田脳世界 ~アナクローム幻想記~ 三の一々
習作
その日は急いで山に向かった。
千も二千もある山ではない。五百、三百、ともすれば二百もないのかもしれない。登山やハイキングを趣味とする人のなかでは登ったうちにも入らない高さであるのは確かだろう。思いながら、息を切らしていた。汗を流していた。
血液から酸素が抜けきって、クラクラと眩暈さえした。
倒れ込むようにベンチに寝そべり、人目も気にせず無様を晒す。格好つけるだけの余力も無かった。余力も無いほど全力を出し切った。それで良い日だった。
三月の十一日のことである。
世の中の人が慰霊のために黙祷を捧げる時刻、私は一人、山に向かって走っていた。防災バッグ代わりのリュックサックを背負い走っていた。
他人のそれを貶める気もなければ、自分のそれを褒めそやすつもりもない。
ただ、人それぞれに正解はあるのだろう。
腕時計などしている暇はなかったから、携帯電話で時を計る。まぁ、死んでいるのではなかろうかというほどの時間が経っていた。
歩くのと走るのでは、やはりわけが違うらしい。去年も、思った。学ばない自分に苦めの笑いが走る。イザというときほど日頃が出るものだ。自分の日頃がここにあった。山の上のベンチに打ち上げられたマグロである。
標高二百の山の上で、高山病に掛かったマグロが一匹思う。ずいぶんと捻くれたマグロが一匹思う。なんでまた、こんな面倒なことを始めたのやらと思う。
当の三月十一日、私と来たらトボけたものだった。ちょうど車を走らせていたからか、地震があったことに気付きすらしなかった。あった、ということを知ったのは、晩飯時にテレビを点けてやっとであった。
関東のことがあり、阪神淡路のことがあり、三月十一日ばかりが特別という思いは湧かなかった。また今度も私のところを避けて通ったか、とだけ思った。
こう言うと、情に薄いと、さらには人の心がないと罵られるかもしれないが、それが素直な心情であるから罵られるに任せる他ない。
幸いと書けば、これもまた不謹慎と言われるのだろうけれど、親類や知己のなかに被災者は居なかった。実際は居たのだけれど、過ぎてしまえば笑い話で済む範囲のなかにしか居なかった。だから、私のなかで三月十一日は特別にならなかった。
そして次の三月十一日、黙祷を捧げる代わりに山へ走ったのだった。
妙な違和感が昔からあった。
見ず知らずの人の慰霊に参加することは、見ず知らずの人の葬儀に参加するような、なにか道理がとおらない違和感があった。だから、走った。
古くから漁業の盛んな港町、そんなオラが村である。明日は我が身のことである。地図を見れば海抜3メートルであるらしい。なら、走るしかない。
日本のうちの何百万人か、何千万人かが黙祷を捧げた瞬間、走りだしたのは私と一部の捻くれ者くらいだろう。その時も、山の上にマグロが一匹打ち上げられたのを覚えている。やはり日頃が出るものだ。
一部の捻くれ者も同類のマグロになってくれていると嬉しい。私ばかりが無様を晒すというのも何やら悔しい。日本もそこそこに広い、百や二百はマグロが陸揚げされたものだと思いたい。
年々、黙祷を捧げる人も減っているのだろう。それはそうだ。阪神淡路に黙祷を捧げる人などもはや見ることも無くなった。一月の十七日に黙祷を捧げるのは、その地の人か、その時に亡くなった人の縁者ばかりだろう。
不純なものが削ぎ落されて、純粋な祈りだけが残った。それはきっと美しいものだと思う。こんなことを言えば、また、不謹慎のそしりを免れないのだろう。ならば受けてたとう。馬耳東風の言葉の意味を知るが良い。
小さな山の上の小さな公園。
なにかの遊具があるわけでもない。ベンチが並び、ひさしが置かれ、芝が揃えられただけの小さな公園。ただ見晴らしだけは良い。
切れた息が繋がると、マグロがアザラシくらいにまでは成長した。上半身を起こして眼下に広がる景色を一望すれば、私の知るオラが村が見えてくる。
東には海が広がり、西には低い山並みが続く。富士山であるとかのように、どこが頂上であるかもわからない山並み。その頂点の一つがこの公園で、もっと高い頂きもそこかしこにあるようだった。
海辺と山辺の合間に、黒瓦の屋根が立ち並ぶ。平屋は少なく二階建てが多い。大半が木造であるから三階建ては見当たらない。それから、太陽光パネルの少なさから、オラが村はエコロジーに興味が無いことを知った。
目測で五十、海から波が押し寄せてくるのを測る。九割がたが全滅だった。残るものといえば、最初から山間に建てられた家ばかりである。この時になると、どうしても涙腺が緩む。毎年のことであるのに、慣れることはない。
友人知人、親類縁者が水の底に沈む中、リュックサックを一つ背負って、この小さな公園に立ち尽くす自分を想う。その心情とともに。
いっそ今からでも、この水の中に身投げしようか、とすら思う。
孤独があった。孤独しかなかった。声をあげて叫びたかった。
生き延びた。私が一人。それから?
答えはない。生き延びるため走った癖に、生き延びたことを喜べない私が居た。苦しい、哀しい、切ない、そういった安っぽい感情が通り過ぎたあとには何故だか笑いがきた。
おかしい。何もかもがおかしく感じる。水底に沈んだ故郷を観て、私はクスクスと笑っていた。頭までもがおかしくあったのだろう。なかなかに、その笑いが止まることはなかった。
見晴らしの良い小さな公園。遊具もない。ベンチとひさしと芝だけの公園。眼下には黒瓦の屋根が一面に広がっていた。なにも、まだ、起きてはいない。
けれども知っている。イザというときには日頃が出る。三月の十一日、この山の上に居ない人は、その日にもきっと居ない。
リュックサックを背負った私が公園で一人、笑っているのだろう。そんな未来が見えて、まだその日でもないのに、また笑い泣きがこぼれた。
山を降りる足取りは重い。
普段走らない癖に全力疾走したツケだ。明日か明後日、大津波がやってきたなら必ず死ねることだろう。来るなら来るで、一週間ほどの猶予をいただきたい。
避難訓練はあっても、避難後の訓練はない。それは片手落ちだと思いもした。
山に走った後の酒は、あまり美味しいものではない。憂さ晴らしの酒は味がしないものだ。ただただ、アルコールが頭に染み渡るのを感じるだけだ。
ふと、避難袋にも酒を入れておくべきだと思った。日本薬局方の無水エタノールなら消毒用として恰好もつくだろう。度数は99を超える。身体の傷であれ、心の傷であれ、それは染み入るに違いない。
水と砂糖とエタノール。味の不味さは一味唐辛子で誤魔化すとしよう。年々荷物が増えるばかりで、年々生存率を落としている気もするが、仕方ない。生き延びた後に生き延びるための準備だって必要だ。
そうした事務ごとの整理が済んでしまうと、気はまた沈む。
頑張れ、負けるな、なんと声を掛ければ良かったのだろう。なんと声を掛けられれば満足できるのだろう。慰めになるのだろう。沈んだ気持ちで思いつくことと言えば、いいちこを一杯、そっと差し出してくれればそれで良い気もした。
差し出してくれる人も居ないから、今日は一人で手酌する。
やっぱり、あまり、美味しくない。
三月の十一日、その前後、時間がとれた日に私は走る。山に向かって走る。
おそらく来年もまた、走るのだろう。そして来年もまた、ただ一人生き残るのだろう。そうして生き延びたあと、どう生きるのか、それはいまだに良くわからない。
これについては何も語りたくないので、あとがきもお休みなさい。