屋上で、彼女は死にたがっていた
もういいや。
マンションの屋上で、二十歳くらいの女性がそう呟いた。
その女性が隣人だということに気付くまでに時間はかからなかった。
このマンションで、隣に住んでいる一人暮らしの大学生。僕はひそかに彼女に思いを寄せていた。
まだ高校生の僕は彼女の目には子供としか映らないらしくて、男扱いなんてされたことは無かったけれど、彼女はいつも笑顔で僕に接してくれた。
とても悔しいけれど、それが同時に嬉しくもあって、ジレンマに侵されながらも僕は彼女に恋をした。
そんな僕の好きな人が今、本来は立ち入り禁止のはずのマンションの屋上で空を扇いでいる。見れば、彼女が立っているのはマンションの縁だった。
「美幸、さん……?」
僕は起き上がって、彼女の名前を呼んだ。すると今まさに羽ばたこうとしていた彼女が僕を振り返った。
「…………やぁ、奇遇だね」
人懐っこい笑みを浮かべて、僕よりも小さな手を振る。
「なに、してるんですか?」
「それはこっちのセリフだよー。君こそ何してるの? 立ち入り禁止でしょ、ここ」
「美幸さんだってそうじゃないですか」
「私は大人だから」
大人だからルールを破ってもいいのか、と文句を口にしそうになったけれど、このまま美幸さんのペースに乗せられてしまえば話が流れてしまう気がして口を噤んだ。
「なに、しようとしてたんですか?」
僕はもう一度問いかけた。
「なんで、そんなところに立ってるんですか?」
続けざまにぶつけた。
「……飛び降りる気、だったんですか……」
不安と焦りを感じながら、僕は美幸さんのほうへ向かう。
美幸さんは、小走りでやってくる僕のことを笑顔で待っていてくれた。
「物騒なこと言うね。それとも私が空を羽ばたく天使にでも見えた?」
「見えるわけないですよ」
言うと美幸さんは笑った。羽ばたくとは思っていないし、落下して血まみれになる未来しか浮かばなかったからそう口にしたけれど、天使というのはあながち間違いではないかもしれなかった。
僕にとってこの人は、幻想的なまでに実在している感覚がなくて、手の届かない、けれど脳裏にこびりついた過去の栄光談のごとく美しいものだったから。
けれど、それを素直に口にするには状況が異質過ぎた。
「自殺、しようとしてましたよね?」
「しないって」
明るく、まるであやすかのごとく僕にささやきかける。その瞳に僕が映っているのを理解すると胸の奥が熱くなるがそれ以上に僕はムカついていた。
「もういいやって、何ですか」
「…………」
言った瞬間、彼女は目を逸らした。
すぐに笑顔に戻ったけれど、その一瞬を見逃すほど僕は半端な恋心は抱いていなかった。
「なんで、飛び降りようと思ったんですか」
相談に、乗れたらと思った。
自分よりも二つ年下の頼りない男が何を、と思うけれど、それでも僕は美幸さんの力になりたかった。
「空を飛べるかなって思ったんだー」
両手を広げて、今すぐにでも羽ばたいて見せると得意げな笑顔を浮かべる。
僕は、彼女の笑顔の真偽を判断できるほど美幸さんのことを知らない。だから、いつもなら赤くなった顔を隠しながらそうなんですか、なんて口ごもっただろう。
もしもいつも通りだったのなら。
「美幸さん、なんで裸足なんですか」
「…………あっははー」
ゆっくりと自分の足を見た美幸さんは、誤魔化すように笑って見せた。
僕は彼女に手を差し出す。
「美幸さん」
「なーに?」
あくまで明るい声で答えた美幸さんは、僕の手を見ながら首を傾げた。
そんな彼女に、僕は真っすぐに伝える。
「手を、繋いでください」
「……どうしたの、マサヤくん」
驚きすぎたのか、珍しく僕のことを君、ではなく名前で呼んだ。
普段の状態のままだったら手を繋ごうなんて言い出すことはおろか、まっすぐ見つめ合うことだってできはしないだろう。だから奥手な僕がそんなことを言う事実に驚愕するのは当然と言えば当然だ。
けれど僕はいたって冷静だった。
「美幸さんと手をつなぎたいです」
「…………」
美幸さんは、いぶかる様に僕の手と顔を交互に見つめた。
「なんで、手をつなぎたいの?」
「好きだからです」
「手をつなぐのが——」
「美幸さんのことがです」
からかうように言い返してきた美幸さんを遮るために少しだけ大きめな声で言った。
美幸さんは数瞬固まると、自分を落ち着けるためなのか、それとも何かを諦めたのか大きく息を吐いた。
「マサヤくんは、何してたの?」
「美幸さん、なんで――」
「マサヤくん」
優しい声が、僕の声を遮った。話を戻そうとした僕を止めて見せた。
美幸さんは、笑っていた。
「なにしてたの、マサヤくん」
優しい笑顔に穏やかな声音。けれどそこには確かな意思があった。
だから僕は委縮してしまって、素直に答えることしかできなかった。
「絵を、描いてました」
「絵? どんな絵を描いてたの?」
「夜景です」
「ロマンチックだね」
心底微笑ましい、というような声で言った美幸さんは、僕に小さく手を差し出した
「見せてもらえない?」
手をつないでくれるわけじゃないのかと思って少し落胆しながら、僕はその手を強引に掴む。
「おっとっと、マサヤ君乱暴だよ」
「スケッチブックあっちにあるのでついてきてください」
力任せに美幸さんの手を握ったまま、どすどすと乱暴な足取りで屋内へと続く階段のすぐ横、給水塔へと続く鉄階段の影へ向かう。
握りしめた美幸さんの手は、想像よりもいくらか大きくて、女性に対するイメージが少しだけ上塗りされた。
「これですっ」
息も切れ切れにスケッチブックを掴み上げてそのまま美幸さんに差し出す。まだ半分も描けていない、闇に溶けた街の絵を。
美幸さんはそれを受け取ると、食い入るように僕の絵を見つめた。
「すごいね、マサヤ君。絵、上手なんだ」
それは多分、心から漏れた感想だったんだと思う。その声はとても、虚しい音をしていたから。
「美幸さん、好きです。僕と結婚してください」
「マサヤ君、今何歳?」
「十七です」
「じゃあできないね」
「十八になったら結婚してください」
「そのころは就職とか進学とかで大変だよ」
「二十歳超えて、仕事できるようになったら結婚してください」
「今日のマサヤ君はおかしいね。熱でもあるの?」
「僕が美幸さんに見合う男になるまで待っててください」
「マサヤ君、落ち着いて。どうしたの」
「美幸さんと一緒に居たいんです」
「今一緒に居るよ」
「これからも一緒がいいです」
「わかったから落ち着い――」
「死なないでください」
「………………」
美幸さんは、固まった。
まくし立てた僕の告白よりも、その一言のほうが力があったんだと気付かされる。少しだけ胸が痛かったけれど、それでよかった。
「美幸さん、自殺なんてしないでください」
「他殺ならいい?」
言われた瞬間、僕は顔を上げた。瞳孔も開いて口も開けっ放し。間抜け面もいいところだったと思う。
そんな僕を見た美幸さんは、優しく微笑むと僕の頭を撫でた。
「絵を描くのはまた今度にして。早くお家に戻りな」
「嫌です」
「じゃあどうしたら戻ってくれる?」
「美幸さんと一緒になら戻ります」
「そんなに私が好き?」
「はい」
「じゃあ私で好きなことしていいよ」
頭を撫でられたまま、僕は泣いてしまいそうだった。
情けない声が漏れそうになったから歯を食いしばった。美幸さんに気付かれないように浅く深呼吸した。手でこぶしを握ったら気付かれてしまうから足の指に力を入れた。
なんで伝わらないんだろう。それが悔しくてたまらなかった。
情けない僕の頭を撫で続ける美幸さんは、優しい声音で、けれど虚ろな、諦めてしまったかのような声で言う。
「なにしてもいいよ。……キスもしてあげる。裸にもなってあげる。エッチをしてもいい。けどそれが終わったらすぐに家に帰って?」
「そしたら、飛び降りるんですか……?」
「そうだよ」
当然のことのように美幸さんが言うから、僕は抱き着いた。
「美幸さん、死なないでください」
「大丈夫、マサヤ君にはもっと素敵な相手がいるよ」
「なんで死ぬんですかッ」
「マサヤ君にはわからないよ」
「彼氏と何かあったんですかッ」
「私今まで一度も男の人と付き合ったことないよ」
「友達と喧嘩したんですかッ」
「そんなことで自殺してたら私はもう十回は自殺してる」
「進路の悩みですかッ」
「就活はまだ先だよ。全然関係ない」
「じゃあどうしてッ!」
「マサヤ君にはわからないよ」
「僕が子供だからですか!」
自分の持てる力全てで美幸さんを抱きしめた。けれどそれはどう見たってただの八つ当たりで、駄々をこねる子供が母親になだめられている光景にしか見えない。
「高校生だから、大学生の悩みは理解できないんですか!」
美幸さんの体を、潰すほど強く抱きしめた。けれど美幸さんは苦しくなんかないみたいだった。
美幸さんは、僕に抱え込まれた腕を引きずるように抜くと、そのまま僕の頭に置いた。
「そうじゃないよ。高校生だからでも、マサヤ君だからでもない。誰かが死にたい理由を他人が理解できない、それだけ」
「なら教えてください。そうやって、少しでいいから楽になってください」
「マサヤ君は優しいね。でも、それでもわからないんだよ」
「美幸さん、死なないで」
「マサヤ君は幸せに生きて」
「…………」
「……マサヤ君、満足したら離して?」
「…………」
囁くような声で美幸さんが言ったけれど、僕は離す気なんてなかった。
「ずっと、こうしてるの?」
「…………」
「何か言って?」
「好きです」
「私も好きだよ」
「じゃあ死なないで」
「ごめんね」
甘い嘘を囁かれながらゆっくりと頭を撫でられても、絶対に離す気なんてなかった。
美幸さんは美幸さんで、僕を振りほどくことはしなかった。
だから僕は、そのまま朝まで美幸さんを抱きしめ続けた。
「ねえ、マサヤ君。学校はいいの?」
空が群青色になると美幸さんが言った。
「美幸さん、今日学校は?」
「三限からあるよ」
「じゃあさぼってください」
「マサヤ君ひどいね」
「美幸さんのほうがひどい」
「ずるいね」
夜からずっと、美幸さんと僕は同じ体制のままだった。
「マサヤ君。そろそろ離して?」
「嫌です」
「飛び降りないから」
「信用できないです」
「こんな明るいうちに自殺なんてしないよ。体が固まって痛いの。少しの間でいいから離して?」
なおも信用はできなかったけれど、僕はしぶしぶ彼女を解放した。
彼女は僕の拘束が解けるなり後方に向かってスキップすると腕を思い切り伸ばして少しだけ色っぽい声を上げた。
「マサヤ君のイメージ変わっちゃったな」
「悪い意味でですか?」
「んー、どうだろう。どっちもどっちかな。マサヤ君は私のイメージ悪くなったよね?」
「…………」
「正直者ー」
プイっと顔を逸らした僕を見た美幸さんが指をさして笑った。
それに何も返せないまま肩越しにコンクリートの足元を見ると、自分の腕が震えていることに気付いた。
「あんなに力入れるからだよ」
美幸さんはそう言うと僕の手を取った。そしてそのままマンションの縁まで歩いていこうとする。
僕は、反射的に止まった。
「なにするんですか」
半分睨んだようにして問いかければ、美幸さんは少しだけ膨れた。
「靴、取りに行くの。私が一人で行ったらマサヤ君が止めに入るでしょ。……大丈夫、マサヤ君を殺したくはないから変なことはしないよ」
眉をしかめながら彼女の行き先を見れば、確かにそこには彼女ものと思しき靴が綺麗に揃えて置いてあった。
「……信用します」
「信用無いね、私」
そう言った美幸さんは素知らぬ顔でマンションの縁まで行き、靴を指先で引っ掛けて拾い上げた。
そしてそのまま僕より先を歩いて給水塔の影に戻った。
「マサヤ君。本当に学校いいの? それにお家の人心配してるんじゃないの?」
「……大丈夫です。今家に連絡したので」
言いながらポケットからスマホを取り出して美幸さんに見せる。
「それでいいんだ。なんか面白い家族だね」
「……美幸さんの自殺の理由って、家族のことですか?」
「違うよ。なんですぐにその話に戻そうとするのかなー。マサヤ君しつこいよ」
「すみません」
「しつこく抱きしめ続けるから腕プルプルしてるしね」
「そうですね」
言いながら僕はスマホの重さにすら耐えかねていた自分の腕を見た。
するとそれを見た美幸さんが僕の手を掴むと強引に引っ張って僕を座らせた。
「ッ、美幸さん!」
僕は不意を突かれて無様に転んでしまって、瞬間美幸さんに逃げ出されると思って声を上げた。
けれど、美幸さんは走り去っていこうとはしていなくて、むしろその場で半回転した彼女は僕の膝の上に座る様に腰を下ろした。
「この方が、力入れなくてもいいし安心でしょ?」
「…………」
「なんでそんな意外そうな顔してるの。私が逃げ出すとか思ったの?」
「…………」
「ひどいなー」
何も答えられない僕を無視して美幸さんは一人でしゃべっている。会話が成立しているからこそ違うとも声を出せなくて余計に困ってしまう。
すると美幸さんが後ろ手に僕の手を掴んで自分の腰に回した。
「これで私は逃げられない。安心でしょ?」
「……そう、ですね」
肩越しに振り返った美幸さんの顔が近くて、僕はそっぽを向いた。
「ねえ、いつまでこうしてるの?」
「美幸さんが死なないって言うまで」
「死なないから離して?」
「嘘ですよね」
「嘘だよ」
美幸さんは笑って言った。
美幸さんを背中から抱きしめながら、とても長い時間が経った。
日も傾き始めて、定期的に聞こえていた学校のチャイムも聞こえなくなった。汗ばんだ腕が少しだけ気持ち悪くて、それが美幸さんに気取られてしまったらどうしようと思ったけれど、僕は美幸さんを離さなかった。
けれど、空の半分よりも落ちていた太陽を見た美幸さんが言った。
「マサヤ君。ずっとこうしてるの?」
「美幸さんが、死なないって約束してくれないなら」
「警察呼ぶよ?」
「そうしたら美幸さんを保護してもらいます」
「マサヤ君いじわる」
「美幸さんはひどい」
僕が奥歯を噛みながら言えば、美幸さんは笑って「そうだね」なんて言って見せた。
僕は美幸さんと一緒に一度家に帰った。
学校をさぼったことを母親は知らなかったから、いつもと変わらずおかえりなんて言ってくれた。
僕は家に帰るなり母親に「美幸さんに勉強を教えてもらうから今日は美幸さんの部屋に泊まる」なんて口にした。
母は驚きのあまり目を見開いていたけれど、部屋が隣ということもあって面識のあった美幸さんが相手だったから、笑って許してくれた。
けれど、僕たちは勉強はおろか、美幸さんの部屋に戻ることもなくまた屋上へ戻った。
オレンジ色の空は、どこまでも綺麗で、とても儚げだった。
「マサヤ君、明日も学校休み気?」
「美幸さんが死なないって約束してくれないなら」
「そっか」
美幸さんは残念そうでも何でもなく口にした。
僕は胡坐の上にいる美幸さんも夕日みたいに儚く思えてその横顔を見つめた。
「美幸さん、好きです」
「…………マサヤ君、告白し慣れてる?」
「美幸さんが初めてです」
「だよね。いつものマサヤ君からは想像できない」
美幸さんが口にしたいつもの僕は、顔を合わせるのすら恥ずかしくてそっぽを向きながらぼそぼそとした声で話す姿だろうと思う。
「美幸さんは、恋人がいたこと、本当にないんですか?」
少し――かなり気になって尋ねてみた。
すると美幸さんは優しく笑って、甘い声で言った。
「どうして?」
僕は反射的に目を逸らしてしまった。
自分の心の内に、やましい疑念が浮かんでいたのを悟られたくなくて。
「エッチしてもいい、なんて言ったから?」
けれどそれも無意味な抵抗で、美幸さんはすぐに言い当ててしまった。
足元を見た僕に、美幸さんは笑いかけると僕の手を取った。
「いないよ。一度も。そんなこと言えたのは、もう死ぬって決めてたから。だから、何してももういいやって、そう思ったの。もしかしたら、マサヤ君じゃなかったらそんなこと言わなかったかもしれないけど」
最後に付け足された言葉のせいで、僕は変な勘違いを起こしてしまいそうになった。
僕は奥歯を噛んで甘ったるい妄想を砕いた。
「美幸さんは、モテる人だと思ってました」
「それはマサヤ君が私を好きだからそう思ってるだけだよ」
美幸さんはそんな風に言うけど、きっと美幸さんはモテる人だと思った。
明るく笑いかけてくれて、ただお隣さんというだけの僕をかわいがってくれて、人当たりだっていい。そんな人がモテないはずがないって、そう思った。
「美幸さんは、僕の気持ちを知ってても、まだ飛び降りたいですか?」
「卑怯だよ、マサヤ君」
僕をたしなめる声に、抑揚はなかった。
僕はそれが悲しくて、また泣きそうになりながら美幸さんに手を思い切り握りしめた。
「マサヤ君、ちょっとだけ寝てもいい?」
「いいですよ」
僕は座ったまま抱きしめている彼女にそう言った。
美幸さんは、ありがとうと言って僕に体を預けてきた。
その重みがとても温かくて、僕は不意にキスをしたくなった。
「死なないって、約束してください」
「…………」
今度は、ごめんねとも言ってくれなかった。
見上げた空には、星が見えていた。
「もう、二十四時間経つね」
寝起きの体をほぐしていた美幸さんがぽつり呟いた。
何のことかと問いそうになったけれど、それを遅れて理解した僕は問いかけた。
「止めてくれる気に、なりましたか?」
「マサヤ君、手繋いで?」
美幸さんは僕の問いかけには答えずに手を差し出してきた。
僕がそれを無言でとると、美幸さんは僕を連れてまた屋上の縁まで歩いて行った。
僕はもう眠くて、抵抗することはおろか、真っすぐに歩くことだってままならなかった。
「綺麗だね」
美幸さんが、夜空を見上げて言った。
「何がですか?」
僕は、少し期待しながら美幸さんに尋ねた。
美幸さんは、誤魔化すように笑って僕の手を離した。
「あッ、美幸さ――ッ」
完全に油断していた。そう思って美幸さんに飛びつく勢いで手を伸ばした。
しかし、美幸さんは踵を返すと屋上の真ん中に向かって歩き始めた。
僕は胸をなでおろすと空を見上げた。
綺麗だ。本当に綺麗。
朝焼けも、夕焼けもとても綺麗だったけれど、夜空はもっと綺麗だった。
夜空が好きだから、僕は夜景を描いている。夜は、何か知らないことを教えてくれる気がしていたから。
もしも僕が大人だったら、もっと色々な事を知っていたんじゃないかって思う。美幸さんのことも、人の心についても、こういう時どうすればよかったのかも。
夜は、子供にとっては別の世界の出来事で、人に聞かされてなんとなくの輪郭を想像することはできても、見たことも触れたこともないからわからないままだ。
もしも、僕と美幸さんが同い年なら。
もしも、僕が美幸さんより年上で、余裕のある大人だったなら。
子供みたいな方法ではなく、美幸さんを助けることが出来たのかもしれないって。美幸さんが寝ている間ずっと考えていた。
目を瞑って、星に願う。
美幸さんが、死ぬことを諦めてくれますようになんて。
そんなことを願っていると、僕の肩を誰かがつついた。
それが誰かなんて言うのは見なくても分かったけれど、僕は振り返って言う。
「どうしたんですか?」
「戻ろう?」
美幸さんは視線で給水塔の影を示す。部屋に戻る気はないんだというのがわかって僕は落胆した。
「わかりました」
僕が頷くと、美幸さんはよろしいなんてからかうような口ぶりで笑って踵を返した。
僕は全く笑えなくて、首を一回転させてから美幸さんと共に戻ろうとした。
けど、その時に目の前が点滅した。
黒くなったり白くなったりした視界が、ぐにゃりと歪んだ。そのせいで、平衡感覚も狂ってしまって、踏み出そうとした足が地面に付くよりも早く、僕の体は傾いた。
ふらついた、転んでしまう。そう思うよりも早く僕は背後を見た。
僕の後ろには、虚空があった。人の生きられない場所があった。
僕は、それを自覚する間もなく、背中から倒れてしまった。
「…………美幸さん?」
仰向けに倒れ込んだまま、僕のことを抱きしめるようにして押し倒した女性の名を呼ぶ。けれど、返事は返ってこなかった。
僕は、空を見上げながら手に触れるコンクリートの感触に浸った。
死んだ、と思った。
屋上から落ちて、そのまま死んでしまうと思った。
地面に叩きつけられて、そのまま意識もなくなってしまうと思ったのに、僕は今なお屋上にいる。
すぐ真横を見れば、その先には僕が落ちていくはずだった虚空がある。
僕は、美幸さんに助けられた。
「美幸さん、ありがと――」
「マサヤ君、何してるの」
僕が最後まで言い終わらないうちに、美幸さんが耳元で言った。
抑揚の無い声だったけれど、僕を抱きしめる手に全霊の力が込められていた。
「マサヤ君、死のうとしたの?」
「転びそうになっただけです。すみません」
僕はお礼も言えずに謝った。美幸さんは、少しだけ震えながら「そう」と答えた。
「……美幸さん、僕に死んでほしくないんですか?」
「当たり前でしょ」
美幸さんは、泣きそうな声で言った。
僕は、美幸さんを抱きしめた。
「僕も、美幸さんに死んでほしくないです」
「…………」
美幸さんは僕を絞殺すような強さで抱きしめた。
「美幸さん、それが、僕が美幸さんに抱いてた気持ちだと思います」
「…………マサヤ君。わざとやったでしょ」
「何をですか?」
「転びそうになったって、嘘でしょ」
「嘘じゃないです」
「卑怯者」
本当に嘘ではなかったのだけれど、美幸さんは信じてくれなかった。
「私より先に死ぬなんてダメだよ。そんなのずるい。私を苦しめるみたいな死に方しないで」
美幸さんは、僕を立ち上がらせることはせずに、倒れた体制のまま言った。
「死んじゃダメ。マサヤ君は、死んじゃダメなの。お願いだから、死なないで」
「美幸さん、僕死ぬ気なんてないです」
「わかってるよ。それでも言うの」
美幸さんは、子供みたいに僕に縋りついた。
「マサヤ君、卑怯すぎ。学校休んでまで私のこと監視して、普段なら絶対に言わないようなこと言って、私に告白して、卑怯」
「卑怯、ですか?」
「卑怯だよ」
美幸さんは間髪入れずに言った。
「駄々こねてるだけで、しつこいだけで面倒だなって思ってた。死なないでとか、私の気持ちなんて知らないのに何言ってるんだろうって思ってた。それなのに、マサヤ君が好きとかいうから、私、満たされちゃったの。死ななくてもいいかって思っちゃったの。頭の中では死にたいなって思ってるのに、心じゃ死ななくていいって思ったの。だから卑怯。マサヤ君は、ひどい男の子だよ」
「美幸さん、好きです」
「マサヤ君のこと嫌い」
胸が痛かった。けれどそれよりも安心のほうが大きくて、美幸さんを抱きしめたまま、今度は僕が美幸さんの頭を撫でた。
「美幸さん、死ぬのやめましょう。美幸さんが僕に死んでほしくないって思ってるのと同じで、僕も美幸さんに死んでほしくないです」
「マサヤ君本当に男の子? ずっと抱き合ってるのにエッチなことしないよね」
「そういう状況じゃないです」
「紳士だね、私にはもったいない」
美幸さんは少しだけ笑うと、真剣な声音になった。
「なんで死ぬかって、マサヤ君訊いたよね? まだ、知りたい?」
「美幸さんが楽になるなら、聞きたいです」
「いろんな理由が重なったの」
美幸さんは何の抵抗もなく話し始めた。
「学校もうまくいかなくなって、家族ともうまくいかなくて、友達と喧嘩して、バイトで疲れて、もう嫌になっちゃったの。一つ一つはくだらない事なんだよ? 本当に、悩むのだってばかばかしいって思うくらいの。でも、なんか絡まっちゃって、ほどけなくなっちゃった。どこにも逃げ場がなくなっちゃった」
「彼氏とか――」
「私体は綺麗だよ。男の人と抱き合ったこともない。手をつないだのだって今日が初めて。私の悩みきいてくれる人なんて、誰もいないはずだったの」
「僕じゃダメだったんですか?」
「だから卑怯なの」
そう言うと美幸さんは腕をほどいて、僕の目を見た。
吐息がかかるくらいの距離にドキドキする。
「マサヤ君のせいで、私は満たされたの。そんな状況で、私に死んでほしくないなんて、私に価値があるみたいに言うから、いけないんだよ」
「…………もう、死ぬ気はありませんか?」
「マサヤ君、人肌が恋しい。抱きしめて」
僕は美幸さんを抱きしめた。そのまま美幸さんの耳元で囁くように言う。
「好きです、付き合ってください」
「マサヤ君、吊り橋効果って知ってる?」
「知ってます」
「策士」
嫌味のように言った声は、暖かかった。
「マサヤ君。私はすぐに死にたくなるような人です。正直自分でも自分が面倒だって思ってる。それでも私が好き?」
「好きです」
「じゃあ二年待つ。大学に迎えに来て」
「今すぐには、付き合えないですか?」
「情けないから嫌。年下の男の子にこんなに迷惑かけて、死にたいくらい」
「死なないでください」
「だから、二年待ってて。少しはまともな女になるから」
「……たまに、抱きしめたりするのはダメですか?」
「それ付き合ってるのと変わらないじゃん。もしかして生殺し?」
「そうですね」
「よかった、マサヤ君も男の子だ」
美幸さんは笑いながら言った。そしてまた体を持ち上げると、僕の目を見る。
「キスはしたい。今、ここで」
「美幸さんってそういう人なんですか……」
「人肌が恋しいって言ったでしょ」
「僕そう言うのしたことないです」
「私だってしたことないって言ったでしょ。信じてないの?」
「そういうわけじゃないです」
そう言って、僕は体を起こして美幸さんを抱きしめた。
「…………マサヤ君、キスできない」
胸のところで美幸さんが言う。
「心の準備ができないです」
「私はしたい」
「…………」
「はぁ……」
美幸さんは仕方ないと言いたげにため息を吐くと僕の背中に手を回した。
「すみません」
「いいよ、二年後ね」
「はい」
そう言って僕は美幸さんの頭を撫でた。
「でも抱きしめるのはたまにでいいのでしたいです」
「我が儘だね」
美幸さんは甘えた様な声でそう言うと深く息を吐いた。
そして、昨日と同じように小さくつぶやいた。
――もういいや。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
感想等よろしかったら書いていただけると幸いです。