高田の人が語りたいことがあるそうです たぶん1
おかしいと思うところを一つ。
世の中、三人称のなかに一人称が混じると、鬼の首をとったかのようにコレコレの作者はダメだと言う人がある。文章の基本がなってない。小説の作法がなってない。だから、この作者は学がない。阿呆だ、馬鹿だ。言いたい放題である。
しかし思う。
一人称のなかに三人称が混じっているのは、なぜ見逃されるのか。
一人称とは、つまり、作中人物の一人語りである。もっと述べるなら、人物が見聞きした事柄について思うたことを文字にしたものになる。それ以外を語ってしまえば、それは三人称である。
例えば簡単に『俺は、林檎を齧った。なかの蜜がトロリとあふれ、舌先に触れると酸味の中に期待以上の甘みを感じる。なるほどこれは、一個が百円では足りないわけだ。日頃、口にしてきた安林檎とは別格だ。格が違うどころか、同じ棚に並べることさえおかしい。もうこれは、林檎ではない別の果実だ。ただ一口で人生観が覆るほどの芳醇を前にして、俺は生唾を飲み込み、二口目を大きく開いた。』と、一人称らしき文章を書いてみた。
上なる文章は、一人称か三人称か、私にはサッパリとわからぬ。
『俺は、林檎を齧った』いの一番からこれはおかしい。日々、ものごとを為す上で、いちいちこのようなことは考えぬ。俺は~、俺は~、と自己主張の激しい人のようである。あるいは自意識過剰をこじらせて、日々、頭のなかでもそのように考えている主人公でもなければ、これはおかしい。
だから、この作者はダメだ。阿呆だ。馬鹿だ。誰だ。俺だ。くそう。
感じたことを述べるなら『白い歯が林檎を相手にシャクリと音を立てた』とか、こうなるべきだ。文章は主人公が観測したことのみに徹底しなければならない。
そうでなければ、その一人語りは舞台役者が椅子を持ち出し、観客の側に向かって説明している図になる。あれこれと説明臭い台詞が増えるにつれて、そうなる。
もはや一人語りではなく、観客を意識し、観客に訴えかけている。映画や漫画でいうなら、第四の壁を理解したる者となる。それが許されるのはデップーさんことデッドプールさんのみであろう。あとスレイヤーズのL様。
観客の存在を知っている主人公というならこれでも良い。
だが、一人称の主人公はそれをおくびにも出さぬ。はてさてこれは、奇妙な話。絶対に倒せぬラスボスがあらわれたなら、ヒロインが死んでしまったなら、主人公は作者や読者に頼めばよいだけなのに、それをしない。
「どんな願いでも叶えてやろう。ただし作者の力を超えないものとする」
「魔王を消してー!」
「えー? それやっちゃうと、物語的にまずいでしょー?」
「勝てないもん! 勝てないんだもん!! 俺に死ねっていうの?」
「あぁ、そこは大丈夫。おまえの恋人のヒロインが身代わりになって、バイバイ天さんして魔王の背中で自爆するから」
「え? 俺って天津飯なの? 俺のヒロインは餃子だったの?」
「くそうチビが、驚かせやがって……となるけどね?」
「ラスボスはナッパ!? ベジータじゃないの? あと俺の恋人、犬死じゃん!」
「怒りのなか覚醒したスーパー天津飯は、黄金に輝く髪を逆立て……」
「天津飯ハゲてるじゃん!」
「だが、真の力を隠していた魔王は、黄金に輝く髪を逆立て……」
「ナッパもハゲじゃん!」
「いや、このイベントでね、おまえと魔王が実は親子だってわかるのよ」
「それ、スターウォーズでしょ!?」
「なに? この展開になにか不満でもあんの?」
「不満しかねぇよ!」
客席の側を振りむいた主人公とは、つまり、こういうものだ。
正しい一人称の主人公は、けっして舞台の外に振り向いてはならない。
『白い歯が林檎を相手にシャクリと音を立てた。トロリ、こぼれだす蜜。舌が感じる酸味の中に広がる甘み。心臓がドキリ跳ねる。一個が百円の味を予想していた脳が、桁違いの芳醇な味覚の広がりに戸惑い、そして喜びを歌う。たったの一口で、林檎という語彙の持つ意味が書き換えられた。同じ棚にならんでいた、百円の赤い果実は何だったのか。おなじ種の果実とは思えない。そして、一度は味わってしまった甘美な誘いに生唾を飲み込み、二口目を求め、やがて唇は大きく開いた。』
これは、何のロマネ・コンティ・1935年か。
パクるのであれば、キチリとパクれ。もっと官能を掻き立てよ。
可愛いは正義だが、エロスは大勝利である。
はてさて、一人称の小説は、つまるところがFPSである。ファーストパーソンシューティング。一人称視点のシューティングゲームというやつだ。わからぬ人は検索したれ。
ならば小説はFPN、ファーストパーソンノベルとなる。ノベルではなくライトなのかもしれない。あるいはリードなのかもしれない。主人公の視点と読者の視点が、きっちり重なるようにしなければならぬ。
一人称の主人公とは、五感のみならず、感情や記憶さえ読者と共有する存在である。アバター3Dだ。そこまでやって、初めて一人称小説となりえるものだ。
一人称小説とは、つまり、体感型小説のことである。
主人公の呼称を、天津飯から俺に変えただけで済む話ではない。
一人称を名乗りながら、椅子に座って観客の側を意識する主人公のなんと多いことか。それを一人称の小説と認める人のなんと多いことか。その小説は体感型小説ではなく、対面型小説であるというのに。
自己を観測する自己。
なにやら哲学的な響きになるが、生の感覚のことである。感覚野、クオリアとも呼ばれるが、日々感じている言葉ならぬ感覚のことである。沸騰したヤカンの取っ手を掴んだときの手ひらの感覚である。
火傷して、熱いと言葉になるのは、熱を感じたあとのこと。生の感覚ときたら、言葉ならぬところが多い。これを言語に書き起こし、主人公と読者の感覚野を共感せしめんとするなら、もはや難事も極まる。
4D映画とかいう、田舎なオラが村には無い、風が吹いたり椅子が揺れたりするビックリ映画を文字語りでやれと言うのだ。あまり無茶を言ってくれるな。
試してはいる。挑んではいる。だが、壁はあまりに高く、乗り越えるにはあまりに難い。あるいは早すぎたのやもしれぬ。一回転すらもままならぬ癖に、四回転のクアドラプルアクセルジャンプに挑むようなものであったのやもしれぬ。
失敗に失敗に失敗に失敗を重ね続けたのが、ここ半年の成果になる。ゼロだ。
つかれたー! もうやだー! 一人称小説難しすぎー!!
もうボクやめるから! 三人称に戻るから! 高田は普通の男の子になります!
さすがに間をあけすぎた。年末年始、それからお盆くらいは顔を出さないと、人の付き合いは途切れるからね。つまり、日本人の付き合いの限度は、半年が限度というわけだ。ハガキくらいは出さないとね。
いきなり四回転を見せたかったです。たぶんその驚きは、赤ちゃんが最初の一歩を偉い偉いしたくらいの感動となったはずなのに。欲の皮を張りすぎました。
十一月の間には、ちゃんと一本仕上げたいと思います。
明言して、ちゃんと自分を追い詰めておきたいと思いました。