記憶喪失と転移
月明かりより強く、街灯の灯が道を照らす中、男は走っていた。
まさかこの世にこんな化け物が存在するとは思わなかった。
せっかく脱走したんだ、ここで捕まる訳にはいかない。
そう思いながらも、男の身体は疲労を訴え、休憩を促している。
施設から続く一本の道、抜けて国道に降りるのも悪くないが、建物も身を隠す障害物もないのでは息を整えることは叶わない。
男は脇にそれて森の中に入る選択をした。
背の低い草花と、そこそこに立派な木々を縫うようにして化け物を巻こうとしたが、疲れを感じさせない軽快な足音が聴こえてくる。
そろそろ体力の限界だ。
そう思った矢先、開けた中に一本、絵本の世界から飛び出して来たかのような立派な大木が、そしてそれには人が何人も入りそうな洞があった。
迷わず入った。
ここでしばらく息を整えることにしよう。
生き延びて、真実をみんなに伝えるんだ。
だが現実は非情だった。
足音が近づいてきた、ここにたどり着いたらしい、見つかるのも時間の問題だろう。
絶望した。
そのとき、洞の奥に白色の光が見えた。
男は光に近づき、中に入って行った。
あれから2時間は走っただろうか。
化け物の足音は聴こえなくなっていた。
赤、青、桃、白、様々な色の花を咲かせた自分の背丈ほどの草と20メートルほどはある木々の中を抜けると、土手のようになっていて、下には黄土色の地面が広がっていた。
そこには少女が居たのだが、僕には何を言ってるのかまるで分からない。
意識はそこで途切れた。
瞼の裏にまで届き、刺さるような日差しに起こされた。
ベッドから身体を起こし辺りを見渡すと、椅子が一脚と大して本の収納されていない本棚、少々大きめなクローゼットが置かれた石造り部屋に居た。
ここはどこだろう、と考えていると、部屋に先ほどの少女が食事を持って入って来た。
少女は食事を持ったまま、椅子に座り訝しげな様子でこちらを見つめてきた。
アジア人ではないと分かる外国人風の整った顔立ちに茶褐色の長い髪に綺麗な茶色の瞳、肌は白いが病人のそれではなく、至って健康な感じの白で、服装は白のシャツに赤色の長めのスカートを履いていた。
「お前、ジャポネか?」と少女が聞いてきた。
「ジャポネ?何それ?」と返すとは少女は違うのか?と少々驚いた様子で聞いてきた。
「僕にはジャポネがなんなのか分からないんだけど。」
「ジャポネっていえば人種以外に何があるんだよ。」と少女が答えた。
どうやら僕は謎の人種と間違えられているらしい。
「僕は日本人だ。ジャポネって人種は知らないな。」
「ニホンジン?そんな人種は初めて聞くな。」と少女は言った。
ふざけているのだろうか?日本語を喋っているのに日本人を知らないなどあり得ないだろ。
そんなことを思っていると、少女はまぁどっちでもいいやと呟き、「わたしはソノラ、お前は?」と言った。
「僕は―」
言いかけたところで気づいた。
平常時ではあり得ない量の汗が出て肺が酸素をどんどん要求し呼吸は荒くなり、心臓は止まりそうなほど激しく動き動悸がした。
自分の名前を思い出せなかった―。