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田脳世界 ~アナクローム幻想記~ 散歩の日

 習作の壱

 久々に川縁の路を歩いていると紫陽花が色を広げて待っていた。ついこの間まではツツジの赤が開いていたはずなのだけれど、早々に店仕舞いを迎えてしまったらしい。季節の移ろいが早いのか、認めたくはないけれど自分が歳をとったのか、少しばかりニヤリ唇を歪める。

 日曜の終わりから土曜の始まりまで、休日を心待ちにする気持ちは曜日が過ぎることばかり気にして、もっと大きな季節の過ぎゆくことには心を鈍らせるようだ。

 また来年と、もはや後片付けを終えたツツジの低木の葉の青さにふと気付かされた。いつだってこれだ。過ぎ去ってから気付くのだ。なにもかも、そうなのだ。

 そんな風に思っていたなら、ねめつけるような視線に気付いた。ここに紫陽花が咲き誇っているというのに、まだ昔の女に未練があるのかと機嫌を損ねていた。

 あぁ、すまない。さすがに声には出さないが、軽い会釈で詫びてみた。赤に青、名前のままに鮮やかな紫が並ぶ。これで同じ紫陽花だというのだから、その七変化には毎年のことながら驚かされる。

 梅雨入りはしたけれど、空はあいにくの晴れ模様に青が広がっていた。紫陽花は陽光のしたで鮮やかに輝く。その花に目を奪われながら、心は少し浮気していた。

 一昨日までは雨だった。昨日は晴れで、だと言うのに家を出るのが億劫だからと日の過ぎるままに任せてしまっていた。ほんとうに、なにごとも過ぎ去ってから気付くものだ。

 そんな心など露知らずの紫陽花が色とりどりの並木道。雨上がり、紫陽花も滴る水に化粧したなら色香漂う。花弁に跳ねる陽光も、またいっそうの輝きを纏っていただろうにと、花の見頃を逃した自分の迂闊に気付かされる。

 露知らずの紫陽花は活き活きと、だが、少し子供っぽくも感じさせた。丸みを帯びた花模様は、晴れの日には子供のそれを感じさせ、雨に濡れれば女のそれを感じさせ、雨晴れの合間にだけ咲くその花は、輝きを放つ清らかな乙女の姿にも見えるものだった。

 花の見頃はとかく難しい。赤に青、紫色にキャッキャとはしゃぐ紫陽花の子供達を前にして、少しばかり不埒な思いを抱えながらに立っていた。

 ゆっくりと川縁の路を歩み、紫陽花の色が移ろうのを目にして、赤と青、どちらが酸性でアルカリ性だったかと思い出せない自分に気付き、やはり歳かと苦笑う。それを覚えてから幾歳月が経っただろうか。それを思い出そうとし、やはり数えないことに決めた。具体的な数というのはこれで残酷なものだ。

 歳を取ると時間の過ぎゆくが早いと言う。けれど、月から金までの時間は間延びしたようにも感じられる。土日ばかりが光の速さで過ぎゆくのは何とも道理のあわない話でもある。時間の早いか遅いかは、どちらか一方に固めるか、あるいは逆にしてもらいたいとさえ思う。

 足の歩みを緩めれば、時計の針も緩んでくれる、わけではないが、そうあって欲しいと願うくらいは許されるだろう。赤の紫陽花から青の紫陽花へ、色の移り変わりをゆっくりと目に楽しみながら、こうして時間と足は進みゆく。

 歩む道先に、かつては桜並木であった樹が青々とした葉を茂らせていた。葉桜もまた風流と歌人は詠うけれど、桜であった季節からこうも遠くてはただの街路樹にしか見えないのだから、これも不思議というものだった。

 ソメイヨシノの桜を過ぎて、新緑の葉桜も遠くになり、そうした美しさが隠していたものが見えてくると、悲みを覚えた。ただの街路樹として見たなら、そこには人の業が見え、そこには街路樹の定めが見えていた。

 川縁の路は人も歩けば車も走る。人に触れるとか、車に当たるとか、電線に絡むとかの枝葉は切られて焼かれる。桜の樹の節々の、自然にはない真っ直ぐな切断面が否が応でも目について、切ないであるとか、悲しいであるとか、言葉にも詰まる感情が胸のうちを通りすぎていった。

 春には花に目を奪われ、花が散れば若葉に気をとられ、すべてのものが通り過ぎていったあとにまた気付く。いつだってそういうものなのだ、そういうものなのだと、足を進めるほどに通りすぎた路の長さも伸びていった。

 歩くうち、桜並木に混じった青イチョウの樹が目に留まる。

 春にはサクラの色に染まり、秋にはイチョウの黄色に染まる。勝手知ったるいつもの散歩道だからこそ気付いたのだろう。紅葉前からイチョウの葉はイチョウの形をちゃんとしていた。イチョウの形の青葉を目にし、なぜだかそれにホッとした。

 人の都合で植えられて、人の都合で切られても、桜もイチョウも素知らぬ顔して伸びるばかりだ。人の都合にあわせて枝葉を生やす気などさらさら無いようだった。人のお仕着せに不自由を感じるのは、やはり人ばかりなのだろう。

 ふと、過去がよぎった。

 ソメイヨシノが緑の葉に染まる季節、どうしてそれが桜だとわかるのか問われた。桜の樹はよく苔生すものだ。街路樹で、幹が苔生し、葉にこれといった特徴が無ければ大体がソメイヨシノに違いないと答えた。

 まだ、覚えているだろうか。覚えていなくても仕方がないのだろう。なにせ自分からして紫陽花の赤と青のどちらが酸性かアルカリ性かを忘れてしまっているのだ。棚に上げて人にばかり覚えていろとも口にはできない。

 街路樹に浮気していた目を紫陽花の並木に戻せば、そこには変わらず赤に青、紫色も鮮やかな彩りが待っていた。

 赤と言うより桃色で、青と言うより浅葱色で、紫と言うよりラベンダー色の花弁も数々あったが、他の花色で表されても紫陽花の奴は拗ねるだろうとかぶりを振って頭から追い払う。

 季節を間違えた早咲きの桜があれば、季節遅れの遅咲きの紫陽花もあった。橋の欄干の影になり、そこだけは少しばかり季節が遅れているようだった。

 未だ赤にも青にも紫にも染まらぬ、白っぽい葉の色をした紫陽花のつぼみたちは、それはそれで一つの花のようにも見えた。その若草の花を見て、ライムグリーンという言葉がさっそく思い浮かぶあたり、人間なかなかままならぬものだ。

 バツ悪く、紫陽花から目を逸らせば下映えに白詰草の鮮やかを見て、タンポポの終わりを知った。どれ、この下映えから四葉の一つでもと思ったが、無心で四葉を探せるあどけない心こそが幸せの象徴なのではないか、と思って止めた。幸せになりたいと思って探すものでも無い。幸せになって欲しいと贈るために摘むものだ。

 白詰草の盛り時にはタンポポは綿毛に、ツクシはスギナに変わっている。あの、可愛らしいツクシの子がモサモサとした草になり果てているとは、子供が大人になる、その残酷の一面が見えた気もした。

 オタマジャクシは蛙になり、ツクシはスギナにいずれなるものだと知りつつも、ずっと愛らしいままで居て欲しいと思うのは人の勝手な心なのだろう。杉の葉にも似たボウボウの草を見て、さすがにツクシの面影を感じることは出来なかった。

 思えば、桜並木にイチョウ並木、ツツジの並木に紫陽花の並木と忙しない川縁の散歩道だが、今の時勢の散歩道とはこういったものなのだろう。冬は除いて春夏秋と三度は楽しめなければならないのだろう。冬時は散歩にでるのも一苦労なので、これは無くても誰も文句を言わない。

 植え鉢のポピーの花が目について、サルビアの紅い房が目についた。

 なにやら悪戯な心が湧き上がる。右を見て、左を見て、もう一度右を見て、川の向こう岸まで見据えてから、靴紐を結ぶフリしてサッと房に手を伸ばす。咥えて吸うサルビアの蜜は背徳の味がした。それは甘美な味だった。

 子供の頃であればサルビアを根絶やしにする勢いであったが、そこは大人になり分別を弁えただけ、摘み取る房も三つまでに留めておいた。四つはさすがに多すぎる。

 砂糖水と花の青臭い味。そればかりが舌の上には広がった。

 どうして子供の時分には、これを枯らす勢いで貪っていたのか不思議なくらいの味だった。美味しいは美味しいが、そこらの自販機に小銭を入れたほうがまだ美味しい。甘味に飢えるほど昔々の人間でもなかっただろうに、思えば不思議なものである。

 あるいは、子供の自分も背徳感を調味料として、サルビアの蜜を啜っていたのかもしれない。在り得る話だ。子供というのは駄目と言われれば言われるほどにやりたがる、そういう捻くれ者ばかりだ。そういうものだと記憶している。

 大人になっても捻くれて蜜を啜るばかりもどうかと思い、蜜のお礼として花弁を揉んでは受粉を手伝う。花が蜜を溜めるのは受粉の為だというのだから、これでトントンになるだろうと心のなかでサルビアとの何やらの精算を終えた。

 さらに散歩の路は続いた。

 歩みを進めて行くと一つのお寺に出会う。田舎の町とはいい加減なもので、神仏習合に廃仏毀釈の時代を経ても、未だに神社かお寺か判別の付かぬところがある。

 そして、人間の都合以前からずっとそこにある神木は、そんな人の都合など気にも留めぬものだった。神社が寺になろうとも、寺が神社になろうとも、江戸の昔からある神木は神木のままに在り続ける。

 小学生であった頃、枯れる枯れないと騒がれた御神木であったが、今になって見れば立派に枝葉を生やし、威風堂々たる姿で立っていた。これからも神社の境内であるか、お寺の境内であるかの内で伸び伸びと生き続けるのだろう。

 そんな神社ともお寺とも付かない建屋の軒の片隅に、日干しされている木片を見つけた。気になり軒の裏手を覗いてみると、そこには薪が積んであった。神木も、折れてしまえばただの薪かと、それにはなにやら面白ささえ感じたのだった。

 ならば自分も良かろうと、またも悪戯心が湧いて出た。

 その寺の檀家でもないというのに立ち入った。そこにはちょっと小粋な呼び鈴があった。お寺らしいあの除夜の鐘のミニチュアが一つ。それを木槌でコンと叩けば、鐘の音がチーンと鳴り響いた。小さいからか、ゴーンとは鳴らぬものらしい。

 迎えてくれた御住職に、小振りの枝の一本を頂けないかと申し出た。考えてみれば、意地の悪い願いであったかもしれない。お寺の住職である人が、枯れた小枝の一本をケチるわけにもいかないだろう。断るわけにもいかないだろう。願い出てからようやく気付く、やはり遅い。

 たかが枯れ枝一本、されど神木の枯れ枝一本、御住職の内心は図れないものだがこうして易々と手にしたのだった。

 これで今日の散歩道は終わりを告げ、傍目には枯れ枝を持って歩く怪しげな男が一人残った。家路の道すがら、大の男が棒切れ持って歩く姿はなんと思われたものだろう。

 知らぬ者にはただの棒切れ、知っている者には神木の切れ端、あるいは薪の成り損ないは今も部屋にある。これといってこの棒切れが何かになる予定は未だない。


 字詰めした横書きでも大丈夫だと思うのだけど、やっぱりこれでも逃げる人は逃げるんだろうなぁ。

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