高田くんの読書感想文。百冊くらい纏め。
なにやら妙なことになったなあ、とばかりに高田の人は幾多の書物を前にして途方に暮れていた。横のものを縦にしてもなにやら違うし、縦のものを横にしても場違いの感はやはり拭えぬものだ。世に縦横無尽と言うけれど、物書きがそれではイカンと言われるのだから世の中とはままならぬものだなあ、と胸には釈然としない思いすら抱えていた。
世に縦書きの文化ありけり。これ、一般に売られている書籍の倣いである。
世に横書きの文化ありけり。これ、一般にインターネットの倣いである。
縦には縦の道理がある。横には横の道理がある。それこそが世の道理というものである。
縦社会においてはお盆も盛りの帰省ラッシュのごとき文字の車列の渋滞が好まれる。けれどもそれは縦社会においての倣い、横社会においては文字の目詰まりは嫌われるものだ。そこでは改行の多いこそ喜ばれ、改行の少ないは悪文ともされる始末。世の縦社会というのも理不尽が尽きぬものであるが、世の横社会というのもなかなかに理不尽を感じさせる。
昔日、改行と言えば段落を意味するものであった。だが今日、改行と言えば改行でしかない。横書き社会において段落を表すものが何になるかといえば二重改行になる。あるいは空行と呼ばれるものになるだろう。しかしこれがまた一つの問題を生む。縦書き社会において空行とは場面転化に用いられるものであるからだ。あちらが立てばこちらが立たぬとはこのことであろう。
果たして高田の人は途方に暮れなずむ。斜陽の夕暮れ、空が桃色の吐息に満たされる日暮れ時、肌の白いは女の七難隠すと言うけれど空の紅いは女の幾難隠すと言うのだろうか。その美しさときたら魔性である。だがそれも一時のこと、傾いた日はいずれ没するのみである。いずれ夜は来たる。
昼には昼の良さがあり、暮れには暮れの良さがあり、夜には夜の良さがある。
日が落ちるのではない、星が瞬くのだと語ったのは誰であっただろう。きっと田の人だろう。あるいは下町のナポレオンがついつい口を開かせたのだろう。昼間から酒とは羨ましくも世間から後ろ指さされるものだ。グラスを紅く染めるワインであればこれも似合いの一景であるのだが、日本酒であるとか焼酎であるとかの色なしの酒には夜帳の深みが良く似合う。
桜咲く、舞い散る花を酒に乗せ、花愛でるなら昼が良く、酒愛でるなら夜が良く。月の灯りに星灯り、電灯までも色づきて、宵の桜は妖しくもあり。
これは彼の歌人、愚田和尚が酔いどれながらに詠った一句であるが本文とは一切関係ない。であるから与太話はそこそこにして本筋に話を戻そう。
縦社会に横社会、その二つに対して真面目に取り組んだなら斜に構えるばかりである。かと言って、ななめった文章を書いたならば双方からどちらつかずと嫌がられるものだ。こうして無情の世に高田の人は思い悩むのである。
なにが彼をここまで追い詰めたのか、それは芥川賞やら直木賞やらの一群であった。もともと文芸嫌いで読まずに居たわけであるが、良薬も口に苦しと言うではないかとついつい図書館をはしごしてしまった次第である。良薬は口に苦いものであるが、毒薬も口に苦いものであることを高田の人はついぞ忘れていたらしい。結果の消化不良であった。
人の闇と書けば字面よくブラックコーヒーの苦くも大人びた味わいに感じられるが、その実態となれば人の醜聞である。いわゆる文芸とかいうものは、世間から一歩二歩ほどはみ出した人々のどうしようもなき底意を書きつらねたものが多い。いわゆる世間の人とかいうものには面白く感じられるかもしれないが、そこは高田の人のことであり、世間から五十歩百歩と厭世極まった身の上からすればさして面白くも感じられぬものであった。彼が文芸を嫌う理由である。
世の正道を歩む人には外道邪道の横道を垣間見ることは物珍しくも楽しけれど、世の横道を歩む彼にとっては日常のそれである。人間が汚いであるとか、愚かであるとか、弱く儚く脆いものであるとかは常々のことであり、今更ながらにそれらを語り聞かされても信号は青なら進め、赤なら止まれ、黄色は常々判断に迷うものだと愚痴を聞かされる気分であった。
純文学ともなればことさらに酷い。花は綺麗。ただそれだけの当たり前を百文にして語り聞かせてくるのだ。そのようなものは一見で済む。モノクロよりも目に鮮やかで季節さえ感じさせる。風がそよげば草花もざわつきをおぼえ、雨降れば水の雫に紫陽花は濡れ艶やかに、鉄さび色のガードレールに身を寄せた蔓草は十年の歳月を一日のうちに納めてしまう。
空に月、暗闇に星、隠すも隠さぬも雲の気持ちという夜空。それを前にしながら何が悲しくて夜更けに文字を追わねばならぬのか。隕石か何かで粉々になったあとになら月物語を読みもするけれど、未だ月は天にあり、花は地にあり人もまた。
こうもなってくると文芸のレーゾンデートルそのものが怪しくなってくる。高田の人はさておいて、田の人にとっても愚田の奴にとっても日常の風景のポートレートに他ならない。人生の何気ない一日を写し撮った写真である。それも赤の他人の写真である。なにが悲しくて(ry
だから高田の人は非現実にこそ強い憧憬を抱くのであるが、彼ときたならば根っこが深くてままならぬ。どうしてそこまで根っこを伸ばしたがるのか不思議なタンポポほどに根が深い。業も深い。彼の手は萌えキャラなる天上の人々へなかなか届かぬ。それでも僅かずつにも背丈を伸ばし、あすなろう、あすこそ檜になろうと物書きが鼻を伸ばしつつあったのに、ポキリである。芥川賞であるとか直木賞であるとかの一群が彼のうえをドカドカと通り過ぎた跡にはペンペン草も残らなかったのだ。
いままであった高田の人とかいうものは踏みにじられて、いまある高田の人と来たならば何やら妙な具合なのだ。横書きになじめず、さりとて縦にもできず、高田の人が斜に構えたるは常々のことであるけれど、文章だけはそうもいかない。縦には縦の読みやすさがあり、横には横の読みやすさがあり、ななめった文章とは双方から嫌がられるものだ。
文字の書き方のみならず、登場人物やら世界にまで芥川やら直木やらの連中は絡みついた。もっと深くに掘り下げろと高田のゴーストが囁くのだ。もっと汚らしき人間らしき弱き一面をえぐり出せと囁くのだ。しかしながら掘り下げたところで求められていないのが世の現実というものである。人の世という濁り水の微かな上澄みの美しさこそ疲れた人は求め飲みたがる。なにが悲しくて濁り水の底にたまったヘドロの澱を掬い取らねばならぬのか。そしてそれを見せつけねばならぬのか。ヘドロはヘドロ、見るにもつらく、飲むには適さず、書くにもつらいものがある。なのに描けと高田のゴーストが囁くのだ。
図書館をはしごして飲み干したものが良薬であったのか毒薬であったのか、はたまた分量を間違えればなんであれ毒であったのか、未だにそれはわからない。下手にゴルフを覚えたばかりに野球の振りがおかしくなったのかもしれない。どちらにしても高田の人がいささか具合を悪くしているのは確かであろう。
スランプは不調をあらわすものだが、この場合は壊れたであるからクラッシュが似合いだろうと高田の人は考えた。横になじめず縦にもなれず、アッサリ海鮮でもなければギトギト背油にもあらず、縦横無尽の文章ときたならば支離滅裂なる之の文章こそがそうである。
端的にのべれば落ち着きに欠けるのだ。挙動が不審も良いところなのだ。濃淡激しく純文に寄ったり大衆娯楽に迎合したりと忙しなく、これでは書いているだけですっかり疲れてしまう。それを読むとなればことさらにだろう。楽しむために文字を目で追う人はあっても、疲れるために文字を目で追う人など居はしない。少なくとも高田の人は御免である。
付けて焼いた刃は未だ未だに身につかずのまま。
なにやら切れ味悪い駄文を書いて、それを目にしては溜息つかれる。
書いては捨て書いては捨てを繰り返しては、いずれいずれの着地点を模索するばかりの日々。
こうして、なにやら妙なことになったなあ、と高田の人は途方に暮れるばかりなのであった。