あなたがいつも拭いている
伝わることはないんだろうと思う、常に誰一人として入ってくることのない場所で、本当にいつも一人だけで、その不可侵の領域でだけ私は、ちゃんと遊んでいられた。
多くのことは、いつも同じ場所で起こっていた。
じぶんのやろうとしていることが何なのか、見えてくることを私は好んだ。
多くのことが、そこで育まれた。
傷ついた風景。田舎暮らしの静けさのなか、なんという歌か分からないままに天井を漂うから、教師の目を盗んで素手で勝手にそれをじぶんのものにした。置いてきてはいけないものをとりに戻ることを、命じられてばかりだった。今ならば私、傘をあげられる。中途半端な日記とか私とか、私は私のままさがしにいく。
私は日記を続けられない類いの人間だ。
日記を書かなきゃ、気持ちが上向きになるようにきちんと気持ち観察ノートを書こうって思って、いきなり退路をなくすように高校生の分際で高めのノートを買ってつけ始めるんだけれど、わりにすぐに苦しくなってきてしまって続かない、そういうタイプもこの世にはいるものだ。で、よりによってこのじぶんがそうであるとは私には簡単に認められなかった。でもそうだった。
はたちの祝いの品、兄に貰ったノート。今久しぶりに私の目の前にある。
黒く厚手の表紙からして、なんだか立派。
表紙に手を置く。
さてここから一体何をどうすべきなのか。
*
「あなたがいつも拭いている」
彼女はまずそう書いた。彼女は書かれたことは本当に起こっているのだと信じている。起こっていてもおかしくはない、ということ。そこに違いを彼女は見ない。
「あなたがいつも拭いている」
頭に文が浮かぶと、彼女はまず紙に書いてみて、見下ろしてみたくなる。
そして毎回のことだけれど、この静止状態。
あなたがいつも拭いている、と小さなノートに書いてあるのを見つめる。彼女の中には強い確信があり、同時に、首を傾げてもいる彼女が存在してしまっている。ソングライターの書く一文だとしてもおかしくはないし、これは小説家がさっとメモ書きしておくような走り書きにも今彼女には見える。
言葉の構築物として小説が存在する以上は、どんな一文から出発していてもおかしいことはないだろう。
だから問題は、彼女が、こうして手を休めているという、ただ一点に尽きる。ヒントはある。
あなた、あなたと呼べる人間、と彼女は思う。
真っ先に、彼女は母親のことを考えた。
次に動作に目を凝らす。
何だか気だるげ。
まあともかくテーブルを拭く母親がここにはいるわけよね、と彼女はじぶん自身の考えなのにも関わらず、まるきり弱々しい声で、誰かに話しかけている時と同じに心に呟く。
これでワンシーン撮った。
でも彼女は母親のことなど一切書きたくない。
せっかく見えたんだけどな、と彼女じしん思うのだが、それでも振り払った。
開いていたその部屋のドアを閉め、家から出た。
「あなたがいつも拭いている」
こんな文を思いつかなければよかった、と彼女はもう感じ始めている。同時にまだ、これには何かが詰まっている、脈打ちを感じる、という気持ちもちゃんと持続している。
彼女は唸りつつ、先に場所を、図書館か図書室という、話の入りの場所を設定してみた。
実際の彼女が外出先で、ハンカチで拭く、汚れを落とす、除菌するといった行動をとるのであれば、図書館がそれに該当する場所だから。
そして彼女は、いつも拭いている、という動きがこの話ではたぶんポイントになっていそうだし、そういうことに関してだったらじぶんにも書けそうだと彼女は考える。
あなたがいつも拭いている、ということは、主人公にとって拭く人がいるのだ。拭く人は拭く人として存在させられてしまっている。
拭く人として存在させられてしまう人を、ただ拭く人として彼女は書きたくない、終わらせてはいけない。誰かがこういうふうにするようにはしたくはない、ということを、普段から彼女は目的地にしてよく書き進めていく。
彼女は外に出ても休憩時間になれば、脳内ですら依然最初に書いた一文のままでどこに向かうでもない、でも今は現に親しくなってきた彼らのことを眺めている。今の彼女には目が合ってからまだ数日のソファーの上にいる時のように、彼らがいるのと同じところにいることは彼女にとっても当たり前になっている。
拭く人が拭く人なのには、そこに汚れがあるから。
果たしてそれは取れる汚れだろうか? 彼女の好みでは、取れる汚れよりかは取れない汚れについて書かれてある話のほうが面白い。これはもう決定事項でよいだろう。取れない汚れ、もしくはそれに似た何かが、その場所にはあるのだ。
彼女は夜中に書く。
「あなたがいつも拭いているわけを、僕はこれ以上は知りたくない。みんなが悲しんでいる。」
彼女はたった今、じぶんの展開したこの光景に胸をうたれる。同時に、なんだか好きになれそうにないこの【これ以上は無理な僕】がひょいっと出てきたことには内心首を傾げている。違和感はないが手強そうと思う。
男の子という生き物は否定しない、でも残酷なことしか周りに起こらないのが男子という生き方だ。
彼女は気まぐれを起こしたじぶんを、たった一人の【僕】を、消した。
彼女は書く。
「あなたがいつも拭いている訳なんて全員が知っているようで知らない。オレだってよく知らない。どいつもこいつも、勝手をやってる。」
彼女はこの【よく知らないオレ】のほうにも共感することはできない。身勝手だ、それでもちょっと気になる点が今度の少年にはある。
彼女はすぐさま書く。
「また、もう会わない約束をしなくちゃならない。」
彼女は胸のうちで溜息をこぼした。
分かる。よく分かる感情だからこそ、続きが書けなくなる。
結局のところ、いくら他人やその恋愛事情に辟易しているにしても、彼女のやっていることも恋に近いものなのだ。
彼女は、恋をしたくない人として、それをどうにか完遂しなければならなかった。
彼女は投げた。
*
拭いてばかりいた中で私の頭はわりに早い段階から脇に逸れていっていた。
雨好きの私から見ても強すぎた、あの雨の帰り道を私の頭は思い出していた。
他の子どもたちは田舎暮らしにはお馴染みの長距離通学をしていたけど、私は家から学校まで五分程度。皆の口振りだと、なぜか引け目を感じていなければならないのだった。その日その気楽さは仇となることが起きた、仔猫と出合った時の私は一人で考え、対応を決めなくてはならなくなかったから。
その時点での私は小学二年生で、その仔猫は、一体どうしてまだ動けるのか、不思議なぐらい壊されていた。
カラスか何かに襲われた後だったのだろう、大人の目になってあの日の光景を見てみたら分かることだが、消えかけの命に人がしてあげられることは、人の癖に、やっぱり一つしかないのだ。もう何もかもがつまりそこの時点で終わっていた。
あの鳴き声。
でも耳を塞がなかっただけ、小さな私はましだった。何かに備えるよう、傘の持ち手を握った右の手の動きはあったが。
嫌悪感、それは、いつも足元からやって来る。
私をその場から動けなくさせるのは、目の前にいるものを嫌悪したことに対する罪悪感。
ともかく、その、体を喰いちぎられたかわいそうな猫だったもの、いまや半分は猫、どちらかというと架空のモンスター、悪い夢のようなものであって消すことはできないもの、それが、ゆっくりとではあるが確実に寄ってくる猫を、小学生の私は回避する、小学生の私はじぶんの動きがちゃんと嫌だった。間違いなのが分かっていた、ここは本当に山に囲まれた小さな町で、いつも静かなところで、雨の中、そこにいるのは猫と私だけ。私には猫に傘をあげることしか思い付かなかった。ランドセルを揺らして家まで戻る。何か仔猫の苦しみを減らせるようなもの。誰もいない暗い家の中をさまよう。何か、誰か。そして私は何も思いつかない。そして私は戻らなくてはいけない。仔猫をあのままにしておくことはできないと判断していた私は、結局、ただ、白いというだけの、ただ、柔らかいというだけの、ティッシュペーパーを大量にうちから持ち出して傘のところまで戻った。とにかく絶対に戻らなくてはいけないわけである。でも戻ろうとしながら、じぶんの未熟さや状況とはそぐわないキャラクターだという思いや、ひどい無力感があり、小さくママを連呼さえした可能性もあった。当時マラソン大会の時たった一人じぶんの体力のなさを見ていなくてはならなかった時、私は口の中でママと何度もいったものだ。
私は、あの猫を隠してあげたかった。見ていいものだとじぶんが思っていないのを感じた。それはもしかしたら、この状況でいちばん最悪の考え方で、いちばん選択してはいけないものを選んでいるんだ、この後ろめたさもその証拠だ。そう私は考えて、それでもやっぱり私は戻る。
傘は道にそのまま置いてあった。
転がっていたのは傘だけだった。
*
そして今また、この国には雨の季節が訪れている。
また、六月の中にいる。
僕はどこにも行きたい場所がないまま。
あの日から、未だに一つも、ろくでもないじぶんしか見つけられないままで 。
あの日からおとなにもなりきれずにいるじぶんの体を、一人の部屋で僕はじっと見下ろすだけだ。




