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田脳世界 ~アナクローム幻想記~ 海辺にて

習作の弐

 六月にしかない海に会うため家を出た。

 手に持つのは飲み物が少々に本も少々。

 古くから漁業の盛んな港町であるオラが村は、東に向かって歩いてゆけば、だいたい浜辺に突き当たる。浜辺の沿いにも道があり、地域の住民や、物好きな観光客がぶらり旅と洒落こめるようになっていた。

 北へ向かえば右頬を潮風に、南へ向かえば左頬を潮風にくすぐられながら、波打ちの潮騒を背景にゆったりとした散歩を楽しめる。

 海辺に近すぎるためか、さすがに木々の青葉は楽しめない。塩の風にも強い草が、短い芝のようにして寝そべるばかりだ。

 せっかく広い海がそこにあるのだから、潮を楽しめという配慮なのだろう。あれもこれもとそこにあっては、目移りするばかりが人情でもある。ものが少ないというのが有難いことも時にはある。

 波打ちの公園。海に面したベンチに辿り着いたとき、もう日は傾いていたけれど、空はまだまだ青かった。雲の多さが気にかかったが、こればかりは空の気分次第というものだ。完全な曇りでも雨でもなかっただけ幸いである。

 そういえば、と思いだす。

 昔、念じれば雲を消せると豪語する友人が居た。小学生の頃である。手ごろな雲を見つけては、手をかざす。すると十分、二十分のうちにみるみる雲は消えてしまった。子供心にスゲースゲーと、揃って声をあげたものだ。

 超能力とか、気功であるとか、ドラゴンボールであるとかに憧れていた頃合いのことだった。彼に出来るのなら自分にも、と、負けず嫌いから手をかざして挑んでみると、雲は見事に消えさった。

 本番で失敗があってはいけないと、鍛錬に鍛錬を重ねるうちに知った。手をかざすまでもなく雲は消せる。はぐれ雲というのは、なにをするまでもなく、そのうちに消えるものだと知った。雲は消え、なにやら残念な思いが残った。

 齢を重ねて中学に入る頃にはその理由まで知った。

 雲という奴は綿あめのようにも見えて、その実、繋がりのない水の粒の群れでしかない。空の高いところでは、常にびゅうびゅうと風は吹き、そうして小さな雲は蹴散らされるものだった。

 雲は大きさを常々に変え、生まれたり消えたりを空の上で繰り返すものだった。

 はてさて、雲を消せると豪語した友人はそのカラクリを知っていたのだろうか、それとも子供らしく勘違いをしたのだろうか、もしや未だに勘違いが続いているのではなかろうか、心配にもなった。恥をかくその時には、ぜひとも立ち会いたい。

 海に面したベンチに腰掛け、忍び笑いを漏らしていた。

 空は青く、雲は多く、まだ時間があった。

 図書館からの借り物の本を潮風に晒すのもどうかと思いつつ開く。なに、ポテトチップスを食べながら読むよりは随分と真っ当だろう。そう、誰にでもなく言い訳をして開く。

 耳に潮騒、目には文字、日の明かりのしたで朗読を始める。

 恥があってはいけない。ブツブツと口にしていては怪しい人に見えもする。公園のなかのベンチでもあるから、他所様に迷惑をかけるのもよろしくない。だから、堂々と声にだす。

 本を片手にブツブツと呟いていれば怪しげな人であるけど、身振り手振りを交えて朗々語れば、なんらかの練習をしている人にも見えてくる。舞台の人か、役者の人か、そのような人であるのだろうと向こうが勘違いしてくれる。

 ときおり、足を止めてモノの語りを聴かれると、これは少し恥ずかしい。

 困るのは濡れ場だ。次に困るのはお色気シーンか戦闘場面だ。これを聴かれるのはことさらに恥ずかしいのだが、恥ずかしがればなおのこと気恥ずかしくもなるので、我慢我慢と読み進める。

 散歩する人の足をときおり止めての朗読会が続いた。

 やがて日の傾きも強くなり、文字を読むのも難しくなる頃には海辺の公園から人の波が消えた。残るのは海の波と自分ばかりである。

 時間にすればおおよそ十九時、誰も彼もが晩御飯に忙しい時間になる。

 三月の春分、九月の秋分の日は祝日であるからとても目立つ。

 十二月の冬至もそこそこに目立つものなのだが、どういうわけだか六月の夏至は忘れられがちだ。六月の二十日を前後に昼が最も長い時期が続く。

 文字を読むには少し辛いが、それでもまだ空は明るく海は広い。そして海辺の公園には私一人なものだから、つまり全ては独り占め。六月にしかない贅沢な海に、今年も会うことが出来た。

 日は更に傾いて、空は夕に焼け始める。

 日の出が見られる水平線は、日の入りは見られない水平線だ。けれども代わりに丸い満月が顔を覗かせる。月齢は十五、綺麗な丸を描いた満月が昇る。

 沈む夕日に昇る月。月は東に日は西に、与謝蕪村と洒落こみたいところだが、日本の地図の上では難しい。片側が海なら、片側は山だ。満月が昇り始める頃には、太陽は山影に消えている。

 振り向いて見る夕日は、やはりすっかり山に消え、空に紅を残すばかりだった。

 どれもこれも、両方ともにとはいかないものだ。

 満月が高くなるにつれ、夕焼けの紅色も影を潜める。すると不思議な情景が生まれる。西の空ばかりが紅く染まり、東の空は黒に染まる。昼間と夜間のおぼろげな境目が、赤空と黒空の淡い合間にちょうど見えてくる。

 湿り気の多い、この季節ならではのものだと聞く。

 東の黒い夜空に星が瞬き、星々のなかを満月が堂々と進む。夕焼けは西の空へと追いやられ、夜空の黒が世界を満たしだす。

 私はこの一瞬を独り占めにして、持参した酒をクイッとあおる。

 雲の多いが気にかかってはいたが、月を隠すことも無ければ、これはこれで空の彩りになった。

 晩飯に忙しい人々の合間を縫って、海と月とを独り占めにするこの一瞬が堪らない。九月の十五夜は皆のものかもしれないが、六月の十五夜は私だけのものだ。

 世界にたった一人になった気さえした。

 だが寂しくはない。耳には潮騒、目には満月がともにある。一人ではあるけど、孤独ではない、そんな一時があった。贅沢すぎる一人酒があった。

 やがて、晩飯も喰い終わり、腹の心地も落ち着いた頃になって、夜の散歩に出る人影が現れる。二十時を回るか回らぬかという時間。独り占めの世界に誰かが立ち入れば、一人酒の晩酌もそこでお終いである。

 みんなの公園で晩酌するのも見っともない。早々に立って、独り占めにした満月を名残に惜しむこともなく、早々に家路に着いた。

 手に持つのは目方を減らした飲み物が少々に本も少々。

 千鳥足になるほど飲んではいない。千鳥足になれるほどの時間もなかった。けれども、満足できるだけの時間があった。

 また、来年。六月にしかない海に会うため出かけるのが楽しみでもあった。


 馴染みのない人も多いだろう心象小説。情緒を大切にした日記にも似たもので、高田の人は好きなのだけれど、ずいぶん昔、戦後から流行らなくなった小説です。

 理由は簡単で、物語がない。起承転結もなければ三幕編成も、序破急も山場すらもない。用語が並んだけれど、そういう小難しい技法が使われていない小説ということです。

 のっぺりとしながら淡々と進み、蝋燭の火がフッと消えるようにして終わる。ある意味で、もっとも日本人らしい小説だと思うのですが、掲載してくれる媒体が無い。世の人々はドラマティックに飢えてらっしゃる。

 フルカラーのトーキー映画に、モノクロのサイレント映画が駆逐されたようなものですか。求められるものが栄え、求められぬものは消える。それは世の常ですから、一人愚痴を語ってもしょうがない。

 やはり時代のニーズが一番に強い。時代は回ると言うけれど、二度と日の下に出てこないものも世の中には沢山ですね。

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