて。あ、あ、がぼぼぼぼぼぼ……」
女神様は笑い散らかしていた。笑って笑い尽くした挙句、船のへりに躓いて毒色の海へと落ちていった。
「女神様っ!」
考えるよりも先に身体が動いてしまうが、その後に自分が泳げないことに気づいた俺は、そのまま水没していった。どうやら異世界転生をしてもカナヅチは変わらないみたいだな。
完璧超人の弟の弱点を見つけ出した俺は、ざまぁみろとほくそ笑みながら意識を失った。
「全く、持ち直した私がお前を運ぶことになるなんて」
「面目ない、です」
ごつごつとした躯岩に打ち上げられながら、俺は女神さまの言葉に耳を傾ける。
「つまりね。お前のような生ゴミが世界を混沌に陥れたら、面白いと思ったのよ」
「混沌? え、俺勇者じゃないの?」
やはり俺の仕えていたのは魔神か何かだったのか。
「え? あ、うん、そう、勇者勇者。キミ、ハ、ユウシャ、ダ……ピピピピピピピピピピ」
嘘だ、この女神様絶対嘘ついてる。
「そもそも本当は女神様じゃないんじゃないですか? やっぱり何かおかしいですって」
「そんなことはない、私は天からの祝福を受けている。羽とかもだせるぞ、ほら」
ずるっ。女神さまかの貝殻骨から一対の翼が生える。
粘液を飛ばしながら展開されるそれは黒い斑がついていて……いってしまえば白い食パンにカビが生えているような翼だった。
「なんか……汚い」
「ぴ、ぴひゅ~。ぷひゅ~」
一陣の風が吹くまでお互いに黙ったままだった。
やがて妙な気まずさを感じた俺は必死に口をすぼめる女神様に、深々と頭を下げる。
そうだ、ほら、必ずしも天使が美しいとは限らないじゃないか。醜いあひるの子のように、最終形態を残しているのかもしれまい。
「いや、あの疑ってすみませんでした」
一応生えてたアレはまごうことなき解放の象徴。俺は女神様を信じることにした。
「う、うむ。わかればよろしい。そういうことなんだ健太郎。さぁ、改めてお前の願いを聞こうじゃないか。」
「ははぁ」
俺の願い……それは。
「女神様を、くんかくんかさせてください」
「は?」
「女神様をっ! くんかくんかさせてください!」
そっと、女神様は自分の身体を抱きしめて俺を睨む。一体何故だ。
「理由を、聞こうか」
「もう限界なんですよ!」
俺は泣きながら事情を話した。
人力車での旅の環境が劣悪であることを。
四人乗りの荷車に、休憩中の木こりのおっさん二人を含む5人でぎゅうぎゅう詰めにされてしまっていることを。
そして野郎の汗臭い空間の中、綺麗好きな弟だけがフローラルな香りでときめいてしまったことを。
「あの……あなたはホモ、なんですか?」
震えながら敬語を使われてしまった。
「違う! 違うんだよ。絶対に違う。俺は美少女ハーレムを目指してるんだぞ? 歩けばラッキースケベに当たるような超鈍感系主人公目指してんだ! だから、だからなぁ」
お願いです女神様、俺にあなたの匂いを嗅がせてほしいんです。もう耐えられない、俺は野郎の臭いにまみれて汚れっちまったこの鼻を女の子の匂いで浄化したいんだ。
俺は涙でと鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら頭を地面に擦り付けて懇願した。
「わかった、わかったから。でも、なんで私なの?」
「それは、女神様がお美しいからに決まっているじゃないですか!」
女神様は顔を赤らめて震えていたが、やがて覚悟を決めたようだった。
「そこまでいうなら、ちょっとだけ……ちょっとだけだぞ? ほら」
両手を緩く広げ、無抵抗の意を示す。
ボクタチトモダチ、コワクナイ。
うほうほしながら涙目になった女神様の手を取ると、そこから上へと必死に鼻を動かした。向こうの世界では暫く嗅ぐことのないであろう乙女の体臭。そう、これこそが。
「すぅーはぁーっ! すぅーはぁーっ!」
「ひうんっ!」
なんて可愛らしい声なのだろう。疑った俺はただのバカだ。女神様は女神さまに違いない。
女の子は常にシャンプーのような清楚で甘い香りが漂っているものだと思ってたし、実際俺が今まで片思いしてきた子達も実際にそうだったような気がする。学生時代に体操着を盗んだ時も制汗剤のさわやかな匂いがした。
だが、俺の夢見ていたものは全て勘違いであったことを思い知らされる。
それは俺の嗅覚に、腐ったぞうきんの上からクエン酸と酢酸を混ぜ合わせたようなおぞましい刺激を与えられたからであった。
「くさ、い・・・・・・?」
この時の俺はまだ知らなかった。女神さまの新陳代謝が恐ろしく悪く、アポクリン汗腺から瘴気を放っていたことを。
「くっさ! 木こりのおじさんの方がマシじゃないか!」
野郎どもの汗は確かに臭いが、常にながしているため不愉快さはなく、すがすがしささえ感じられるものであった。しかし、女神様の脇の下は……。
「ひ……」
「ひ?」
「ひひひひとでなしがぁっ!」
すぱぁんっ! 虚空から取り出された大鎌が俺の首を跳ね飛ばす。
「お前なんてずっと全裸で生きていけばいいさバーカバーカ」
バーカバーカ? 普段人を食ったような顔をしている女神さまの幼い一面が見えたような気がして、俺は目を細めた。
「うわああああああああぁぁぁぁんっ!」
女神様が声をあげて泣いている。いつも気丈に振舞う彼女だからこそ、そのギャップ差が可愛い。
あれ、俺また何かやっちゃいました?
異世界転生のテンプレ台詞を胸に秘めながら、俺はこと切れた。
極楽浄土。女神様がいるこの空間が冥界という天国であるならば、野郎しかいないあの村は地獄である。俺は、再び地獄へと還っていくのだ。