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救急絆創膏








 ぼく。山野シンの一人称だ。

 そのことで眉をひそめてとやかくいう人もいる。

 口には出さなくても、大抵は眉をひそめる。隣同士で顔を見合わせる。

 なぜかってそんな人たちの前でぼくと、たった今そういったのは男の子じゃない。ついでにいえば大人でもない。



 それに大体おっさんでぼくとかいってるようなのって、だいっ嫌いなんだ、ぼくは。








   1 月




 席替え。

 一歩だか二歩だか、とにかくいつものように二年四組の教室の後ろ側の入口を入ってすぐ、ぼくは思う。

 三学期の席替え。



 この学校は三学期制なんで、一月にも始業式がある。

 初日からは一週間が過ぎている。



 一週間と冬休み前まで、ぼくが椅子を引いていたところは窓際の最前列だった。

 その席には男子がもうとっくに座っている。



 とにかくドアを閉める。後ろ手でそっと。

 それでもうおしまい。



 一週間と冬休み前まで、こっち側の出入口に一番近い席でいつ見ても寝ている男子ならいつ見ても坊主頭をしていた。

 その席の後頭部も今は違っている。

 前と違って清潔そうな束感ショートになってる。

 さぼっているあいだにあった席替え。



 ぼくはいつまでも同じところにいる。

 いつまでも引き戸のところで突っ立っているだけ。

 頭の中じゃいつまでも、席替え、三学期の席替え、という思いをひびかせているだけだ。







 そんなとき至近距離で誰かがこういう。



「あ、山野だ」



 ぼく山野シンはさっとそのこがいるほうに顔を向ける。



 あ、田中だ、と思う。

 あぁ、と男子はいうと、あとは黙ってじっとこっちを見ている。



 ぼくもおんなじようにやってる。

 黙りこくっている。それでじっと半後ろ向きになった男子の顔を見下ろしてる。



 たぶん小学校は別だし、たぶん一度か二度クラスがいっしょになっただけの関係性で終わるだろうし、これまでほとんど話したこともない男子。

 ただ、でも今日に限っては顔に傷のついた男子でもある。絆創膏、頬っぺたの絆創膏。

 睨み合いみたいのが続く。



 こういうときよく思う。

 伝えなくちゃ、って。



 でも全然わからない。

 ぼくには全然、自分の考え方を口に出していってもいいと思えるだけのものがない。



 というのも、何がどうなったら自分の見ているものだとか自分の考えを口に出していいと思えるようになるのかがわからないんだけど、でももし伝えていいとなったら、最低限ぼくはきっとこういうから。いとうつくし。

 やっぱり男子が使うものだったら無骨なのがいい、とぼくはいわない。サイズは標準のやつがいい。百円ショップに置いてあるような肌色タイプは好みだ、とぼくはいわない。通気孔のぼつぼつは不可欠だ。男子には防水になっている布タイプだとか、機能つきのばんそう膏なんてものは発想もできてないっていうほうがいい。何の考えもなく面白みがないものを選んでるってほうがいい。

 今貼ってるそいつは正解だ、とぼくは男子にいわない。でもちょっとイージーに貼りすぎ。

 指が剥離紙に触っているときからもう勝負は始まっているんだけど、ぼくはいわない。女、大人が絆創膏を使っても何も起こらない。どうぞそのまま、とぼくはいわない。ずっとそのまま。

 可愛くない女の子なんてどこにもいない。ぼやっとした男の子はどこに行っても目にする。だけどどんな姿形の男子でもそれを使っているってだけで、それがただの飾りけのない絆創膏で、男子中学生がただ顔に貼ってるっていうだけでぼくの目には、すごく、すごくかっこ良く見える。

 そんなにいいのに、とぼくは男子にいわない。どうしてそんなに知らないの。







「しゃーねーなもぉ」

 そういうと田中は席を起つ。



 廊下側の一番後ろの席、ずっと空いたままになっている席。








   2 月




 今週から二月に入る。

 登校すると毎回、同じ顔が振り返る。



 どちらかっていうと、田中の顔に絆創膏があるのを見るときのほうが多い。おう。ん。



 圧倒的に、ぼくは学校に来ると自分のクラスよりも保健室のほうにまず足が向かうってことのほうが多い。

 来ると、ほとんどいつも授業をしている最中だから。



 しばらくするとやる気のない養護教諭が訊いてくるんで、考える。今日は通常登校でいいのかどうなのかって。

 保健室登校にするんだったら昼下校でいい。

 ひるのあいだ、ぼくの席は必ず空く。

 ようはしょっちゅう保健室にいる。



 遅れてきたときでも、すぐに教室に行くってことをしない。一時間はやり過ごす。

 出ていくときも、休憩時間が残り半分になったのを見てからやっと出ていく。







 登校すると、ぼくの席に田中が座っている。

 田中は机の表面を指差す。

 ちまっとした落書きがある。ちまっとしてて、ぼんやりとしてて、消し忘れた。



「なんてかいたんのコレ?」

 田中はいう。キズナなに?



 絆創膏、とぼく。

 絆、と隣の席の男子。



 思わずそっちのほうに顔を向ける。田中もぼくもだ。



 なぜか嫌な空気が流れそうになる中、田中が席を起つ。

 この反応はこっちの予想と違っている。

 さすがにこれは何かコメントしないと田中も微妙な気がするだろう、というぼくの予想とは思いっきり違う。



 思いっきり黙殺したし、そのまま田中は自分の席のほうまで歩いていってしまう。

 チャイムまではまだちょっとある。

 こういう田中は今日初めて見る。



 落書きを見下ろす。努力して字を小さくしようとしながら書いていた。



 授業が始まるころにもう一度だけかなり露骨な視線をお隣に向ける。



 席が隣同士になった男子とは会話になることは全くない。これは今に始まった話じゃない。どんな席の時でもずっと同じようなものだった。

 でも今回は特にひどい。全然目が合わない。

 起立、注目、礼。



 この日も田中は顔に絆創膏を貼っている。

 田中のは口の横で、お隣も一枚ほほに貼っている。

 次に登校したときにはお隣はほほで、田中は口の横とあご。







 登校すると、隣の席が空席になっている。今年初めて見る。ぼくにしたら、よくわからない待機時間も何もなしに座れる日だ。田中にしたら、教卓の真ん前の席からわざわざ最後列まで移ったりしなくても良くなる日だ。次に登校したとき、お隣は来ている。でも今度は田中の姿が教室からなくなっている。

 次の日も田中は欠席お隣は出席、それがその次の日にはまた逆になる。



 どの日も事情は伝わってこない。

 中学生になってから、ぼくは朝のショートホームルームに間に合うように来た覚えがあまりないくらいだったから。







 登校すると、ぼくの席に田中が座っている。

 顔にあるのは真新しい絆創膏が二枚。口の横と、眉の上のへん。

 それから、右目の下にも妙な怪我をしている。転んで擦れたときになるように赤くなっている。



「山野おっせぇ」



 口には出せないたくさんのこと。



「うん。のいて?」



 田中はぼくが教室に来て脇に立っていても、いつも本当に気にしない。

 いつも本当に全然まるっきり全くびっくりするぐらいにけろっとした顔して何を考えてるのかわからせないし、ほんの少しも椅子から動く気配がないままなぜか見上げる体勢そのまんまでどうでもいいことを話しかけてくるし、毎回その声の表情までもすごいぼくのことを一切気にしてないって感じが濃厚なんでびっくりするし、とにかくびっくりする。毎回だ。田中はいつでもこうだ。すぐに席を返すってことをしない。粘る。

 意味がわからない。







 この一か月、休み時間になるたびに隣の男子は頬杖をついている。滅多に席から離れない。

 席まで誰かが来ていたりするようなこともない。声をかけたりかけられているような場面とかもなし。

 授業に入るといつも、真っ直ぐに隣の男子の背筋は伸びる。



 あまりに動きがなさすぎる。お隣もぼくもだ。



 ただこの一か月、休み時間になるたびに田中が教室角のこっち側まで移動してくる。







 口には出せないたくさんのこと。

 絆創膏も頬杖も微妙な空気も茶色い目も左手も一人ごとも不愉快にあたたかい椅子も貧乏揺すりも全部そうだ。でも一番はやっぱり絆創膏だ。



 クラスの中で田中とお隣の二人だけが使い続けている。



 いつも決まって顔に集中している絆創膏。

 あれはもう、製造販売元もいっしょだと考えていいと思う。



 それがどこにあるのかはわからない。

 部室かもしれない。田中かお隣のどちらかが携帯しているやつかもしれない。

 とにかく百枚入りだか百五十枚入りだかの徳用のやつだ。それを二人は共有している。

 実際に目にしたことはなかったけど。これから目にすることとも思わないけど。

 でも実際に目にしたものもある。







 ぼくの一つ前の席の男子はいつも、休憩のあいだずっと教室内から姿を消している。

 それで田中はいつも、ぼくが来るとそっちの席に移る。



 椅子に横向きに座る男子の片方の肘がぼくの机の上にあることもだんだんと珍しくなくなってきて、みたいな可愛げははなからなかった。



 時々、一人ごとをいう。

 時々、何かのコマーシャルの曲を口ずさむ。

 急に脈絡もなく舌打ちするなんてことも田中はやったりする。

 日によっては、寝てないんだろうな、とわかる。



 田中はそこでよく寒そうにしている。

 廊下側の列にいて黙りこくっているだけなんで、余計に体の冷えてくる感じがある。

 田中は左利きだ。



 お隣は右利きだ。

 見ていると、あれはもう自分で決めた上での行動なんだろうって思う。どれだけ不自然に見えてもやり続けると決めたことなんだろう、って。

 いつも決まってお隣は体の右側を使って頬杖をつく。

 見ているだけで疲れる。

 隣の男子はいつもそのポーズで石化する。いつもそのポーズを選んで石化する。







 授業中、お隣が本読みに当てられる。

 終わると、何人かのクラスメイトが後列のこちらのほうを振り返る。みんな女子だ。



 今日、ぼくは一時間目から教室に来ていた。

 長い一日。



 学校にいると、ぼくはずっと座っていることになる。座りっぱなしでいるとお尻が痛くなる。自分に体温があることにもうんざりする。

 こういうのって、小学校の頃はちっとも頭に浮かんでいなかった考えのように思える。

 さすがに二月のこの登下校のおっくうな時期に自分に体温があることを鬱陶しく感じたりはしないけど。



 学校にいると、ぼくはずっと座っているほかなくなる。

 だからだ。座っているとお尻が痛いって、頭の中はそればかりになる。



 でも傍目にしたら、きっとそういうふうには見えていない。

 あのふたりにしたら、絶対にそういうふうには見えていない。






 明日には二月が終わるという日のことだ、授業中に田中とお隣のふたりが保健室にやって来たのは。



 入ってきたときから、どちらの男子も上は白いシャツ一枚だけになっている。もちろん教室でのふたりの格好はこんなじゃなかった。こんな寒々しくなかった。


 田中のほうはシャツの袖のボタンも開けている。普段は黒学ランに包まれているから知らずに済んでいた、見ずに済んでいたことがある。

 おそろしく細い手首だ。

 ぼくは咄嗟に考えたことを顔に出さないようにする。

 誰に対してぼくは今こうなのかなんて、そんなのは決まっている。そんなのは自分のために決まっている。ぼくは脳内にみずから問いを浮かべ、みずから答える。




 それとふたりとも、髪の毛が少し濡れている。それとふたりとも、唇の端を切っている。

 事件直後、という感じ。


 こっちにわかるのは、田中たちが頭を濡らしてきている理由は雨のせいじゃないって、それぐらいだ。野球部専用グラウンドが見える窓のほうに顔を向けることはしない。それに、そもそも雨だったら校内にぼくがいること自体ないことだし。


 今ここで田中が攻略しなくちゃならない相手は一人しかいない。それは養護の女性じゃない。やる気のない養護教諭はといえば、今もデスクから離れないままでいる。

 でもこれはぼくにしたらどっちもどっちだと思う。

 入ってきたときから、どの男子も養護教諭のことはきれいに無視しているんだから。


 田中が相手しなきゃならないのは養護教諭じゃない。その男子は付き添い役としてこの場に来ている。もっとも、単に役割として来たんじゃなさそうだ。

 付き添いの男子は田中と話をしたがっている。田中に対して腹を立てている。




 田中は今、古いほうのポータブルのヒーターの前に陣どっている。

 入ってきたときから、全身から不機嫌なオーラを出し続けている。田中は室内にいる全員に背中を向けた格好を選ぶ。


 教室じゃぼくの隣の席に座っている男子は、戸口のところに立ち続けている。

 こっちのほうは教室にいるときといっしょだ。

 むっつり顔をしている。そして、黙って待っている。


 こんなのって全然いえた立場じゃないけど、痛々しい。いつもどおりにしようと努めている。

 だから、明らかに正面から何発も殴られてきている男子からぼくは目を逸らせない。今はもう血は止まっている。どうでもいいとこの男子は思っている。ぼくが穴が空くほど見ていても、田中と付き添いの男子がやり合ってても、どうでもいい、と。男子の全身がそういっている。

 わからない。




 誰も何もしなくていいと田中は繰返す。このままでいい、と田中はいおうとしている。

 必要なものは何もないし、少し経てば美術室にちゃんと戻るつもりだし、口の中が痛いし、だいいち話さなきゃいけないようなことなんて何もないと田中はいう。


 田中のいうとおり、四組の生徒はみんな今美術室にいるはずだ。授業時間はまだ半分ある。

 付き添いの男子は、紙みたいな体つきと短髪のせいで黒い学ランがやけに似合うタイプ。やや小柄で性格の大人しそうな雰囲気、きれいなおでこをしている。今は田中に対して怒らないといけない時のようだけど。

 たぶんきっと最近のぼくと同じだ。付き添いの男子も田中のやり方に慣れている。さっきから聞いていても、付き添いの男子は真っ当なことをいっていると思う。


 たとえば付き添いの男子は田中に、何も手当てしないで戻るのは不自然だという意味のことをいう。どうして余計に事態をややこしくする方向に行こうとするのか、って。どうして普通に振る舞えないのか。少なくともそれは周囲の目を避けるのを目的にした、表面的なものでいいのに、どうして何一つ隠さないのか、って。

 田中は相手の欲しいものを与えない。

 一切田中には効かない。話をまるで聞こうとしない。


「いーんだよ。あいつがバンソーコー持ってっから。ってかさ」

 さっきっから思っとったんだけど、顔の前くさいんだけどオレ。なんなんコレ?


 田中は顔にあった絆創膏を剥がし始める。剥がしながら立つ。屑入れ籠の前まで歩いていく。

 あっという間に田中は全部剥がして捨ててしまう。

 今日、それは三枚も四枚もあった。

 粘着がなくなっていたんだ。




 このごろ、田中は意味もなくぼくのほうを向くことがある。

「山野帰んのお前」

 帰んなよお前、と田中はいう。

「こっち? 今?」

「今日なんかオレだめ。お前帰ったらモヤってきそーだし」

「だから、どうしてこっち」

 気がつくと、付き添いの男子までぼくのいるほうを見てる。

「山野さんは見ててどう?」

「やっぱりこっちなの? ぼくは関係ないと思うんだけど」

「田中君から、なんか話聞いたりとか」

「なおこっち? さっきから話が見えてないってレベルなんですけど」

「そうなんだ」


 付き添いは何ごとか考え込む様子になる。

 田中はそれを呆れ顔で見ている。


「なんなんお前のそーゆうの。それが部長レベル?」

「だって、いい機会な気がする」

「いやいみわかんねーし」


 今度は付き添いの男子のほうが田中を無視する。

 迷いがあるのか、言葉を選んでいるみたいな間が流れる。やっとこっちに顔を向ける。


「自主的な反省文ってことをやってるんだ。あ、これは田中君の話なんだけど。指定の枚数もない、誰にも何にもいわれてないのに、いきなり始めちゃって。何がしたいのかわからない。僕らは部活をがんばってて、田中君なんかにあまり構ってあげられない。てっても、さすがにこれは長期戦過ぎる、っていわれ出してるのが、最近の周辺状況」

「それは、ぼくに関係のあること?」

「ないよね。だから、勝手なんだけどでも、僕が思ってたのは最近山野さん、田中君たちに巻き込まれ気味なのにさ、見てて不安、ってゆうか、もしかすると事情わかってなさそうだよなって。で、そうだったら、ずっとすごく心配してるんじゃないかって」

「ねーわそれは」

「田中君にはゆってないから。えっと、だからその、山野さんには頭の隅ででも留めておいてほしい、二人のこと、少し気にしてもらえたらってゆう。そんななので、いいました」

「わかった」

「早いし軽いよね返事が」




 でも実際、田中が後ろに来ていても何が起こるわけでもない。

 お隣も田中も相手のいるほうをろくに見ない。話をしたいと思っているような感じが全くない。

 少なくともぼくが来てからはそうなる。


 なのに、田中はいつも来る。

 隣の男子の近くにいようとする。

 確かに、ぼくは見ている。確かに、ぼくはふたりについての知らないことの多さを感じてる。

 でもクラスメイトに何か訊くのも訊かれるのもぼくはどっちも本当に苦手だ。


 ヒーターどーもっした、と田中が、出ていくときにやる気のない養護教諭に向かっていう。

「あとド無視もあざっした」

「自由なのはいいけど、あんた後でうまいことゆっといてよ? あたしのほうまで面倒なことにさしたら殺」

「仕事してください先生」







 午後の授業になっても、ふたりの学ランはずっとどこかに行っている。

 他にも同じように寒々しいのが教室内にちらほらいる。

 お隣と田中も含めると、全部で六人。


 みんな男子だ。みんな、シャツの上に何かを羽織るようにしている。運動ジャージやら所属しているそれぞれの部のウィンドブレーカーやらはぼくの目には新鮮に映る。


 教室に戻って少し予想外だったことがある。

 授業進行には滞りがなかったこと。教員連中が何のコメントも出してこないこと。


 何だか変だ。

 クラス全体の様子は明らかにおかしい。絶対に何かはあった。なのに、誰かの苦々しそうにしている様子だとか、温度の低い面白そうな視線が飛び交ったりとかいうような、ありがちなあの反応は見られないままに午後は過ぎていく。


 空白という空白じゃないけど、胸がざわざわとする。

 このクラスになってからこういうのはあんまりなかったことだ。小学生だった頃は誰もが知っている大きなニュースを自分だけが受け取ってないとき、今日と同じ気持ちによくぼくはなっていた。











   3 月




 これは絆創膏より以前にぼくが見たものの話。

 去年の二学期にあったことだった。田中という名前をぼくが覚えたのはあれが最初だった。


 九月だった。今みたいに絆創膏だらけになる必要が出ているのと少し似ている。

 あのときの田中には教室の床に俯せになる必要が出ていた。


 男子は倒れたまま動かずにいて、ぼくもそれがわかった。

 ぼくは気を取り直して、机の横のフックから指定鞄を外そうと歩いていった。そこでよせばいいのに、またちらりと視線を男子の倒れているところにやった。


 普段たくさん踏まれる場所に男子の顔はあった。

 見ていたって、どれくらいの時間そうしているのかなんてわからない。誰が悪いのかなんてわからない。

 ぼくは男子の体の下に手を差し入れることを想像したと思う。

 田中はかなり体温が高いんじゃないかって気が近頃ぼくはしてる。




 あの日は、午後からあいにくの雨だった。ぼくはとんでもなく調子が悪かった。

 放課後に呼び出しをくらっていて、相手は学年主任。どんな会話があったのかは忘れた。


 前日にぼくは何かの用事で男性教師に呼ばれていた。来るように何度も直接声をかけられてもいた。それでも結局、ぼくは無視して帰宅していた。

 そんなわけで、あの日は余計にめんどくさいことになってしまった。そういう日だった。珍しくない。

 認めたくないけど、たぶんガードがゆるんでいた。上からものをいわれ続けたせいだ。ぼくは疲れていた。




 ぼくは誰もいないはずの普通教室に鞄をとりに戻ってきたところだった。そうしたら、男子が一人通路のところに倒れているのが見えた。


 入ったときには人の気配はなかった。物音もしなかったし、電気も点いてなかった。

 声が響いた。

 恥ずかしかった。




 教室の床に俯せになる必要が出ている男子がいった、なんだ山野か。


 これははっきりと覚えている。男子の第一声はそれだった。戸口のところからぼくは振り返った。出ていこうとしていたところだったのに。


 ぼくがいった、なんだ。


 男子の声がいった、なんだってなんだよ。


 ぼくがいった、なんだ。田中だったら足音で誰だか判別ができると思ってたのに。なんだ。







 あの後、保健室の後で田中はいつもと違う行動をとった。

 お隣の近くに来なかったんだ。


 保健室で顔を合わせたその後、珍しく三人ともが自分の席に座ったままだった。そのまま休憩時間を終えた。

 田中はもちろん誰かにいわれていたから、ああしたのかもしれない。他に理由があったり、もしかすると理由が宙吊りになったりでしたことかもしれない。

 そうじゃなく、全然別の意味のあることだったのかもしれない。ぼくだけが読みとれないことだ。


 でも結局、ぼくが知る限りでは田中のその行動はその一日だけのものだったけど。

 次の週に登校すると、早々とふたりはまた元に戻っている。

 絆創膏だらけの顔に、すっかり見慣れてしまった顔にふたりは戻る。

 戻ることをふたりは選ぶ。



 今は五時間目と六時間目の合間の休憩時間。



 始めは黙って座っていて、でもそのうち田中は思い出しすぎる。

 突然顔を両手で隠す。

 呻き声を上げる。

「クッソあーやだもぉほんっとクソあークソだわクソ」

 そして、それだけでおしまい。

 誰も何もいわない。

 田中が黙ると、他の二人はいつも何もいわない。いえるわけがない。




 そろそろ時間だ。前の席の男子が教室に戻ってくるタイミングだと、田中もぼくも同じことを思う。いつもの通りに。


 通路をはさんで隣の席に座っている男子も同じことを考えていたらしい、いつも通り田中が動きかけたところに声が飛んでくる。


 こんばん、と隣の男子がいう。

「ひじきご飯作るんだと。来るだろ? 母さんがまた、連絡を寄越しなさいだと」


 ぼくはうわっと思う。

 お隣が、田中に向かって喋りかけている。お隣が、田中の顔をちゃんと向いて伝えようとしている。

 でもこれが何の話なのかはさっぱりだけど。


 これを聞いた田中のほうが嬉しそうな表情になるのが目に入る。

 こっちもお隣のいるほうに顔が向いている。まるで、いつも当たり前に休憩時間はこうしているんだという具合。しかも、田中は本当に当たり前の声で返事もしている。

「みそ汁は何色のつくんの?」

「連絡をしろってさっきいった」

「前のあの白みそにしとくといい。ダイコンはいってるやつな。絶対」

「おれは知らない」


 意外だ。今お隣はぼくの視線を気にしている。

 きまり悪すぎる。

 こればかりだな、と思いながらぼくはさっきと同じようにする。顔に出さないようにぼくは努める。

 数学教師で異様な痩せ方をした女性が入室してくる。ただちに教室内はしんとなる。

 いつだとか、どこでとか、いつもぼくはそこがわからない。




 やたらと暑苦しい号令係の男子の声、椅子のがたがたいう音。

 起立、注目、礼。




 一応クラスメイトなんで、田中とお隣のふたりが兄弟ではないことをぼくは知っている。

 教室の床に俯せになる必要、絆創膏を貼る必要、休み時間に席を移る必要。

 ぼくはまた今更考えても仕方ないことを考えている。




 ぼくにはあまり他人に知られたくない習慣がある。これをやってると咄嗟に他人に声をかけられたとき、つっかえることがなくせる気がしている。


 少なくとも、こういうふうに対策をとっている自分というものは持てる。

 小学校を出る辺りからだったと思う。ぼくは好んで翻訳小説を読むようになった。英米文学の中でも短編に特化した人の本は特に。でも一冊に収められている全部の短編を必要だと感じるようなことは全然ない。よくても三つか四つくらいだ。たまにあることだったらいい。でもそれは結構頻繁にある。そういうのってうんざりする。場所もとる。


 それでぼくは本を片手に持ちながらスマートフォンも持つようになった。ボイスメモをとるためだ。

 短編を朗読するとき、ぼくは可愛こぶる。声だけなんで、いくらでも可愛こぶることができる。


 そういうのが、ぼくが平日の午後一時とかいう時間帯にマンションの一室で一人でやっていることだ。







 礼。

 この中学校ではクラブ活動は全員参加になっている。ぼくは別にいい。新入部員の挨拶の直後からもう幽霊部員になっていたんで、もうこれで下校でいい。ぼくは座ったままでいる。


 前の席の男子が鞄を持って机から離れていく。ぼくは座ったまま見ている。

 前の男子は出て行かず窓際に歩いていく。鞄は指定のやつじゃない。部活用の大きくて傷だらけの鞄で、見なくてもいいものをぼくは見ている。それを意識しながらぼくは見ている。ぼんやりしてるんじゃなく、ただ見るべきものがないから。どこを見て座っていればいいのかわからないからだ。

 前の男子がクラス内のどの辺りと親しいのか、ぼくは今日初めて見る。他の男子と混ざっているところを今まで見てなかった。でも今すごく自然な様子だ。すごく楽しそうに見える。ふいに前の男子が後ろを振り返ると、こちらと目が合う。気持ち悪がらせてしまったふうじゃないけど、珍しそうにされる。前の男子は三人のクラスメイトとしばらくのあいだ立ち話している。そして男の子たちがぞろそろと前部ドアから出ていく。結果的にぼくはそれを見送る。

 それからぼくは隣の席の男子のほうに顔を向ける。


 こっちはいつもと同じように一人ぼっちで、机の上にはドラムバッグ。さっきから男子はそいつの中に手を入れてごそごそとやっている。誰とも目を合わせることはない。一切ない。逆に誰か他のクラスメイトに様子をうかがわれているといったことも全然だ。お隣は何かのチェックを終える。静かに動いて席を起つ。それから後部ドアのほうから廊下に出ていくのを、ぼくだけが見ている。ぼくだけがそれを見送る。

 それからぼくは前を向く。


 田中の机の周りにはちょっとした人だかり。笑い声も上がっている。

 保健室で顔を合わせた男子もその中にいる。あえてそっちをじっと見続ける。すると男子が気づいてぱっと顔を向けてくる。男子はジェスチャーで何かこちらに訴えてくる。ぼくは曖昧にうなずく。お隣が出ていってからそうしようと思っていた通りに、ぼくはちょっと立つとスカートの後ろをはたく。


 それからも何人かのクラスメイトと目が合う。

 不気味なやつ、ある男子の顔にはそう書いてある。暇なやつ、ある女子の顔にはそう書いてある。


 ぼくは本当なら今頃はもう下校でいい。るんるんで下校でもいい。ぼくは音を立てて息を吐く。それからはもう何も見ないようにする。ただ座り続ける。








 数日経ってからだった、教室の床に俯せになる必要が出ていたあのときの男子の名前を知ってびっくりしたのは。

 田中は本当に田中だった。

 あのときにはまだぼくは全然それを知らなくて、だからああ呼びかけたのは偶然に過ぎなかった。

 どういったらわかってくれるだろうかという気持ちがまずあった。あれこれ話しかける口実を探してたこともしばらくあったものの、やめるしかなかった。ああいう、他人に気持ちを向けるということは田中がたぶん初めてだった。

 友達になりたいみたい、そう思ったらやめるしかなくなったんだった。


 でも最近は思う。むしろあんなふうな見方をしたことがあったせいだな、って。田中に対してだけぼくは、やり方について思い悩んだりしなくていい気がしている。

 友達になりたいみたい。








「ちょっとま自分の欠点列挙しといてくんねーかなっつったんだよオレ」

 そんあいだ黙っときたいからっつって。ふつう絶対そんなんさ、すぐ乗ってくるようなやつなんていねーじゃん。そんときだってオレら、まだなんかそんな、いっぱいしゃべるとか全然だったし。


「そう」

 いってから、これは我ながらひどいなと思う。でも絶対これは、全面的にこっちだけが悪いってことはないとも。

 田中も田中だ。前から感じていたことだけど、田中のやり方はいつも唐突すぎる。




 空席だらけの教室で、今男子は椅子の上で体をひねっている。後列にいるぼくのほうを向き、考えている。いおうかどうしようか、という様子。やがて男子はいう。

「んでもなんかあいつはさ、全然予測してましたみてぇな。メッチャふつーにそれやってきてさ」

「そう」

「もぉコラオイ山野サン? ウソでももちょい好奇心だしとこ?」

 男子はぶつぶつ何かいいながら黒板のほうに向き直る。


 でも、と田中は、背を向けてしばらくするとまた声の調子を変える。

「いちおーアレなんだけど。おんなし高校、いくことにした」

 意味がわからない。でもわかる。

「うん」


 少し間があってから田中はごつり机に頭をぶつける。呻く。

「なにそのうんって。やめてくんない? あーもうなにお前そのうんって」

 意味がわからない。

「山野ってあれじゃんこっちがオハヨつってんのにふつーにウンとかって返すじゃん? あれがすげぇなんかなんだこいつとかってなんだけどいっつも。なってんだからないっつも。けどなんかアレなのな、シチュによったら、いちばんなんかクルっつうか。マジなんなのいまの」

「知らないけど」


 振り向かないまま、そのままの姿勢で田中はまたいくつかのことをぼくにいう。いつもと同じだ。いつだとかどこでとかはなくて、いいたくていっているのがわかる。


 ふたりのことを話してくれている。たぶんそうだと思う。

 田中がいうには、これまで煙突とあひるがいっぱい見える場所にしかいたことはなく、それは全然田中にとって怖いことではなかったそうだ。でも事情がまた変わってきて、田中には見えていなかったものが最近見えているのだそうだ。

 完全にこれにはお手上げ状態になる。わからなさと恐怖感から腕を触ってしまう。


 話し終わるともう田中は前を向いたままになる。ぼくのほうも問いは思いつかない。向うでも今は完全に何かの続きに戻っている。田中は本当に書き物をしている。その手元が気にならないといえば嘘になる。田中と話をしたくないといえば嘘になる。


 でも最初に考えていた通りにする。ただ座っているだけにする。ぼくは身動ぎせず座っているだけだ。普通教室の最後列で。ここ、自分の席ということになっている位置で。じっと座っていることができてさえいればそういうふうに見せられる、ここはそういう場所だ。実際、ぼくはすごく静かに座っていることができる。そしてぼくは見ている。一人でいる田中を見ながら考えなきゃならなかったことがぼくにはある。

 これは座ったままででもできることだ。そういうのはぼくにとって結構でかい。最初から無駄な努力だっていうのもわかっていて座ることの意味を今また考える。これは間違いなく無駄な努力に終わる。わかってる。だけど今はやらなくちゃ、だって本当に見る必要があったから。ぼくはまだろくに見ていない。最近になってつかんだこの感じというのは、きっと小さな子が寒暖があるのを理解するようなことに近い。


 このごろ、教室の戸を開けるとき意識してしまう。このごろ、田中は始めから後ろ前に椅子に座る。


 思い出したのは、ぼく自身があの日考えたことだ。他人のことなんてわかるはずもない。見ることが許されてても、時間をかけることも許されるとしても。誰が間違えたのかとか、誰が悪いのかなんて、もしかしたらわかることなんてないのかもしれない。あのとき、思ったのはそういうようなことだった。


 他の人たちはみんなこれをやる前からやり終えている。でもぼくは自分の考えを手離すのがへたくそだ。やっぱり見たい、そう思ってしまう。

 絆創膏がある。すぐ目の前に座っている男子の機嫌の良し悪しがある。大口開けたあくび、頬杖や沈黙。頑なもの、見せかけだけのもの。じっとしている手。続けていく意志の感じとれるもの。ひじきご飯を見ることは絶対にできないぼくのことがある。時間や背中のことがある。ここにいたいなんて思わない。

 ここにあることをどうしよう、ぼくはそうして見ている。ここに座っている。




 今は、ぼくはこれをよく思い知っておかなくちゃ。今は、ぼくはきっと変なクラスメイトとしか思われてないのと同じように、変なクラスメイトとしか思えない男子と二人、午後四時を過ぎた教室の中。















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