地図の拡げ方
その指は冷たい夜空を切り裂く流れ星、その足は傍若無人な炎。どうか無意識にやったりはしないで、地図が壊れてしまってから、二度と泣き喚いている子供を目に入れたくなくなった大人たちが棲む暗い森、そこはただ無意味にいつも暗いだけ。
地図があると思うこと自体が間違いなのか。それをどうにかして知っているべきなんだろうか?
心が今でもちゃんとあること自体が間違いなのか? 実際のところそうではないと考えているほうがましと考えるべきか?
それまでに見たもの、聞いたことが、ただそれを決めているだけなんだと? これまで出会ってきた全ての息切れたちが? 変化を求めて教室から消えた動悸たちが?
地図を拡げる、その心は間違いか?
地図を拡げる心があるということは、ある地図が拡げられればただちに燃え上がる他ないのと同じ、行ける心だから燃え上がる以外の選択肢がないのだ、と? 始まりからそんな仕組みでしかないと?
よく見えていた心がある、それが何かを決めた瞬間がある、確かに目にしていたはず。そこには少なくともふたつ心があった。
そうしていくつかの間違いが生まれた。
駄目じゃない拡げ方、かつて諦めた心にしかできない地図の拡げ方。
何度も何度も失敗してきた地図の拡げ方。
指ではない、唇でもない、しいてしえば、胸の近所、それが地図をちゃんと拡げるような予感があったことだけいつまでも頭は覚えている。
そのことだけ、小さく折り畳んで引き出しの中にしっかりと入れた手がこの手なんだ、とも。
息をし続けている、理由があってもなくても。
だから地図は常にそこにある、草の中で、疑惑の中で、涙の予感の下で、今日もそれでしかないという音を立てている、何にしろそちらの方に顔を向けはしないけど。地図がいつもと同じところにある、もはや気配で知れる。やってみるじぶんを描きはする、もう一度だけ、と思っているそんな夜もある。
カーテンの中に長らく隠れている子供は、じぶんたちがどこに行けるのか、どこに行くべきか、予言をするもの。
指でつつくと、ウネウネしながら悲鳴を上げるばかり。出てきて、出てこないで。そこで矛盾した願いを持ち、座りこみ、どうしていいかわからなくなっている人。何も不思議な話ではない。
美しいカーテンの膨らみ。




