ディスプレイの中心で我儘を叫ぶ
閉じた市場、一枚のパンピザを取り合う世界ではマーケティングが大事だという。そして、開かれた市場、顧客に制限がない世界では広告戦略が大事だという。車は一台しか持たないが、本は何冊でも購入される。つまり、小説家になろうは開かれた市場なのだ。
そこで重要になってくるのは、いわゆるバズる。ツイッターの炎上にも見られるような、広告が広告を呼ぶ状態。これを生みだすことが重要になってくる。ここで重要になってくるのがハイドリッヒ・ラング理論。過半数をコントロールするためには、過半数の過半数、四分の一を握れば良い。四分の一をコントロールするためには八分の一を、これを繰り返すならば、小さな会議室ひとつだけ握りさえすれば世界を動かせるという理屈である。
一見して荒唐無稽にも見える理論だが、ある種の事柄、ツイッターの炎上騒ぎなどはこれによって幾何級数的広告効果を生みだしている。どんな馬鹿でも、見つけだしたのは最初のひとりだけなのだ。一人の馬鹿と一人の発見者から発生した現象が、社会問題にまで発展した事例は事欠かない。
さて、これを「小説家になろう」に対応させるとなれば、じつは簡単なことである。組織票だ。むろん、表立って行為におよべば批難の的になる。だが、悪名であっても無名よりマシという言葉もある。日時を定め、一斉に評価を行えば、一定の水準にある作品ならば長期に渡りランキング上位に在り続けることが叶う。
つまり必要とされるのは一本のマッチ、瞬間風速的に発生する勢いであり、完結ブーストなどはこれにあたる。ブックマークして追いかけ続けてきた物量が、即座に評価へと転じれば、そうなる。
あるいは、〇月〇日は誕生日。〇日に新章突入! などもあるだろう。グレーの領域に達するが、確実な黒とも言い切れない。広告は購買欲を煽るもので、消費者が車を購入したとしても、そこに違法性はない。ある一定の時期に評価をしたくなる、そんな広告を打つこと自身はなんら規約にも抵触しない。
組織的な票の動きはあるが、共謀的な性質がない、つまりは相互クラスタの要素が存在しないぶんには、正当な評価のうちということになる。ただ、その時期を広告によってコントロールしただけの話だ。
評価してください、ブクマしてください、これはもちろん駄目だ。
評価やブクマをするなら、五の付く日にしてください。これはグレーだろう。
自分が評価やブクマをするときは、五の付く日にしています。これはオフホワイトだ。
完全な白とは、そもそも広告しない以外には存在しえない。
更新しました。このひと言さえ、裏を読めば評価とブクマお願いしますなのだから。
そこまでわかった上で髙田の人は思う。メンドクサイ。
なんか、男らしくない。これが全てになる。
完全に沈黙をたもち、その上で認められる物書きになりたい。
自己顕示欲と承認欲求は似て非なるものだ。
自己顕示欲とはただ人の目を引きつけさえすれば充たされる。
なにも小説を書くなんて面倒くさいことはせず、某所の掲示板でも荒らせば良い。じつに簡単に満たせる欲求だ。
それに対し、承認欲求は複雑になる。
まず、誰に見て欲しいか、つぎに、どのように見て欲しいか、その組み合わせ次第で、さまざまな形をとりうる。自己承認などが実に顕著だ。自分が、自分の格好悪いを許さない。ある意味で自罰的であり、また、倫理規範を守らせる要因にもなる。
自己、他者、社会、その三つにまたがる承認欲求と組み合わせの通りを考えたなら、これはもう無限の色彩を見せる。自己とは己。他者とは家族や同僚など。なろうの読者などは社会に属する。ゲームのギルド仲間は少し難しいが、他者と社会を跨ぐ位置にあるだろう。
なんでもかんでも自己顕示欲とレッテルを貼る、自己顕示欲の塊を見るとイライラともする。社会性の承認欲求と呼べと、言いたくなる。だが、彼らのメンタリティを考えるに、反応してやることこそが一番に喜ばせることであるから髙田の人は口を噤むのだ。無言以上に相手を傷つける言葉はない。
こう言ったことを口にしながら思う。
こういう話であれば、何万文字でも書き綴れるのになぁと。
物書きとして名前が売れることがあったなら、そのときは新書コーナーの顔になろう。そうしよう。養老先生のように多少は挑発的で、でも、どことなく優しい文体をもって、無責任なことを語り続けてやるのだ。「馬鹿の壁」に対して髙田の人が書くのは「アホのバカ」だ。もうこれ以上に素敵な題名もないだろう。
そんな素敵な夢を抱きならがら、今日も髙田の人は文章家としての地力を育てるべく、小説の世界へと櫂を漕ぎだすのであった。めでたしめでたし。




