はなれ離れ
じぶんの母親がつくる涙の河を、いつか僕も渡った。
ああいうことは、僕ひとりでは絶対的に無理だった、ひとから教えてもらった泳ぎ方があった、とても不思議な古式泳法みたいなもの、彼からそいつを習ったあの一年。
母親たちが流す涙の河を、ともかく渡りきらなくては先に進めない。
いうまでもないことだが、いちど渡ってしまったあの河を、高校生が今更思い出す必要はどこにもない。
必要もないことを僕が思い出しているのは、妹のことがあるからだ。
妹は中学生特有のフォームで、このごろずっと、あの辺りで泳がなくてはならなくなっているところだ。
母親たちの涙の河は、まよなかにつくられる。今も時おり、その存在を夢のなかでだけ僕も感じる。
晴れた日も、風が波を立てる日も妹は、あの河まで行く。
そして僕はそんな妹たちの姿など目にしたくない、これはただそれだけの話。
その努力と、遠く離れた地点に今はいる。
どうしようもなく距離が離れていく。
中学生たちは行こうとする、あれは、妹たちの今いるところでは何と呼ばれている行為なんだろうか? 今週、母親たちの涙に加え雪融け水が集まって河の流れは恐ろしくはやい。遠目にも分かってしまうのだ、それが。
思い出そうとするが僕が、僕が思い出せることと、それは、違う、こんなにももうはなれ離れ、こちら側とあちら側ではきっともう、何もかもが。距離が離れていく、あれとは、そうしてあれは、どんな種類の努力だったのか、悲しかったのか何だったのか、かつてじぶん自身も続けていたこともあった、そんな努力が、そういうことがあることすら、もう、今の僕には、ほとんど見えなくなってきているのだ。