散策文
学べば学ぶほどに不自由になっていく。私にとっての表現とはそういうものだ。
私にとっての知りうるところがあり、貴方にとっての知りうるところがあり、その見識の重なり合うところのみが文学の舞台である。互いに知りうる重なりの劇場でしか言葉は躍ることを許されさず。これが不自由以外のなにものだというのだろうか。
私と貴方であるからこそ、ここまでの表現もまた許されるというものである。
まずは、ありがとうと謝辞を述べたい。
理解してくれてありがとう。こうして言葉が喜びを伝える。
読み書きそろって初めて言葉たりえる。いくら書こうとも、読めなければ、それは字でなく模様である。半端に読めることにより不快を訴える呪詛にすら見えてくる。難解極まりない悪文に出逢うたび、私は暗号文を読まされている気にすらなる。
ならばいっそのこと書かざれば良い。空白の紙面ならば、それはメモ帳として重宝するはずだろう。
経線すらも表現である。この線に沿って書くが良いと常々述べている。
四百字つめの原稿用紙もまた表現である。このマスを埋めるが良いと常々述べている。
白紙ではこうはいかない。文字の大きさ、文字の角、全てばらばらにて、手前大きく奥になるほど肩を竦める手書きの文字列。お前は奥の細道か?
ハガキをだす文化と言えば年賀状であるけれど、宛て名くらいはせめて手書きにてと思えば、やれ行間が、やれ大きさが、一苦労の後にやれやれなものが出来上がる。
かくて我らは機械化文明の手先に成り果てる。貰った側もプリントアウトされた文字の方がよろしかろう。書いた側もプリントアウトの方が楽でよろしかろう。配達する人のことを思えばますますのごとくよろしかろう。と、自身への言い訳も完璧である。
汝、キヤノン派であるか? エプソン派であるか? あるいはヒューレットパッカード派であるか? あるいはブラザー派であるまいな?
前二社、キヤノンとエプソンを知らぬということはないだろう。怪しくなるのは後ろの二社。ヒューレットパッカードはhpのロゴで知られる生命力の会社。ブラザーはミシンで知られる兄弟である。
年賀状に始まり、プリンターの話と間を置き、キヤノンにエプソンと並べたるからこそ、ヒューレットパッカードもブラザーも同じくプリンターを売りに出している会社なのだと察しがつくというものだ。
へー、ブラザーってミシンだけじゃなくてプリンターも作ってるんだ。その一語を貴方の中に一石投じるためにここまでの言葉を要する。ともすれば、ミシン屋としてのブラザーを知らぬために、ここまで来ても何のことやらの人も多くあるかもしれない。
今どき家庭にミシンが無い家も多かろう。むしろ、学校の一室にこそ置いてあるものだろう。
そもそもにおいてミシンとは何ぞや? とまで遡らねばならぬこともある。自動縫製機械、ダダダと音を鳴らし、己が手指すら縫い付けかねぬ我の宿敵である。先端恐怖症ではないというのに、ミシンは怖い、これ不思議な感情だと自身でも思う。
さて閑話。
話にいったん水を差そう。口に水差しは好まれるのに、耳に水差しが嫌われるのは入れる所を間違えたためであろうか? まぁ、とにかく耳でうがいをして心を落ち着かせてほしい。
文章表現に始まりミシンに終わる。続く言葉はなにになるか、これにてこの文章の流れが決まることになる。話のテーマだ。話題の主題の選択だ。
表現の社会について述べても良い、機械化文明社会について述べても良い流れが出来た。
時流に乗るという言葉があるが、字流に乗らねば読み難き文章の出来上がりとなる。いきなりここから男と女のロマンチシズムの差異について話を振られても困るというもの。その選択肢はないのである。
ものごとには流れがあり、これを読まねば空気が読めぬとなじられるのである。
どれだけ男と女のロマンチシズムの差異について語りたくとも、筋をとおさば道理がとおらぬ。表現の話を膨らまし、あるいは機械化文明の話を膨らまし、その筋に話を通さねばならぬ。これもまた二人語りの不自由である。
独り言であれば突拍子もなく話題を変えても良い。だが、二人語りとなるとそうはいかない。
このような文章にかぎって明治の文豪を模してしまう高田の人といえど、そこまで自由気ままな文学の散策は許されぬ。あるいはいっそ逆手にとって、主題などなく、ただ文字の流れるままにうろつき回るも良しとは思う。
思索の散策。散歩の道草に伴連れがあっても良いだろう。
結局なにが言いたかったの?
いや何も、世間話とはそういうものでしょう?
これで済むなら幾万文字でも書き綴れるのだが、小説となるとそうはいかない。物語となるともっといかない。桃太郎が犬キジ猿をつれて竜宮城に向かってはならない。なんともはや堅苦しいものである。
まず泣いた赤鬼を子供たちに読み聞かせる。つぎに桃太郎を読み聞かせる。子供たちはポカリとした顔で、激しいジレンマに襲われることだろう。大人にとってはビターなテイストであるが、子供にとっては玩具を投げつける始末である。
鬼ヶ島のなかにも人間と仲良くしたい鬼が居たかも知れないじゃないか!
子供たちは憤ることだろう。一部の極悪非道なる鬼のために諸共に赤鬼さんを殺した桃太郎、桃に帰れとシュプレヒコールの子供達に、けちょんけちょんに貶されること大請け合い。
ここで起きた耳に水差し、物語るの順序を入れ替えてみよう。
まず桃太郎を読み聞かせ、つぎに泣いた赤鬼について読み聞かせ。鬼と言えば極悪非道と決まったものが、くるりと常識ひるがえし、子供たちの笑顔にもまた陰鬱たる墨を落とすことだろう。
桃太郎とともに鬼退治に出かけた後に、赤鬼さんの話を聞かされて、抱える気持ちは罪悪感。心の中にて貴様が切った鬼の中に、どれだけの赤鬼さんがいたであろうか? さぁ、答えてみせよ子供等よ!
かくごとし、物語るは順序が実に難しい。
同じ文言であるというのに、語り前後の逆で文字の躍りは違うのである。
桃太郎はいうまでもなく勧善懲悪。悪鬼羅刹を相手に大立ち回りの冒険譚。燃え盛る油のごとし。
しかして泣いた赤鬼は勧善懲悪に水を差すもの、ラブロマンス。青鬼の優しさ。赤鬼の人恋しさ。人々の排他性。
燃え盛る油に水差せば、大爆発のうえキッチン火災の元である。ご用心ご用心。
・泣いた赤鬼 ~ザ・グランドフィナーレ~
こうして青鬼さんの機転により村の人々と仲良くなった赤の鬼。しかし、家に帰ればこだまする「ただいま」の声。
寂しさに暮れるはポカリと空いた胸の穴。それは心の臓を貫く虚空。
それでも一年、三年、五年と月日が経つにつれて、記憶というのは色褪せていくものです。
青鬼さんが去った心の傷も、村の人々との暖かな交流により、僅かばかりに癒されていきました。
村の人々が開墾したいからと木を伐り運ぶを手伝い、村の人々が田畑を耕したいからとこれを手伝い、イノシシが暴れ回ってどうにもならぬというからこれを倒し、赤鬼さんはいつのまにやら赤い天狗の鼻となっておりました。
しかし人は弱く、儚く、脆いもの。
しかし人は強く、賢しく、業深きもの。
あるとき村を襲った落ちぶれた武者たちを、えいやあとうと、赤鬼さんが退治しました。
鬼の膂力たるは凄まじく、腕の一振りにて四肢が千切れて首が飛ぶ。
鬼の体躯もまた凄まじく、足の一踏みにて人であったものが鎧とともに血袋と爆ぜ。
鬼の本懐、人を殺したる。まがつ凶事がまがつ凶事を打ち倒す様は、勧善懲悪なせりか?
自らを脅したる凶賊も恐ろしければ、それを駆逐したる赤鬼もまた恐ろしく。
己の内より湧き出る疑心暗鬼にも打ち勝てず、これぞ村人たちの本懐でした。
時が去れば想いは去るもの。なれど怖れは残るもの。
恩を恩とすら覚えておけぬが人の業。けれども、脅威は脅威と覚えておけるが人の業。
恩には恩をと言うけれど、自らの膂力にて満ち足りた赤鬼に弱み無く、つける枷なし。
支え合いではなく、一方的に赤鬼さんに頼るだけの関係は、村人たちを怯えさせました。なにせ赤鬼さんには村人をとって喰らって困る理由など、一つ足りともありはしなかったからです。
鬼は、強すぎました。
一つの村に納まるほど、弱きものではありませんでした。
大は小を兼ねれども、小は大を兼ねず。村という器は赤鬼にとって小さきに過ぎました。
五年が経ち、十年が経ち、世代がめぐるころには赤鬼さんは人の親しき隣人ではなくなっていました。
どうか暴れたもうなと、かしこまれる荒ぶる一つの神として祀られるに至り、赤鬼さんはようやく身の程を知りました。
人々は赤鬼さんなど見てはいなかったのです。
その身の内に荒ぶる力のみを見ていたのです。
開墾の役に立つ牛馬のごとく。凶事を払いのける神風のごとく。
田畑を荒らし人々を喰らう悪鬼のごとく。凶事そのものである颶風のごとく。
人の心は人ですら知り得ぬものであるなら、まして鬼の心など誰が知りようものか。
かしこみかしこみ祀りたもうて、いっそ何事もしてくださるなと祈られるばかりの日々。
そこにはかつて憧れ見た、人と人とが仲睦まじくするさまなど無く、あるのはただ畏ればかり。
人の弱さが悪いのか、己の強さが悪いのか、ホロリ赤鬼さんが涙を零すにいたり、青き心の広き空を知りました。
そうして赤鬼さんは旅に出るのです。
この広い青空の下、きっと孤独に嘆いているであろう青鬼さんの姿を探し求めて。
~完~
ナイター赤鬼さんの顛末とはこのようなものであろう。青鬼さんを犠牲にせねば仲良くなれぬ仲などこのようなものであろう。まして相手は村の衆。赤鬼の荒ぶる力を目にすれば、その心根の優しさすら目に入らぬもの。
それが人というものであればこそ。
赤鬼さんを受け止められるのは青鬼さん。青鬼さんを受け止められるのは赤鬼さん。
故郷というものは離れてみるまで故郷にはならぬもの。去って初めて故郷を振り返ることが出来るもの。去って去られて初めて気付く、互いの大切さ。BL展開。BはブルーのBね。
このように、表現とは不自由なものなのです。文字の流れに抗って、鮭の遡上のごとく己が好き好きには出来ぬものなのです。一見、フリーダムに見えても、高田の人は文字に流されるままに流されるのです。
おのれ文学め、我がてのひらの上で躍らぬか!
今日も今日とて文字を躍らせる者ではなく、文字に踊らされる高田の人は、いつになればプロット通りの作品を書き上げることが出来るのでしょうか?