長年貸していたものを返してください。
私の名前はアンティリヌム・マユス、赤の国の伯爵令嬢だ。
家族は父、母、双子の姉、そして双子の妹の私の4人だけだ。
貴族としては少なすぎるその家族と仲良く暮らしながら、双子の姉は跡取り娘として、双子の妹である私は第5王子の婚約者として、それなりに忙しいけれどそれなりに幸せな生活を送れたらいいなーと思っていたけど、無理だった。
姉と私の婚約者はどうも相思相愛らしいのだ。
だったらもっと早くに言ってくれたなら良かったのに、ただの気の合う幼なじみかと思っていたよ。
私は第5王子のことを何とも思っていないどころかむしろ割と嫌っている方だったから、喜んで押し付けたのに。
なのに彼らが行ったのは、卒業パーティーの会場のど真ん中で開催される婚約破棄とかいう訳の分からんイベントだった。
「アンティリヌム・マユス、お前のような遠慮会釈もない気随気儘、眼中無人な女をいつまでも私の婚約者の座に据えておくことはできない」
はい、これを聞いたアナタ、
「まあ、四字熟語をたくさんご存知なんですね、第5王子さま」
と我が姉上のように褒め称えてはいけない、だってこれってば他人の知識だからね。
「何より、お前の双子の姉トロパエオルム・マユスは聡明叡知。我が妻の座にも次期伯爵の座にも、お前の姉こそが相応しいとは思わないのか? 行尸走肉なお前にもそれが理解できるほどの頭は残っているだろう?」
しかも聞いている私には意味が通じていない。
分かるのは婚約破棄がしたいんだろうなってことと、悪口を言われてるんだろうなってことくらい。
うーん、どうしよう、これ。
なんでこういう話になったんだっけ?
ああそっか、10歳のときのアレが原因か。
ふっ、忘れもしないわ、あの10歳の誕生日の日。
職業神の神殿で自分の職業なるものを初めて知ったときのあの衝撃を。
「ぷっ、なんだよ『貸本屋』って」
「ふふっ、笑っちゃダメよお、職業に貴賤はないって習ったばっかりじゃないの」
と馬鹿にしてくれた2人の台詞を。
そしてそれを聞いて、
「ふふっ、まだまだ子供なのね、この2人。この職業の力のすごさを知らないなんて」
と心の中で思っていた私の馬鹿さ加減を。
この職業、私にはあまり得のない職業だった。
だって私が読んだ本から得た知識を再び1冊の本の形に変えて、それを貸し与えるという職業なのだ。
貸している間、その知識は私の頭の中から失われる。
借りている間、その知識は相手の頭の中で自由に使えるようになる。
で、
「きっとこの本を貸せば私の素晴らしさが分かるはず!」
とついうっかり貸しちゃった本で調子にのっちゃったのが、私の姉と私の婚約者。
でもまあね、2人が調子にのっちゃうのも分からないわけじゃあないんだよ。
だってそれ、半分以上が異世界の知識だからね。
前世の私は勇者の出身地として有名な日本に住んでいたんだよ。
前世でも友達がいなかった私は小学生の時も中学生の時も高校生の時も昼休みは欠かさず図書館へと通っていた。
小説だけを読んでいたのでは時間が余って仕方がなかったので、国語辞典や百科事典にまで手を出した。
それ以外にも、その年齢にしてはかなりの数の本を読んでいたと思う。
だからその影響で手に入れたんだと思う、この職業は。
きっと己の知識を気楽に貸し出せるような存在を作りなさいと……いや、違うか。
気軽に貸しすぎて馬鹿になったんだった。
貸本の増やし方は簡単だった。
とにかく新しい本を読みまくればいい。
それに気づいた私は、だから今世でも暇さえあれば本を読んできた。
この世界では本はとても貴重なものだったけれど、それでも伯爵令嬢と第5王子の婚約者という地位があれば大抵の図書館の禁書以外の本は読ませてもらうことができた。
頑張った。
そしてある程度の冊数を読み終わる度に、
「これを貸し出せばもう馬鹿にされないでしょ」
と漏れなくぜんぶ貸し出してきた。
──うん、馬鹿だった。
いくら本を読んでも勉強しても勉強しても身につかない私に、親も家庭教師もあきれ返るばかりだった。
努力をしていることだけは認められるので、最近では、
「無理しなくてもいいのよ? あなたにはあなただけの良さがあるから、気づいてくれる人はきっといるから」
と、何か優しい目で見られるようになってきていた。
逆に何の努力もしなくても賢くなっていく姉と婚約者はずっと神童、才子扱いだった。
──その知識、そろそろ返してもらっていいよね?
料金だってずっと不払いのままだし。
それに自分が馬鹿だって気付いちゃったし、返してもらわないと私が困る。
「先ほどのお話は私には難しすぎてさっぱり不明でしたが、もしも婚約を破棄したいとおっしゃっていたのであれば、私が私の婚約者だからという理由で長年お貸ししているものを返していただくことになりますが、構いませんよね? 姉上も」
料金不払いで無理やり返してもらってもいいんだけど、その場合あっちの脳に負担がかかるんだよねえ。
でも合意で引き上げるなら借金未払いの履歴が残るだけ、ブラックリストに入るだけ、もう貸せなくなるだけ。
元の在るべき姿に戻るだけだ。
「ふっ、それは強迫のつもりか?」
あらら、鼻で嗤われちゃったよ。
「お前に借りたもの? どうせ幼いころの遊び道具だろう。積み木か? 本か? 人形か? まあ何でもいい、好きに持って行け」
いやいや、毎回本を貸し出す前に確認してたのに……え、何それ、ごっこ遊びか何かと勘違い?
だから最近は借りていかなかったのかー、だから私がちょっと賢くなったのかー。
「まあ、私も? そうねえ、借りた物がもし本当にあるのなら、ちゃんと返すわよ?」
よし、返却の許可をいただきましたー!
「ふふ、では返していただきますね。まずは『紅茶事典』から」
第5王子の頭から青と白の透明な光の粒がいくつもいくつも出てきて、それが空中で本の形にまとまった。
そしてその本が、同じく私の頭から出てきた茶色い本段にすっと収まった。
「次に『お菓子事典』、次に『料理事典』、次に『農業事典』、次に『土木事典』、次に『化学事典』、次に……ああもう面倒ですね、一気に引き上げましょう!」
2人の頭から、何冊もの本が排出されては私の本棚へと収められていく。
前世の分、今世の分、足してみれば随分と膨大な数だ。
英語の本、古文の本、漢文の本、ドイツ語の本、そしてこの世界の言葉の本。
もとの言語は色々であったが、それらは今は全て日本語に変換されて本棚に埋まっている──英英辞典ですらも。
うん、外国語の辞書だけはちゃんと紙の辞書を用意するべきだね。
また1つ賢くなった。
「ま、待て。何をしている?」
「何か御不審な点でも? 私は先ほど申し上げた通りに、返していただくべきものを返していただいただけですが?」
「貸し……え?」
「ふふ、長年のご愛顧、ありがとうございました」
あ、何か、周りの人たちがざわざわし始めた。
もう散会の時間かな?
「突然すまんがの、おぬしの本はその、儂らでも借りれたりなんぞする物じゃろうか?」
突然私の目の前に現れたこの方はもしや、学園長先生?
いつも豆粒にしか見えない距離だったからちょっと自信がないけど。
「ええ、お貸しできますよ? 期限はありますし、料金も発生しますが」
「そ、それじゃあもしや、解読不能とされている古の書の解読本なんかも、あ、あ、あるの、か?」
ど、どうしよう、学園長先生がぷるぷると震えていらっしゃる。
何これ、病気? 寿命?!
「い、いえ、解読本はございませんが、日本語に翻訳済みの書なら、その、1冊だけ……なんとか手に入りましたが」
それより、お医者さまを探した方がいいんじゃ?
「お、おおお。つまりは勇者様のお作りになった辞書を使えば、儂でも読めるのか! で、ではそれを使えば失われた魔法も……ぶつぶつぶつ」
ど、どうしよう、学園長先生の独り言が怖い。
「よし、貸してくれ! とりあえず10日間でいくらだ?!」
「いや俺に先に貸してくれ! 何なら1ヶ月借りてもいい!」
「順番的に儂じゃろ! じゃあこっちは逆に1週間だ!」
「なんのこっちは3ヶ月だ! 身分的に俺が先だし、お得意様になるから先に貸してくれ!」
うーん、何か変な方向にオークション(?)が始まった模様。
帰っていいかな?
いや、そもそもはこれって卒業パーティーだし、退室するのにだれの許可もいらないはずなんだよね。
うん、帰ろう。
知識をぜんぶ返してもらった今なら、ここと家とをつなぐ空間魔法だって使えるし。
ああでも、念のために帰るよって言ってから帰るかな。
今更礼儀作法なんてどうでもいいけど、最後だし。
「ではそろそろ私は失礼させていただきますね。みなさま、ごきげんよう」
◇
卒業パーティーの日に、それまで初級魔法ですらろくに使えないと思われていた少女が一瞬で空間魔法を構築して消え去った。
それは学園の教師にもそう簡単に使えるものではない、高度な魔法だった。
「お、俺はあの空間魔法の本を借りるぞー!」
「僕は動物図鑑と鳥類図鑑だな」
「俺は女の口説き方の本でも借りるかな」
「いやお前、前見ろ前! お前の婚約者殿が鬼の形相だぞ!」
「ふっ、その婚約者殿を口説くための本だろう?」
「私はお菓子と紅茶の本を。その2冊があれば、あの第5王子様のお茶会が再現できるのよね?」
「まあ素敵。私は恋愛小説を借りてみようかしら?」
「恋愛小説はたくさんありましたわね。殿方と殿方の……きゃっ」
──ここが卒業パーティーの会場であることも、明日から少女が学園には来ないことも、ましてや婚約破棄の騒動なんてきれいさっぱり忘れた状態で、彼らはまだしばし盛り上がる。