おそとに出せない裏のエッセイ。つまり政治ネタ。
難民がやってきたならば、追い返せ。それでも縋りついてくるなら根絶やしにしろ。ひとり足りとも入れるな。たとえどんな理由があるにせよ。人のこころを凍らせてでも。個人の人道的な感情は、その慈悲を向けるべき相手は、いまだ産まれざる未来の子供たちだ。間違えるな。
髙田の人にしては、あまりに極端で、あまりに残酷で、あまりに無神経な言動だと、髙田を知る人にしても、知らない人にしても思うようなことを、難民問題についてはよく考える。
銃と死体と戦争が隣に住む家で、誰が子供を育てられるだろうか。
わかる。だからシリア、ソマリア、紛争続くアフリカ諸国の人々は列を為して、エーゲ海の波を渡る。地中海の諸島がロマンティックにも望める美しい景色のなかを、定員とは何であったかと思わせる難民の船が渡る。
トルコの港町、イズミルの流行色はオレンジ色だ。ショーウィンドウのガラス越しにマネキンと目が合う。そのスタイリッシュな体のラインを着飾るのは救命胴衣である。それがイズミルのトレンドだ。
とても皮肉な話だ。
これから密入国船に乗り込もうという人々を相手にイズミルの港町はこう告げるのだ。「その船、沈むかもね?」なんて残酷な言い草だろう。そして、なんて人道的な助言なのだろう。
密入国船というのは、もちろん違法行為。イリーガルな商売だ。だから、人道的な配慮などはとても望めないし、エーゲ海の景色をこころ穏やかに眺めることもできない。それが船なのか人の塊なのかわからないような甲板で、風と波に揺られる人の気持ちとはどんなものだろうか。
日本は東京の満員電車。そこから電車のカバーを取り払って走行する裸の台車。振り落とされまいとするサラリーマン。「この人、痴漢です」なんて、声をあげる余裕などありはしないだろう。もちろん、痴漢を楽しむ余裕もない。
落ちたなら死ぬ。
丸裸の電車から落ちたとしても、救急車がやってきて、当たりどころさえ良ければ助かるかもしれない。だが、死のロマンにあふれたエーゲ海は違う。船は往く、こぼれおちた者を海に残して。
あれは何の映画だっただろうか。「父親たちの星条旗」だったと思う。
歩兵の群れを山と乗せ、硫黄島へ向かう船団。アメリカの若者ときたら、今も昔も変わらないもので大はしゃぎ。調子にのった奴か、それに押された奴か、なんにせよ一人の兵士が海へと落ちた。
まだ笑いながら、落ちた兵士に救命具を投げる若者たち。
だが、どこにでも空気を読まない奴は居るもので、そいつはこう言った。
「止まらないよ。船の列が乱れるから」
さすがに水を被せられたように静まり返る。
原作にはこうある。
「後続の船が拾ってくれることを祈った。だが、そんな話は聞かない」
エーゲ海は狭い海だ。太平洋に比べれば、大抵の海がそうだ。
救命胴衣を着けさえしていれば、助かるかもしれない。ただ、トルコのイズミルからギリシャのアテネまでの距離は、おおよそドーバー海峡に相当する。
四方を海に囲まれ、国民の大多数が、四十代以下に絞ればほぼ十割が泳げる日本人にはわからないかもしれないが、シリアや、ソマリア、紛争続くアフリカ諸国の人々のほとんどは泳げない。プールの25mでさえメタボリックな身体にはキツイというのに、ドーバー海峡ときたら160kmもありやがる。
正直言って、救命胴衣を着けてさえ、泳ぎ切る自信はない。堂々と言うべきことでもないが。泳げる日本人の大多数さえ同意することだろう。そして、密入国船に乗り込んだ彼らの大多数は泳げないのだ。
イズミルの街で大流行のオレンジ色。救命胴衣は、本当に命を救うものなのだろうか。思う。知りながら売る人々の顔を思う。知らずに買う人々の顔を思う。さらに、その救命胴衣ときたら、どこで作られたかもわからない、本当に水に浮くのかさえも怪しいものだという。
空のペットボトルをビニール紐で縛り上げ、服の下につけさせたほうが、よっぽどに人道的だろう。無事に使い終わったなら、ギリシャのコンビニでゴミ箱に捨てられる。環境にも優しい。時代はエコロジー、リサイクルは大事なことだ。
苦労した。犠牲を払った。なけなしの金銭を、それまでの人生を、愛する家族の流血までも代償として、エーゲ海を渡った。地獄、そのひと言が一番に似合う祖国を捨てて、持ちうる何もかもを失って、やってきた難民に髙田の人は言う。
「帰れ」
きっと、この人間はどこかが壊れているのだろう。人間として出来損ないであるのだろう。人として最低限、持ち合わせるべき慈悲のこころさえ欠けているのだろう。ときおり思う。自分でさえ。
世界でもっとも有名な難民の物語は、旧約聖書の出エジプト記だろう。モーセの十戒のほうが有名かもしれない。紅海を割ったという壮大なシーンは映画界の歴史に残る映像だ。
物語はエジプトの王、ファラオのラムセスⅡ世の圧政に苦しむユダヤ人奴隷の風景から始まる。「解放しろ」せまるモーセ。「馬鹿をぬかすな」とラムセスⅡ世。そしてエジプトの地に十の災いが訪れる。
ナイルの川が血の色に染まり、蛙が川から地に飛び出し、吸血害虫のブユがあふれ、アブが飛び交い、疫病が流行り、腫物が生じ、雹が降り、イナゴが作物を喰い荒らし、エジプトの地から太陽が隠され、そして全ての家々の長子が殺された。
こうして根をあげたラムセスⅡ世はユダヤ人奴隷を解放し、モーセが紅海を割るあの有名なシーンに繋がる。そしてシナイの山で、モーセは神から十の言葉を預かる。十戒の石板として有名な、十の戒めである。
このあとの物語が語られることは少ない。
その後、40年もの放浪を彼らは強いられる。モーセはヨルダン川を前にして死に、神より与えられし約束の地カナンに足を踏み入れることは許されなかった。そして、残された人々は、カナンの地に国を作りあげた。先に住んでいた人々を皆殺しにして。
もちろんこれは物語だから、そのまま鵜呑みにしてはいけないが、難民というものの本質を鋭くついたものだ。物語で無いと主張するなら、現実はもっと恐ろしいことになる。
世界でもっとも有名な難民の事実は、現行のシリア問題ではない。前世紀にあったシオニズムに基づくユダヤ人のイスラエル入植だ。本質的に放浪の民であるユダヤ人は、広義の上では、歴史上ずっと長くの間を難民として暮らしてきたことになる。
旧約聖書の出エジプト記は預言書であったのか、予言書であったのか、わからなくなる。海外から大量に押し寄せてきたユダヤ人の津波に飲み込まれ、元から住んでいたパレスチナ人は、高い壁の向こうに押し込められた。
第二次世界大戦中、ドイツはユダヤ人を壁の囲いのなかに押し込んだ。勝手に減るのを待ちもした。安価な労働力としても使役した。養豚場のようなものだ。奴隷をつなぐ家畜小屋のようなものだ。
そして今、ユダヤ人は閉じ込められる側ではなく、閉じ込める側にある。
きっと、ナチスドイツから学んだのだろう。少数派民族を管理し、真綿で締めるようにして皆殺しにする上手なやり方を。
有名ではないところの難民の事実といえば、ダライ=ラマの物語だ。中華人民共和国のチベット侵攻により行き場を失ったチベットの人々は、チベット亡命政府としてインドから土地を租借している。
数ある難民集団のなかでも、もっとも問題が少なく、もっとも成功した例と言えるだろう。背景として彼らはチベット仏教という独自の文化を持ち、観光資源を持ち、世界各地に数多くの支援者を抱えていたこともある。
腹が減るか尊厳が傷つけられでもしなければ、人は諍いを起こさない賢い生き物だ。
これをもって、難民問題に目途がたったような顔をする人が居る。
だが、本当にそうだろうか?
中国はチベットの土地を手放す気など無く、これはつまり、国土租借の期限が存在しないことを示している。貸している、という立場をインドはとっているが、これでは事実上の国土割譲にあたる。
いまさら出ていけとも言えない。彼らには行くあても無いのだから、借りた土地を返すことも出来ない。仮に、インド政府が明日にでも返却を求めたなら、武力衝突が発生することだろう。それはつまり、戦争だ。
友人に金を貸すときは、くれてやる気持ちで貸せというが、まさか、国家単位ですらそれに当てはまるとは皮肉なものだと思う。
第一世代は良い。望郷の念がある。祖国が平和になったなら、そう、こころの中で願っていることだろう。間借りしているという意識もある。
問題は第二世代だ。祖国といえば、生まれて育ったその国だ。そして、その国のなかで生まれながら、生まれの違いを理由に区別を受ける。そして世間から受ける区別を差別と思う。だが、彼のこころのなかはどうあれ、法的には別の国のお客さんでしかないのだ。
そんな彼らは、次の世代に残す時限爆弾でしかない。それが現実だ。
大量に訪れる難民たちは、一ヵ所に集め管理されるというシステム上の問題もあり、他の国家のなかで異文化のコロニーを形成する。異文化共生といくら声高に叫んだところで、上手くいっている国など何処にもない。
これから作るんだ、熱く語るのは構わないが、ぜひとも別の国でやって欲しい。
難民と移民の違いはここにある。
一時避難というなら人道や慈悲のこころで応じても構わないだろう。だが、世代を跨ぐような保護をしてはならない。それは、未来の社会の負債になる。
だから、髙田の人は言う。
「帰れ」
それでも縋りついてくるなら皆殺しにするほかない。彼らの命か、彼らの拠り所である民族意識や民族文化か、そのどちらかを根こそぎに崩壊させるほかない。
自分が善人面をするために、子供に時限爆弾を装着させるわけにはいかない。
命かこころ、どちらかを奪う。それが最終的解決法だ。
こういったことを語ると、人権派と呼ばれるようなこころ優しい人々は、殺人鬼でも見るような目を髙田の人に向ける。実際、人の命や人のこころを踏みにじるようなことを淡々と語れるのだから、実際、そうなのだろう。
まだ見ぬ誰かのために、いまある誰かを切り捨てる。キ〇ガイの考えだ。
ときおり、自分でもそう思う。
結論:異文化どころか異種族共生させてる魔王さま、すげぇ。
いっそ、支配されちまえよ、人間。




